第九話 見逃す
喫茶オリオンの奥の席。
あまり聞かれたくない話をし、顔をじっくり見られたくない我々には、あつらえ向きの席だ。
会計を済ませた後、結局、もう一度珈琲を飲み直すことになり、私は峯岸禎子と向かい合わせで座っていた。
禎子は付き人とここに来ていた。禎子は私が少し込み入った話をしたい様子なのを察し、付き人に別の離れた席で待つように頼んでいた。
「オオニワさんなら間違いはないだろうから良いって」
禎子はそう言って笑ったものだ。
そして、私の席の隣にはやつがいるのだが、その前には水は置かれていない。
今のやつは、女給には見えていないのだ。
禎子は、やつを無視する女給を不思議そうに見ていた。
その視線の動きを見ても、彼女にだけはやつが見えていることが確実だ。
「イコちゃん。お話というのはですね」
と、私は切り出したものの、やつのことをどう説明しようかと思っていた。
自分の演じていたキャラクタアに取り憑かれてしまい、当の本人は現実に影響を及ぼし始めている。怪異ではあるが、害はない。
などと説明できるだろうか。
元々変人と思われてはいるだろうが、そんな話をして気が狂ったと思われないだろうか。
色々考えていると、
「やはり、お嬢さんは、おれのことが見えているな」
やつの方から口火を切った。
「流石におれが何者かと言うのは、説明が要りそうだが」
「あら」
禎子は少し目を丸くして、
「やっぱり、ただの付き人さんじゃなかったのね」
といった。
「あの、イコちゃん、こやつは……」
「初めは、オオニワさんが新しい付き人さんに当たり役の扮装をさせてるのかなって思ったんですけど、なんだか雰囲気が違うなって。マサさんも見えていないみたいだったし」
「流石のオオニワも、自分の役の扮装させた付き人を連れ回すほど頭おかしくないぜ」
やつが苦笑して口を挟んだ。
「そうですよね」
禎子はくすりと笑って、
「なんだか初めて見た時、あなたの右側がゆらゆらしていて……人間かなあって正直思ってしまったの。でも不思議と悪いものでもなさそうだし」
峯岸禎子は、そう言っていたずらっぽく笑うと、やつの方をじっと見た。
「あなたは、オオニワさんの演じている、あのひとなんですよね?」
「その理解で相違ない。まあおれは、元からオオニワのところにいたわけじゃあねえんだが」
禎子はふうんとうなずいた。
「オオニワさんみたいなすごい俳優さんなら、あなたみたいな本人が取り憑いちゃうってこともあるのね。なんだか納得しちゃった」
禎子は、拍子抜けするほどあっさりとやつの存在を受け入れた。
ちょうどその時、禎子の前に珈琲が運ばれてきた。私の前にも、二杯目の珈琲が置かれる。
もう珈琲はいらないのだが、仕方がない。
そう思って少し眉をひそめると、隣でやつが口元だけでにやりと笑ったのがわかった。
余ったら半分飲んでやるよ、とでも言いたげな顔である。
その時は責任を取ってもらうことにしよう。
女給がいってしまうと、禎子はきらめく瞳で、改めて私とやつを興味深げに見比べた。
「でも、不思議ね。あなたは、普通の人には見えてないんでしょう?」
禎子は行き交う女給がやつにまったく注意を払わないのを、ちらりと確認しつつ頬杖をついた。
「どうして私には見えるのかしら。私、霊感なんてないのよ」
禎子は首をかしげる。
「うーん、それはおれにもよくわからねえな」
やつは腕を組み、少し考え込むように言った。
「だが、お嬢さんは人をよく見ている。そういう微細な空気を感じ取る勘が鋭いんじゃあねえか」
やつはそう言ってからつけくわえた。
「それにな」
やつは肩をすくめた。
「おれは元々創作物……。作家の先生に作られた存在だ。言ってみりゃあ架空の人物ってわけで、現実世界に顕現するには、依代の役者の体が必要なんだ。だから、普通の人間よりも、俳優であるお嬢さんたちの方が、案外親しみやすい存在なのかもしれないぜ」
「ああ、それならわかる気がするわ」
禎子は頷いたが、ふと小首を傾げた。
「でも、それなら撮影所でもっと噂になってもおかしくないですよね?」
やつは苦笑した。
「無論、それはおれも気に留めている。それでオオニワの役者仲間には、なるべく会わねえようにしているのだ」
「それなら安心ですわね」
禎子はニコッと笑った。そして、今度は私の方に視線を向ける。
「それじゃ、オオニワさんは、私にそのことを話したくて探していらしたの? 私がこのひとが見えちゃってるから、周りには黙ってて欲しかったんでしょう?」
「ああいや、探していたというわけでは……」
私は少し動揺しながら答えた。
「イコちゃん。私が君を探していたことを、君は知っていたのですか?」
そう尋ねると、禎子はくすりと笑った。
このませた仕草は少女と大人の間の色気を感じさせたが、同時に健康的なはつらつとした明るさが、いかにも彼女らしい。相変わらず、利発な感じがして、好ましい娘だった。
そして、ちょっと無遠慮に笑う。
「だって、オオニワさん、わかりやすいもの。グリル東雲でも、このオリオンでも、最近、オオニワさんらしきひとがよく来てる、ってきいていて。でも、オオニワさんにしてはハイカラでオシャレなお店に通うなあって。それに撮影所でも、さりげなく動向を聞かれてるみたいだったからね」
禎子は悪戯っぽく言った。
「オオニワさんなら、まず間違いなさそうだから、変な理由で私に会いたいんじゃなさそうだし、何か用事があるのかなって思ったんだけど」
禎子は目を瞬かせた。
「職場で呼び出してくれれば良かったのに」
「それは……、こうした少し込み入った話を職場でするのも、どうかと思ったので」
私はそう説明した。
「こんな私的なことで、イコちゃんには、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「問題ないですよ」
禎子はにっこりと笑った。
「大丈夫。オオニワさんに秘密の付き人がいることは、黙っていてあげます」
そう言うと、目を細める。
「だって、付き人さんに自分が演じていた役の格好をさせて連れ歩いてるなんて思われたら、オオニワさん恥ずかしがりそうだものね。風評被害だわ」
隣でやつが、ここぞとばかり、にやにやと笑い始めた。私はちらりとやつを睨む。
「でも、私、あなたのことなんて呼ぶのが良いかしら、お侍さん」
私とやつは禎子に目を向けた。
「だって、本名で呼んだらみんな注目しちゃうわよ。あなたって、すごく流行ってて有名なんだから」
「そうか。おれも随分知られたもんだなあ」
やつは得意そうだ。
「呼び名は何でも構わねえが、確かに本名は避けた方が良いか……」
「それじゃあ、殿様って呼ぼうかな。確か、本の中でも呼ばれてましたよね」
やつがちょっと嬉しそうな顔になるが、私は口を挟んだ。
「しかし、こやつは本の中では、下級藩士ですから、殿様というほど立派では」
「いいだろう。そんなこと」
やつが横から口を挟んだ。
「おれアもともと、話の中では『殿様』って呼ばれてるんだ。確かに映画的に正しいのは『旦那』ぐらいだけどよ。いいだろう、時代考証だのなんだの」
こいつ。
と、私はやつを睨む。さては禎子に殿様と呼ばれて嬉しいのだな?
「ふふっ。じゃあ決まりね」
禎子は、小悪魔的にかわいらしく笑った。
「よろしくお願いしますね、殿様」
「おう。よろしく頼む」
やつも機嫌よく応じた。
なんとなく話が終わりそうな空気になり、禎子も珈琲カップに手を添えて、私の方を見た。
「あれ? これでご用件は終わりかしら? まだ少し時間はあるけれど」
「イコちゃん。実は本題は、別の話題で」
私は慌てて禎子を引き止めた。
「実のところ……最近、少し困っていることがあり、イコちゃんに話を聞きたくて」
私はゆっくりと切り出した。
「春先。イコちゃんに、桃の花をいただいたあとからなのですが、桜の花の幻を見ることが、しばしば続いているのです。そして近頃は、その桜がだんだん敵意を帯びて、私に襲いかかってくるようになってしまって……」
こんな突拍子もない話を始めれば、さぞ呆れられるだろうと思っていたが、禎子はじっと聞き入っている。
「もしかすると祈祷師のようなものに見てもらった方がいいのではとも考えたものの」
私はやつをちらりと見る。
「そうなると、この男の存在も厄介で。あまり、思い切った行動ができないのです。イコちゃんなら、この男が見えているくらいですから、何か私の身に起きていることに、少し気づいたことがあるのかも、と思ったのです」
「桜の幻……、ですか」
禎子は少し考え込むように視線を落とした。
「そういえば、私……」
ゆっくりと顔を上げる。
「桃の花を差し上げた時、大庭さんの肩に、確かに花びらみたいなのがついていて。そこに人の手に、一瞬だけ見えちゃって。それで、あんな花の話をしたんです」
禎子は続けた。
「私、大庭さんを花桃を見に誘ったでしょう?」
「ええ」
「その時、まだ桜なんて咲いているはずがないのに、大庭さんの肩のあたりに花びらがあったの。それを摘んだ手も……すぐに消えてしまったけどね」
彼女は少し眉を寄せた。
「でも、なんだか良くないもののような気がして……。だから、もっと生命力のある花を持っていた方がいいんじゃないかと思ったんです。それで、花を渡したんだと思うわ」
禎子はちょっと笑って、
「ううん、なんとなくだったから、うまく言葉にできなかったけど、確かにそういうのがあったの」
「桃は魔除けにもなるからな」
やつはそう口を挟みつつ、左目で禎子をじっとみた。
「よくねえものだといったが、お前さんにはなにかの姿は見えたのか?」
「私は霊感とかないもの。はっきり見えたってわけじゃないのだけど、そうね、強いていうなら」
禎子は少し考え込み、それからぽつりと続けた。
「ただ……なんとなく、オオニワさんの花びらを取った手、女の人のだと思う。儚い女の人みたいな感じの」
「女?」
私とやつは、ほとんど同時に声を上げた。
「うーん……でも、女の人が取り憑いてる、って感じじゃないの」
禎子は言葉を探していた。
「どう説明したらいいのかな。見えたのは女の人の手だけど、それだけでもないような」
禎子は腕組みをした。
「なんだかここで決めつけちゃうと、大切なことを見逃しそうだなって」
禎子は唸り、私をまじまじと見た。
「今も見えると良いんだけど、今のオオニワさんには見えないのよね」
「まあ、今は、おれがいるからな。あいつも大人しくしているよ」
やつがそう言う。
「もしかしたら、私の見間違えかもしれないから、あんまり真面目に聞かないでくださいね」
「いや、とても良い参考になりました」
私は、禎子にそう答えつつ、女、という言葉に少し動揺していた。
一瞬、とある女性のことが頭をよぎったのだ。
しかし、禎子の言うとおり、決めつけるのは、大切なことを見逃してしまうことになるかもしれない。七夕の夜、やつが撃退した春の骸は女の声も男の声も持っていた。
悩んでいると、ふと禎子がニコッとして挑発的にも見える目で私を上目づかいに見た。
「オオニワさん、困っているみたいなら、私も今後も相談に乗ってあげますよ。作戦に参加させてくださいな」
「え、いや、しかし。イコちゃんは多忙でしょう?」
「オオニワさんと同じで、長雨のせいで撮影予定が飛んだりしてるの。だから、時間のある時に相談に乗ってあげられますよ」
「おう、それは願ったりじゃあねえか、オオニワ」
丁重に断ろうとした私を遮って、やつが割って入ってきた。
「いやいや、私などに時間をかけては、他のものも良い顔をしないでしょうし」
「オオニワさんなら真面目な人で、間違いはなさそうだから、うちの付き人のことなら、大丈夫よ。それに、オオニワさん、普段はただのおじさんに見えるし。殿様といる方が、映画人だってバレちゃいそうだわ」
「それはそうだ。おれの方が洒落てるからな」
やつがニヤリとした。
「それでは、そういうことでひとつ頼むぞ」
「こら、貴様、私を差し置いて」
私がそうやつを止めるが、禎子もすっかりその気だった。
「ええ、よろしくお願いします。二人とも」
と、その時、私の前にプリンが突然差し出された。
女給がプリンを三つ持ってきていたのだ。あっけに取られる私を前に、禎子は女給に礼を言う。
初めに禎子が何か頼んでいる様子だったが、これだっただろうか。
禎子は女給が行ってしまってから言った。
「ほら、オオニワさんのと殿様の。殿様も食べたいでしょ?」
禎子はニコニコした。
「こ、これは?」
私もやつもさすがにぽかんとしていると、
「これ? これはこのお店の名物のプリンよ。オオニワさんたち、さっきどうせ頼んでいないでしょ」
禎子は小悪魔のような笑みを浮かべた。
「こんな可愛い洋菓子なんて、皆さんみたいなこわもてのおじさんは、滅多に食べないでしょうから」
禎子の微笑みにすっかりおされ、私とやつは思わず視線を交わした。
「このお店でこれを見逃すなんて手はないのよ。……さ、チーム結成をプリンで景気付けしましょ」




