第八話 アミュレット
「坊、落とし物だぞ」
その男は私にそう声をかけて、鈴のついた守り袋を私の手に置いた。
夕暮れ時。山の中が暗くなり始めていた。
「家のものが心配する。もうこんなところにいてはならんぞ。帰りなさい」
男は修験者のようだった。山伏の姿をした逞しい中年男性。
「チャンバラの稽古も良いが、こんな山に暗くなってから入ってはいかんぞ」
ぽんと私の頭を撫でる。男の手は大きくいかつかった。
少年時代の私は、北九州で育った。
父は医者で、存命していた頃は比較的裕福だった。
末っ子同然だった私は甘やかされて育ち、小柄ではあったがやんちゃ坊主であった。
そんな私の故郷のごく近くには、修験道で有名な山があり、天狗の伝説があった。
何かの時、友人達にそこに遊びに行こうと私は誘ったが、彼らはもうすぐ日が暮れるといって嫌がった。
「いさむちゃん、だってお山には天狗が出るって」
「もう暗くなるよ。やめておこう」
そんな臆病な彼らに対し、私は強気だった。
「日が落ちる前に戻ってくれば問題なかろう」
彼らはついてこなかったが、私は意地もあって一人で山の方に歩いて行った。
山の木々を相手に見立てて、一人で木の棒を振り回していたが、思ったより長居してしまった。
初夏の頃、日は長かったが、山に日が落ちるのは早かった。私はだんだん心細くなっていた。
我に帰ると黄昏時の山は、魔の気配を色濃くさせていた。風が吹き渡るとざわざわと音が鳴り、山の奥からわけもなく呼ばれているようですらあった。
そしてその時、男が突然現れた。
「さあ、坊。今からなら暗くなる前には帰れよう。まっすぐ家に帰るのだぞ」
落とし物だという守り袋を渡され、私はなんの疑問もなくそれを自分のものと思った。
そして、素直に男に礼を言うと家に帰った。
守り袋の鈴の音が、しゃんしゃらしゃんしゃらと清らかに響き、不安だった私はなぜか安心して山道を帰った。
聞かん坊の私が、素直に男の指示に従ったのは、それだけ男に説得力と威圧感があったからだ。山伏姿の男は、本当に天狗のように見えた。
家に帰ると、まだ日は落ち切っておらず、家のものに怒られずに済んだ。
ただ、母は私の守り袋をみて怪訝そうな顔をした。そんなものを持たせた記憶はないのに、どこで拾ってきたのだと尋ねられた。
その男とは、以降も山で出会うことがあった。
時にはチャンバラごっこに付き合ってくれることもあった。
まるで牛若丸を育てた鞍馬山の天狗のようだと思った。
そして、男のくれた守り袋は、今でもなぜか私の元にある。
*
「ふーむ、それが天狗のくれた守り袋か」
やつが珈琲を啜りながら呟いた。
今日は完全な洋装ではなく、着流しの上に夏用の灰色のインバネス、黒檀のステッキ、相変わらず中折れ帽を目深に被っているやつだった。
時代劇のキャラクタアのくせに、こやつは珈琲も飲む。どう考えても違和感しかないのだが、本人は平気そうだ。
「おれの生みの親の作家先生は亜米利加帰りだからな。米国じゃあ紅茶より珈琲を飲むのが盛んなんだよ。なので、先生のところにいる時によく飲んでいたもんだぜ」
生みの親の影響があることもあってか、やつは妙にモダンな感覚がある。
いや、元々、やつというキャラクタアはそういう男だった。古色を帯びただけではなく、色んな現代のものを取り入れている気配があるのだ。
飴色の照明の中に、やつの姿が自然と馴染んでいた。
純喫茶オリオンは、モダンかつ落ち着いた洋風の内装の喫茶店だった。
豪華客船の中のような喫茶室は、ビロードばりの椅子でゆったりでき、蓄音機からは洋楽がながれ、優雅なひと時を過ごせる。
提供される珈琲や洋菓子を口にしつつ、雑談に興じるものが多い。客層も芸術家風のものから学生まで、サロンの雰囲気もあった。
私が通うにはいささか小洒落すぎていて、少し気後れしたが、やつは意外にも平気そうで、やつに連れられる形で通っているこの頃だ。
「先生は洋風の話も書いていたからな。なんとなく懐かしく感じるぜ」
ということらしい。
峯岸禎子がここに来るというので、我々は時折ここに立ち寄っていた。
仕事場からも遠くなく、なおかつ、仕事中の空き時間や帰宅前などに、やつとも落ち合うのにも良い場所だ。
グリル東雲にも時折行くが、珈琲と軽食が取れる程度の喫茶店の方が気楽であり、短時間だけでも立ち寄りやすいから都合が良い。
やつは、今日も例によって他人に見えるように、その力を調整して現れていた。
最近は慣れてきており、瞬時に着ている衣装ごと人の目に見えぬようにすることができるらしいが、私にはずっと見えているので、やつのいうことが本当かどうかも含め、実のところよくわからない。まあしかし、騒ぎにはなっていないので良いことにしたい。
ともあれ、私は手に持っていた古い守り袋をやつに見せていた。
やつはまじまじとそれを見ながら、ふうむと唸る。
「確かにただの守り袋ではなさそうだ。微弱ながら、魔除けの類の術がまだある」
「そうなのか」
「しかし、古いものだから、今のお前が身を守るには心許ないがな」
やつも人外のものだから、何かそういう力を見抜けるのだろう。
やつとその話になったのは、いつぞや、グリル東雲で見かけた外国人の夫妻がこの喫茶店の常連でもあったからだ。
やつは社交的な方ではないのだが、話しかけられれば対応くらいはする。それにやつにとって英語を使うのは、先生を思い出すことなのだろう。やつも彼らとは、話したがっているようだった。
夫妻にとっては、流暢な英語を話せるやつは話し相手として貴重な存在であり、挨拶に世間話を少し交わすことがよくあった。やつも愛想良いわけではないものの、親しげに話している。
まあ、英語で話されると、私にはなんの話をしているやらわからないが。
そんな中、その夫人の方が守り袋を手にやつに話しかけてきた。有名な神社の守り袋だが、彼女はそれが何かわからないらしい。
「Ah...It's an amulet」
やつはそう答え、何事か説明したらしい。夫人はセンキュウと礼を言っていた。
「なんと?」
私は少し気になって尋ねた。
ん、とやつは左の眉を上げて言った。
「守り袋がなにかわかっていないから、Amuletだと教えてやった。魔除けだとな」
「あむ、れと?」
「あ、みゅ、れっと、だ」
やつが微細な発音を修正してきた。少し得意げで、なんとなく腹が立つ顔である。
「ふむ、いわゆる、お守り、という意味を持つのはCharmというものとAmuletというのがあってな。チャームというのは幸運を呼び込むためのもの、アミュレットは災いを避けるためのものだ。あの夫人の持っているのは、厄除け守りだったから、アミュレットだと教えてやったのだ」
「なるほど」
「そういえば、てめえも厄除けの守りくらい持っていても良いかもなア」
やつが気づいたように言った。
「あまりに強いもんだと、おれまで祓われちまいそうだが」
よくない怪異としての自覚はあるのか。と、変なところで感心しつつ、
「守り袋といえば、ひとつ、持っているな」
私は思い出して、財布から紙に包んだ例の古びたあの守り袋を取り出し、それにまつわる話をしたのだった。
「この守り袋は、不思議なことに私が九州から大阪に出てきた時も東京に出た時も、持ってきたつもりはないのに荷物に紛れ込んでいた。もちろん、役者になった時も」
私は珈琲をすすりつつ、
「だから今では財布に入れていつももっている」
「まあ確かに。いわくありげなものには違いねえ」
やつは頷いた。
「天狗というのは、たしか、貴様が剣術を習ったとかいう相手だったな。牛若丸よろしく」
「剣術を習ったわけではないが」
「チャンバラの相手をしてもらったんだろう?」
やつはにやりとした。
「どうもてめえの剣術は独特だからな。随分跳ね回るし、天狗の剣術のようなのだよな」
やつは顎を撫でやった。
「おれの剣術も確かに変わっちゃいるが。しかし、おれは基礎的な剣術は習っているから、てめえの剣の異様さがちょっと気にはなっていたんだよなァ。故郷の連中が、お前のチャンバラみて、天狗に教えてもらったんだろうとか噂してるらしいが、まんざら間違いでもなかったわけだ」
「あのひとが、天狗だったという確証はない。そもそも、山伏の来る山であったし……。それに天狗は子供を攫う側だろう?」
「それはそいつによるだろう。人間にも人間でないやつにも色んなやつがいるものだ」
やつは珈琲を飲んだ。
「しかし、その守り袋は、明らかに貴様の守護にはなっているからな。大切に持ち歩くといいぜ。だがまあ、あのしつこい春の骸にゃ、ちと荷が重いが」
そんな話をしながら、純喫茶オリオンでの時間がゆっくり過ぎていく。
今日もどうやら店に峯岸禎子の姿はなさそうだ。
自分が考えたものの、この作戦の非効率さはいかなものだろうか。
とはいえ、喫茶室でのモダンかつゆったりとした時間は、忙しい日々を送る私にとっても非日常的な癒しを与えるものだ。
もう禎子に会わなくても、良いのではないか。そんなふうにも考えてきていた頃だった。
「今日も彼女はいないようだ。帰るか」
私がいうと、やつも肩をすくめた。
「そうだな。まあ、会えなくても、ここでてめえと打ち合わせするのも悪くねえ。また来ようぜ」
「そうだな」
「……おれは『姿を消す』からあとはよろしく頼むぜ」
やつはそういうと席を立つ。どのタイミングでやつが他人から見えなくなるのかわからないが、自然な形で人に気づかれなくなるようだ。
私が会計を済ませる間に、店に入ってくる新しい客が何人かいたようだ。私はそれにさして目を止めず、先に店の外に出たやつを追いかける形で出ようとしたが。
「待って。落とし物ですよ」
不意に女の声で呼び止められた。
振り返ると、洋装の少女が私にあの守り袋を差し出していた。
「お財布を取り出した時に落としたみたいよ。だめねえ、気をつけなきゃだめですよ、オオニワさん」
名前を呼ばれて、私は礼を言うより先にぎょっとしていた。
「イ、イコちゃん?」
小声でつぶやく。
そこにいるのは峯岸禎子だった。といっても、今日はいつにも増しておしゃれな洋装を纏っていて、フランス人形のようだった。
禎子は無邪気に笑うと、私の背後を見透かした。
「オオニワさん、今日はあの付き人さんと一緒なんですね。インバネスを着こなして! オオニワさんより、オシャレで格好いいじゃないですか」
あはは、と笑ってからかうように言う。
いつのまにか、やつがそばに来ていたが、やつもぽかんとしていた。
禎子はやつを認識している。
そう、もうやつの姿は、他のものには見えていないはずだったのだ。
やはり、禎子には、やつの姿が見えている!
「イコちゃん、少しお話があるのですが、時間はありますか?」
そう尋ねると、禎子はにこりとして。
「仕事の合間なんです。でも、オオニワさんがそう頼むなら断れないなあ。いいですよ。ちょっとだけなら、時間を作ってあげる」




