第五話 旅人
人生は旅のようなものとは、昔からよくいうことだ。
かの松尾芭蕉も、月日は百代の過客にして行き交ふ年もまた旅人なり、と記したものだ。
そういう意味では、私もまた行くあてのしれぬ道を歩く旅人のようなもの。
いずれ暮れていく黄昏時にむけて、ゆるやかに、当てどもしれないまま歩いていくだけの存在なのかもしれない。
そして、行くあてもしれぬのは、おそらくやつも——。
*
桜の幻がちらつくようになって、しばらくが経過した。
やつは女優の峯岸禎子に相談しろと言ったが、相手は評判の少女スタアでもあり、そう簡単に出会わない。それはそれで機会を伺うとして、私はやつの協力もあり、さほど危険な目に遭わずに過ごしている。
しかし、油断はできない。
やつは基本的には私に憑いてはいるのだが、仕事場や家庭には来ない。やつ曰く、人の多いところでは、あの春の骸は襲ってこないということだったが、それとて保証のないことだった。
幸いだったのは梅雨時で雨の日が多く、撮影が中断することが多かったことだろうか。やつが比較的私に干渉しやすい環境だった。
しかし、じきに梅雨も明ける。そう悠長なことは言っていられない。
早く対策を考えなければならない。
*
しとしと降る長雨の日。
私は別荘を訪れていた。
珍しくやつは不在で、私はひとりで部屋に座り、本に目を通していた。
やつ曰く。
この庭は清浄だから、家の中まではなかなか入り込んでこないこと。
やつが不在でも、基本的にはここでは春の骸は襲ってこないと言っていた。
確かに、この別荘にはやつの気配がしていた。彼らにも縄張りの問題があるらしい。
と、不意に戸口でばたばたと音がした。
今日は付き人のマサがいないし、私はやつの来訪だと気づいていた。
「やれやれ、こう雨が続くと本当に稼業があがったりだ」
やつは被っていた編笠を払っていた。
合羽を着ていたようだが、どうやら濡れてしまったらしく、隣で着替えている気配がある。近頃は、やつもここにいることが長くなり、一張羅もかわいそうなので、やつ専用の着替えを作ってやったが、やつときたら遠慮なくそれを着回していた。図々しい。
「どこに行っていた? こんな雨の中」
襖を開けて入ってきたやつを私は見上げた。
濡れた頭に手拭いをかぶり、やつは水気をうんざり厭いながら、ため息をついた。
「雨だから動きたくねえ気持ちもあったんだがな、近くで蠢いている奴がいたもんで、ちょいと様子を見に行ったのだ」
と、やつの口から黒いものがはみ出ている。それは煙のように黒いもやを漂わせていた。
私はやつを睨んだ。
「そういうものを喰いながら喋るな。そして、戸口の外で喰い終わってから入って来い」
「おお、こいつぁ、少し行儀が悪かったな」
やつはそう言って、ずるっとそれを啜って飲み込んでから、私に左目を向けた。今は顔の右半分は手拭いに隠れて見えないが、見えていても暗く見え不確かなものだ。
こういう時、こいつもまた怪異なのだと私は実感する。
「雨続きで周辺の狩りをしないでいたところ、あまりにも目に余るものが湧いていたので、やってきたのだ」
「ああ、殺ってきたのだな」
「人聞きが悪いな。おれたちの世界には、そういう規則があるとも言ったろう。弱い奴を喰って、格を上げていく。どうせ人間に取り憑くような害しかねえロクでもねえやつらだ。おれが少しくらい喰っても人助けになろうというものだ」
「善行なのかどうかはわからんが、まあ、それはそうだな」
やつは使ってきたと思しき刀を壁に立て掛けつつ、どさりと座った。
「それで、てめえは何をしている」
「雨だからな。仕事も進まんので、気分転換にここにきた。ここは静かだ。雨のしとしと降る音だけが聞こえるから落ち着く」
「ふっ、相変わらず辛気くせえな」
やつは手拭いで頭を拭った。私は尋ねた。
「そういえば、先ほど編笠を使っていたな」
「ああ、おれも武士の端くれだ。それに、貴様が前に使っていた小道具にもあっただろう。だから、編笠くらい使う」
「まあそれはそうだが」
やつはふふんと笑う。
「おれはこれでやくざものじゃあねえから、三度笠と合羽を着るわけにはいかねえからな。お前はそっちの衣装もよく着ていたが、拝借するわけにもいかねえ。調達はそこそこ苦労したんだぞ」
それもそうだ。
私は今でも、時々股旅物の主人公を演じることがある。三度笠に道中合羽の、旅をする侠客たちは、時代劇では定番の英雄なのである。そして、彼等は例外なく格好良く、時に官憲に追われている。そんな彼らにはさすらう旅人の哀愁が滲むものだ。
私は特に、若い頃に国定忠治が好きだった。
役者になる前に脚本を書いたこともあるし、また、やつという役柄を得る前に、もっとも評判の良かった作品で演じたのも国定忠治だった。
ひとつところにとどまれない悲しみ。追われる最中に精神も肉体も病んでいく彼を、格好良くも哀れに演じたものだった。
「お前は着のみ着ままで旅をするような男だが、それでも武士だ。確かに三度笠など被せるわけにはいかんな」
私はそんなことを思い出しつつそういうと、やつは当たり前と言わんばかりだった。
「おれは別に旅をしているわけじゃあねえからな。不浄役人に追われて常に移動していなきゃあならねえあいつらとは、また違うというわけだ」
とはいえ、やつもまたさすらう男ではある。やつの旅には目的などないし、誰に追われるでもない。定住しようとすればできるだろうが、まるで流れていくのが性分といったところがあった。
思えば、こうして肉体を得てからのやつもまた、さすらい流れてきた。
やつの生みの親の作家先生のもとで、時にシベリア鉄道に共に乗って旅行をしたというやつ。やつをはじめそのキャラクタアは、先生の話し相手となり、孤独な執筆の時間を慰めたという。
しかし、先生が亡くなり、やつは寄る辺がなくなった。帰ることもなかったやつはふらふらと流れて縁の深い私のところにまで流れついた。
それが、やつの語るところの事情だ。
そう考えると、やつもまた旅人ではあるのだった。
「まあ、おれは今はこうして雨風しのげる場をもらったことには、それなりに貴様には感謝しているのだぜ、オオニワ」
不意にやつが言った。
「流石のおれも、このような天気の中、彷徨い歩くのは骨が折れる」
「都合の良い時だけ感謝するやつだな、貴様は」
「何も言わねえよりは良いだろう」
確かに。
と私は思った。
もし、やつが私を見つけられなかったら、やつはその存在自体が危うかったかもしれない。やつは想像上から生まれたもので、こうして怪異に近しい存在にはなったが、現世に留まっているには寄りつくものが必要であるようだ。
依代というものが。
そうでなければ、やつは不確かな存在になってしまう。
だからこそ、作家先生なき今、やつは自分を受け入れてくれる相手を探さなければならなかった。きっと、他のものの前にも現れたに違いない。
私と一緒に作品を作り上げた監督の先生をはじめ映画の関係者、作家先生の家族や編集者。やつと彼らにどのような交渉があったか、私は知らない。
ただ、私ほどやつに近いものはいなかったのかもしれないし、また、やつが他の誰かに見られずに潜める環境を提供できるのが私だけだったということもあるのだろうと思う。
そして、私は俳優だからやつが顕現する為の依代として理想的なのだ。
結果的に、やつは私の元に辿り着くことで、安定して存在を保つことになった。
外の風雨を感じながら、確かにやつがここで雨宿りができるのは良いことだったろうと私は思う。
「ところで」
と、やつが言った。
「もう夏とはいえ、こんなに雨に降られちゃあ、体が冷え切っちまう。酒の一つでも出してくれねえか」
「図々しい」
私はそう吐き捨てながら。
しかし、旅の厳しさに思いを馳せて、今日のやつの無礼は許してやることにした。




