30話 甘い匂い
エリシアは今、非常に困っていた。
困っているし、焦っているし、きっと――いや、かならず怒られると分かっているので、泣きそうでもある。
もし今が夜ならば、魔獣が月の光で凶暴化していて、無事では済まなかっただろう。
だからといって、魔獣に出会ってしまったら、どうなるかわからない。
「……セドリス、アミル」
エリシアが小さく呟いた友の名は、森を吹く風によって掻き消された。
――そう。
エリシアは、一人森にいた。
事の発端は、少し前――
エリシアはこの日、早朝から走り込みをしていた。
といっても、始めたばかりなので距離も、スピードも、お散歩程度だが。
医療士棟の中庭を一周して、その後、騎士棟まで行き、そこの訓練場の周りを一周するというものだ。
それでもエリシアにはなかなかに厳しい距離だった。
最終的には砦を一周したいとセドリスに言ったら、『どうせこの前の感染症の時に、体力不足だと思ったんだろう? 気の済むまで頑張れ』と、全てお見通しだった。
全くその通りで、何かしないと落ち着かなかったエリシアが選んだのが体力強化だった。
足は重いし筋肉痛にもなる。
やっぱりやめようかな。そう思う日もある。
それでも走り終えた後の達成感は気持ち良かった。
そろそろ限界が近くなりながらも、騎士棟に差し掛かった時、見知った騎士と魔法士の見習い達が、五人ほど集まってコソコソしていた。
(んん〜? 何してるんだろ……気になる)
一人を四人が、囲むように円になっている。
明らかに怪しい様子に、エリシアは後ろからそっと近づいて「何してるの?」と、声を掛けた。
驚いた一人が「うわぁ!」と声を上げ、横にずれた拍子にエリシアの足を引っ掛けた。
思っていた以上に驚かれて、エリシアも反応に遅れてしまった。
そこからは不幸の連鎖というやつで。
みんなの意識が逸れた不完全な魔法陣。
しかし、魔法陣は魔力を帯びて光を放った。
エリシアは前のめりになって、そのまま円の中心へ倒れ込んだ。
一瞬のうちに空気が揺れて――
「転移魔法!?」
エリシアがそう叫んだ時には、その姿は皆の前から消えていた。
エリシアがいなくなった空間に、沈黙が落ちた。
「……やべぇ」
と、誰かが声を上げると、非常にまずい状況だと気付いた五人。
それぞれの上司の元へと、目にも止まらぬ速さで駆け出して行った。
そうしてエリシアは、巻き込み事故に遭い、魔獣のいる森の中ただ一人放り出されたのだった。
――そうして、時は今も森の中のエリシアへと戻っていく。
***
「まさか転移魔法の練習してるとは……」
初めての転移魔法で、目を回してしまったエリシア。
今も少しだけ頭の中が揺れているような、不快な感じが残っていた。
とりあえず、自分がどの辺にいるのかを把握したいと、エリシアは周りを確認するが、分かるはずもなかった。
似たような景色がずっと広がっていて、薄暗くて、空気もあんまり良くなくて、小さい頃本で読んだ『森ってとても素敵で澄んでいて、気持ちが良いの!』と言った主人公の気持ちが全く理解できなかった。
「リスなんて絶対いない空気だよ、この森〜」
あまり歩き回るのも良くないかもしれないが、せめて森からは抜け出したい。
「森と砦の間には、戦場になってる平原があるはずで……見張り棟は高いからすぐに分かると思ったんだけど……」
何も見えない。
成人していれば光の鳥を扱えたのだが、エリシアはまだ成人前。
それに加えて索敵や、居場所探知などといった魔法が得意ではなかった。
そもそも生活魔法以外の専門魔法は、一般人には厳しい。
特にエリシアは、医療系の魔法以外が苦手の域に入る。
一旦、何となくの勘で、砦の位置に当たりをつけて慎重に歩き始めた。
「こーわいーけどー、静かなーのはー、もっとーいやー」
小声で即席の歌を歌いながら気分を上げてみても、怖いものは怖い。
風が木々を揺らす音しか聞こえない。
そこから数分歩いた辺りで、エリシアは今まで嗅いだ事のない香りに気が付いた。
「こーのー匂いー……って、歌うの何か癖になっちゃった。ん〜、何だろう草……じゃないなお花かなぁ。新種?」
辺りを見回しても、それらしい花は見当たらない。
「どこから来てるんだろ、この匂い。何か……変に甘いなぁ」
エリシアは、少しの不快感に眉をひそめながら、鼻をすんすんと鳴らして、新種の花らしき香りを嗅ぎ分けようとした。
しかし、今の状況を思い出して心惹かれながらも、好奇心に無理やり何とか蓋をして再び歩き出した。
「でーたー!」
なんと運良く森から抜けることに成功したエリシア。
「うわぁぁ! 良かったぁぁ!」
そこから必死に平原を駆けた。
そして、見習いたちから話を聞いたロデリックとセルシィが、鬼の速さでエリシアの居場所を特定し、迎えに来たのだった。
砦内に戻ったエリシアを待っていたのは、あの見習い五人に、セリオンや、セドリス、アミル、そしてアランといった錚々たるメンバーだった。
それぞれの表情の違いに思わず尻込みするエリシアだったが、脇を固めるロデリックとセルシィにそっと背中を押された。
「……えっと、ごめんなさい」
「エリシアは悪くない! 本当にごめん!」
エリシアが謝った時、見習い五人が揃って前に出て頭をさげに下げた。
「本当にごめん。あんな事になるなんて思わなくて……」
「いーよ、いーよ、私もごめん。驚かしちゃったから」
元々怒っていなかったエリシアは、五人とすぐに笑顔を取り戻したが、その後大人達にそれはもうこっ酷く叱られて涙目の子供達だった。
その時ばかりは、エリシアも「私、巻き込み事故に遭っただけなのに……」と、セドリスとアミルにぼやいていた。
しかし、この巻き込み事故が思わぬ方向へ進むとは、この時は誰も思っていなかった。
***
エリシアが屋敷で眠っていると、廊下の外がざわついた空気になっていた。
夜着のワンピースにガウンを羽織り廊下に出ると、グレイがセリオンの部屋から出てきた所だった。
「おや、お嬢様。どうなさいました? リヴィアを呼びましょうか」
「ううん、いいの。寝かせといてあげて。何かあったの?」
「旦那様に砦に来て欲しいと、連絡が飛んできたんです」
「……そうなの」
「えぇ。お支度も終わりましたのですぐ出掛けられると思います。お見送りなさいますか?」
「……いいの?」
「旦那様が駄目と仰るとでも?」
グレイは柔らかく微笑んで、セリオンの扉に視線を向けた。
「エリシアじゃないか。起こしてしまったんだね。ちょっと砦に行ってくるから、君はちゃんと朝まで眠るんだよ」
セリオンはそう言うと、エリシアのこめかみにキスを落とした。
そして嬉しそうに頭を撫でると、白衣を翻して屋敷を出て行った。
エリシアは何となく感じる不安を抱えながら、眠れない夜を一人過ごした。
翌朝エリシアが医療士棟に行くと、いつもと空気が違っていた。
どことなくみんなから緊張を感じる。
「……なに?」
少し前の感染症の事を思い出して、エリシアの声は不安が滲んでいる。
その時、よく知る声がエリシアを呼び止めた。
「エルシー」
「セドリス!」
エリシアはほっと小さく息を吐いた。
そしてそっと近づくと、「ねぇ、何かあったの?」と尋ねた。
セドリスは、周りを見渡しながら首を振った。
「俺も今きた所だから詳しくは分からないが――どうやら治療室で何かあったらしいな」
「さすが、もう情報知ってるのね」
「いや、さっき叫び声が聞こえた」
「叫び声!?」
二人は、今度はまた何が起こっているのかと、治療室へと続く廊下を見つめていた。




