第十話 大学
帝国大学の学生たちが、ちらほら目の前を通り過ぎていく。
青春の最中の若者たちは、煌びやかな陽光の降り注ぐ並木道を歩いていく。
仕事の都合で立ち寄ったここは、帝国大学が近く学生がとても多かった。
私は、付き人のマサと落ち合うために道を進んでいた。
目の前を楽しげにゆきかう学生たち。彼らは夏なので、白い詰め襟や開襟シャツを着ていた。
人生の春を謳歌する彼らの爽やかな様子は、私にはいささか眩しい。
また、かつて役者としてデビューを飾る前、私は演劇学校にいて、帝大の舞台に立ったこともあった。そんなことも思い出し、少し面映い気持ちになった。
学生たちは思い思いに歩いていく。
そういえば、私のフアンの層は主に彼ら学生だった。監督の先生の趣向もあり、私には彼らのようなインテリ層のフアンも相当数あった。
普段の私といえば、ただのもっさりとした中年男にしか見えないだろうから、正体を一目で言い当てられるものはまずなかろうが、あまり彼らの周りを歩くのもよろしくないだろう。
騒がれるのは本意ではないし、普段の私を見せるのも気が引ける。特に今日はまったく仕事の時の覇気など備えていない私だ。虚像を売る私たちは、彼らを幻滅させてしまわないよう、それなりに気をつけているものではある。
と道を変えようとしたところで、声が降りかかった。
「羨ましいなあ」
そろそろ落ち合う場所だったが、この声はマサではない。むしろ、その声はやつだった。
「若い奴らは」
やつは心底羨ましそうに言った。
「何がだ」
振り返ってもやつの姿はなかった。
姿を消しているのだろうか。
「なあ、この間の新しいカツドウ見たか」
「今度行こうぜ」
近くの学生の話し声がするだけだった。
聞き間違いだろうか。
そう考えながら、並木道に入ったところで、雨が一粒降りかかり、私は蝙蝠傘を開こうとしたところで。
「羨ましいなあ、若い奴らは」
もう一度声がした。
今度は、いつのまにか、やつが後ろに立っていた。
近頃、外に出るときに使っている灰色の夏もののインバネスと着流し姿。中折れ帽で半ば顔を隠している。
今日は右側の体が空間に溶けそうに見えた。
「どうした? 今日はどこに行っていた?」
仕事の時はやつはみだりに同行しないので、別に姿を見ないこと自体はおかしなことではない。そういう時は、やつはやつで何か暇つぶしをしている。
「帝大だ」
「ほう? 珍しいな」
私はそう答えた。
「何の用事があったのだ?」
率直に興味があってそう尋ねたが、やつは即答しなかった。
代わりにやつは囁くように言った。
「羨ましいよな、貴様は。学生が羨ましいだろう」
やつの声は、うっとりとしていつもよりも優しかった。いつもの棘はなく、やつが時折、エモノにそうする時のように、ねっとりとしていた。
斬った人の脂が吹き出すような声。そんなふうな描写が本の中にされていたが、まるでそんな調子だった。
私は一瞬ぞっとして、やつの方を見ようとしたが、急に体が動かなくなった。
「てめえが本当は学校に行きたかったことを知っているぜ。……残念だったよな。金さえあれば……好きなところに行けたのに」
やつの声は同情的だ。
ふっと空から降る雨の雫が黒い花びらに変わった。周りに黒いもやが立ち込める。
やつの声がさらに続いた。
——羨ましいなあ、学生が。てめえだって学校に行きたかったのになあ。
やつの声に似ている。しかし、やはりとても冷たい。
——知っているぞ。行けなかったこと。お前はその時どんな気持ちだったか?
やつの声はただ優しく、それだけに私は慄然として立ちすくんだ。
そんな私を、後ろから何も知らない学生達が追い抜いていく。そして、学生が走った後を、後ろから風と共に黒い花びらが吹き抜けて——。
——オオニワ!
黒い手が私の肩に置かれた。
触った瞬間は冷たいくせに、握られると火傷しそうなほど熱い手だった。
目の端で見えるその手に桜の花が咲いていた。一重、八重? わからない。薄い紅の色の花が不揃いに見える。
——悔しいだろう。お前の気持ちはよくわかるぞ。
やつの声でそれは言う。
桜の花が後ろで渦巻いているのを感じ、私はこれはいけないと思った。
その時。
ビュッと、白い光が曇り空の薄い日光にひらめいた。光は私の眼前を通り過ぎ、私の背後を払い除けた。
若い青年や子供の悲鳴が多重に聞こえて、黒い手が花びらに変わって飛び散った。
「てめえ、おれのシンパか?」
いつのまにか、棘を含むいつもの声が割り込んできた。
「おれの真似をするには、少し修練が足りんな。学生芝居の方がよほど良い演技をするぞ」
白い着物の男が、いつのまにか目の前に現れていた。
やつだ。
狐の面を被り、白い着物の着流し。
先ほどの洋装のやつとは違い、人間の目に見えないようにしている時のやつの姿だった。
気がつくと、私を掴んでいた手や背後の桜の花びらは消えていた。
「オオニワ、大丈夫か」
「ああ、助かった。すまん」
珍しくやつにそうきかれ、私は素直に礼を言った。
もう全てが消え去り、気配もなかった。
「春の骸か……」
私がポツリとつぶやくと、やつが肩をすくめて皮肉っぽく言った。
「まったく、あの野郎、おれに化けるとはな。それにひっかかるオオニワの目は相変わらず節穴だが。一人歩きはするな、気をつけろと言ったのに、まったく」
本物のやつは、春の骸の作り出す偽物と違い、随分棘のある皮肉っぽい、しゃがれた声をしている。
「まったく面倒な年季の入った怪異だぜ。手間ァかけさせやがる」
そういう貴様の方こそ、面倒な年季の入った怪異のような態度だな、と思ったが。
助けてもらった身なので、反論するのはやめておいた。
*
「帝国大学で芝居をしていてな」
別荘に帰るなり、やつは言った。
「おれはこういう身の上だから、意外に芝居というものには興味があるのだ」
「観に行っていたのか」
「そういうことにはなるな。暇を潰すのに良かったぞ」
今日のようにしていれば、人間には姿の見えないやつは、暗がりに身を潜めて芝居を観るのには適しているのだろう。むろん、木戸賃も払わずに済む。
「大学というのも興味深いところだがな。おれは大学は知らねえが、すこしなら先生に聞いておる」
やつはそう言った。
「おれの先生も大学には行ったらしいが、不良学生で中退して亜米利加の学校に行ったらしい」
「なかなか波瀾万丈だな」
率直に感想を述べるとやつは笑い、
「その前の高等学校時代はバンカラで、棒持って殴り合いしていたらしいぜ。うちの先生、六尺くらい背丈があったらしいから、喧嘩は無双だったんだとよ。その後、先生曰く無実の罪で放校処分受けているぜ。さすが、先生はやる男だよな。尊敬しちまう」
なんとなく得意げなやつに、私はため息をつく。
「お前の先生が、お前を作り出した男だということがよく理解できた」
私はふとやつを見やった。
「貴様自身はどうなのだ。当然大学などはないだろうが、学ぶことはあったのか」
「おれは、詳しい過去は不明の設定だが、おれはこれでも藩士だからなア」
やつは少しにやりとして、
「ここにいる『おれ』は藩校を出ていることになっている。だから、当然、漢文の素読などは余裕だな」
それは予想はついていた。武芸一辺倒に見えて、やつには一般的な教養はある。
「まじめな学生だったとは言い難いかもしれねえが、学生時代の楽しさと言うのはわからねえでもねえ。それもあって、楽しそうなあいつらを、少し観察していたのだ」
やつはいった。
「先生の読者やお前のフアンは、高等学校や大学の学生どもも多いだろう。それだけでも興味は湧く。特におれはニヒリストとかいわれる連中のひとりだから、やつらとも親和性が高いのだ」
「まあそれはそうだな。学生は未来もあるが、悩み事も多い年頃だ」
ふむ、とやつは唸った。
「しかし、おれは正直、ほかのやつらと違って、ちゃんと仕官しているからな。下級とはいえ藩士を務めているから、浪人しかしていないやつよりは社会をわかっている。いわゆる、サラリイマン経験があってな」
やつは不似合いなことを言う。
「正直、他の奴らと同じく、ふらふらしているだけの悪党のように扱われるのは、少し気に入らねえところもあるのだが」
どう考えても怪人物なやつではあるが、確かに仕官の経験があり、それゆえにそれなりの苦労はしてきた男ではあるのだった。
と、やつが不意に話を変えた。
「それはそうと、オオニワ。あの春の骸に学校のことで言われていたな。なにか事情でもあったのか」
私はうむ、と重くうなずいた。
「いや。少しな」
「そうか。学ぶというのも、それぞれの事情により難しいこともあるからな」
やつはやつにしては気を遣った言い方をした。
その言葉に私は少し考えてから言った。
「今日のことでひとつわかったことがある」
やつは左目だけを瞬かせて、私を見た。
私は言った。
「峯岸禎子が言っていたように、春の骸は女とも限らないのかもしれない」




