第十一話 直線
「なんだと?」
春の骸の正体は女とは限らないかもしれない、との私の言葉にやつはそう聞き返した。
「さっきのがおれの声をしていたからか?」
「いや、そうではない。別の理由だ」
私は答えた。
「……禎子は、女だと決めつけると大切なことを見逃すかもしれない、とも言っていたが、私もそう思う」
ふむ、と、やつは猫背をますます前のめりにして、左手で顎を撫でた。
そして、少し考えた後尋ねてきた。
「オオニワ、お前は学校に行きたかった過去がある。もしかしたら、春の骸は人生の後悔や傷に関連があるのかもしれぬ、と思っている?」
うむ、と私は頷いた。
「そうかもしれない」
私は言った。
「確かに、あのことは私の心の傷にはなっているのだろう」
*
「学校、辞めないとならないの」
私は母にそう尋ねた。
母は何も言わずにそっと頷いた。
母は私を溺愛してくれていた。兄弟のうちでも下から二番目の男子の私は、母の寵愛を受けて育った。
そんな母でも、私の要求に応えることは難しい現実があった。
私は、悔しくて人目に付かぬところで泣いた。
父を早くに亡くした我が家は、急速に零落し、経済的に困窮することになった。
兄たちが働いてくれていたが、それでも私は中学校を中退することになり、代わりに学卒後、すぐに仕事にありつける商業高校に通うことになった。
それでも学生時代は剣道に精を出すこともできたし、他のものに比べると恵まれていたと言えるかもしれない。経済的な理由で高等教育を受けられないものは、珍しくない時代だった。
ただ、私はその頃、ある強い憧れを持っていた。
私は、本当はその時、早稲田大学に入りたかったのだ。憧れだった。
そして、その憧れを捨てられず、社会人になって関東に出てからも、文芸雑誌を読み漁り、小説を書いて投稿したりもしていた。
若い頃の私は、文学青年だった。それゆえに憧れは消えずに、学校で学べなかった事実が傷になっていた。
その後、脚本家志望だった私が何の因果か俳優になってしまったのは、運命の悪戯とでも言うべきかもしれない。
私は今の私の生活に、差し当たって強い不満があるわけではない。世間的には成功者であるし、傍目からは贅沢な暮らしができている。
それでも、若い頃にかなえられなかった願いは、どこかで澱のように静かに沈澱し、時折、鋭い爪になって心を引っ掻くのだ。
今更、それをどうすることもできないのにも関わらず。
*
「春の骸とは、もしやそのようなものなのではないか」
私はつぶやいた。
「春の、若くまだ何も知らない頃の後悔に、取り憑いたなにか」
やつは黙って聞いていたが、ふーむと唸った。
「てめえにしちゃあ、ちょいと感傷的すぎる気がするが、まあ言いてえことはわかる」
やつは言った。
「おれも貴様も、若いって感じじゃあねえからな。十分に過去のある大人の男だ。おれなどは外見的にも過去の苦い記憶を引きずっている異形だが……」
とやつはちょっと自嘲して、
「普通に見えるやつも、見えねえだけで心の内に深い傷跡があろうもんだ」
「あの怪異は、人のそう言うところにつけこむものなのかもしれない」
「なるほど。それなら、何となく合点はゆく」
やつはうなずいた。
「てめえの今の推理は納得のできるものだ。女の幽霊というわけでもないという、禎子の見立てにも合致するからな」
ただ、と、やつは背を伸ばして天井を見た。
「お前がいかに怪異にとって美味な人間だとしても、よりによって、なんで貴様に取り憑いたものかな」
やつは考え込む。
「確かに、貴様は当代のスタア様。そうして人目を惹きつける人間は美味なのだ。だが、おれが取り憑いていることは相手もわかっているだろう。他にもっと寄りつきやすいものはいるだろうに」
やつは一つ目で目を細めて私を見た。
「大体、オオニワ、あれをどこで拾ってきた」
「それは私もわからん」
私はぶっきらぼうに言った。
「私の方が知りたい」
「それはそうだろうな」
やつは素っ気なく言う。
「まあしかし、お前も随分曲がりくねった道を辿って役者になったものだな。てめえの剣術はむしろ直線的なのに、対照的だぜ」
「そうか?」
「まっすぐ飛び込んでくるだろう? 走る時もどこまでもまっすぐに見える。ちょっと真っ直ぐすぎるがな。てめえはもう少し曲がった方が良いぜ。変わり者っていう意味では曲がってるんだが」
といいつつ、
「まあでも、何故かおれを演るときには斜めになるんだけどな」
「お前の真似をすると、右側が使えないからバランスが取れんのだ。走っても絶対に斜めになる」
私がそう抗弁すると、やつはにんまりし、
「それは鍛錬が足りねえ。おれは問題なく、まっすぐ走れるぜ」
ふと、やつは思い立ったように、目を瞬かせた。
「しかし、貴様、何故、早稲田なのだ?」
「む?」
「学校は他にあるだろう。実際てめえだって、別の高等学校にも行ったわけだ。早稲田といや、上京しねえとならねえし、そりゃあ経済的に通学が無理だと言われてもおかしくねえ」
「それは、だな」
私は少しためらってから、
「……好きな、役者の出身が、早稲田だから」
小声でぼそりと答える。あまり聞かれたくなかった。
「は?」
やつが聞き返してきた。
「尊敬していた舞台俳優の出身が早稲田だからだ!」
私はやぶれかぶれになってそう告げると、やつは意味がわかって、ほほー、と言った。
「なるほど。ああ、さては、ニヒリスト剣士を演じたことで有名なあの先生! お前も世話になったんだったな?」
やつは途端にやつき、
「ほほう、その先生の出身校てわけか。へええ、それでなあ、憧れの学校だったと?」
「うるさい。からかうなら放り出すぞ」
やつを睨みつけてそういうと、やつは怖い怖いと少しおどけつつ、
「こいつは、新しい発見だ」
やつは私の直線的な視線をはずすように、斜めから見上げて皮肉っぽくいうのだ。
「てめえにも人並みに可愛いところがあるんだなあ、オオニワ」




