第三十一話 花宵-1
「まさか、あの時出入りしていた事務員の大庭くんが、大丹羽勇次郎やったとはねえ。みちがえたなあ。気づかんかったですよ」
曙洋行の社長であった文世の父、朝倉家の当主は、すっかり白くなった頭をかきやりながら私を見た。
私も、うっすら彼のことは覚えていた。気さくな人物だったが、流石に何度も交流があるわけではない。
寧ろ、彼が一介の平社員だった私のことを、かなり明確に覚えていたことの方が驚いた。文世のお気に入りの事務員ということで、よく覚えていたのだという。
彼は、文世がどれだけ私のことを気に入っていたかの思い出話をしてくれたものだ。
「今更ながらお嬢様のことを、パトリック・オハラ氏から聞きまして。せめてお嬢様を偲び、お線香をあげさせていただきたく」
そう申し出た私に、朝倉の当代は寂しげに、しかし嬉しそうに微笑んだ。
「それはそれはご丁寧に。文世のことを覚えてくれてありがとう」
私が、朝倉文世の墓参に出かけたのは、梅雨が明けてしばらくした、七月の終わりの日だった。
仕事がちょうど空いていたのと、翌日が文世の月命日だったので良い機会と思ったのだ。
その日は、梅雨が明けたというのに、あいにくの雨の日だった。
「オオニワ、お前、雨男なんじゃあねえか? せっかくの日に雨とはな」
まだしも文世の涙雨と言われた方がよいような、無神経なやつの皮肉だ。
むっとして、私はやつを睨んだ。
「雨男は貴様かもしれんだろう?」
「おれは雨に降られた記憶はあまりねえよ。お前のところに来てから、ずいぶん巻き込まれている」
その日のやつは、相変わらずパナマ帽に銀鼠のケープ。その下は夏物の着物の装いだった。
他人から見えている状態を保っており、やつの目つきの悪い伊達男ぶりは、付き人にしては目立つ。
今日は、私が大阪についてこいとも一言も言わないのに、自分から率先してついてきたやつだった。文世には、やつも思うところがあるのだろう。
「雨が嫌なら、別荘に帰って寝ていろ」
私は不機嫌に言った。
「この間、ボロボロにやられたのだろう。格とやらが落ちたのではないのか? 養生した方が身のためだ」
「オオニワ、風評被害だぞ。おれはやられてなどいねえ」
今度はやつが不機嫌になった。
「そりゃあ、手強い相手だったから、少しはやられはしたがな。あの後、散歩中に怪異を三体も返り討ちにして喰ったから、かなり回復したのだ」
第一、と、やつはニヤリとした。
「弱っていたら実体化はできねえからな。おめえにもよくわかったろう。こいつは、おれにも負担があることなのだ。よって、もっとおれに感謝してほしいものだぜ」
「ついてきてくれと頼んだ記憶がない」
私はぼそりと言ったが、やつはわざと聞いていないふりをした。
「まア、今日は、付き人のハセガワ。通称ヘイズとして、てめえについていてやろう。マサを休みの日まで引き摺り回すのは可哀想だからな」
「お前のような態度のでかい付き人がいるか」
私はそう言い捨てたものだ。
*
「本当に心配したんですよ!」
禎子がかわいらしく膨れっ面をしていた。
「二人とも全然帰ってこないし。諦めてマサさんと宿に戻りましたけど。それでも心配だから、帰ってきたら教えてって撮影所の人に頼んだんです。眠れない夜を過ごしたのに、本当に、一晩経っても帰って来ないんですもの」
禎子はわかりやすく怒ると、
「もう、二人ともどうかなっちゃったんじゃないかと心配して、マサさんに探してもらったら、別荘で寝ていたなんて」
「そ、それはすみませんでした」
禎子に怒られ、私は素直に謝った。
純喫茶オリオン。
相変わらず、落ち着いた瀟洒な時間が流れるこの喫茶室だった。
禎子と私、そしてやつは、あの後のことを禎子に報告するのに、いつもの席に集まっていた。
禎子も彼女をつけまわしていた不審な男が逮捕されたので、ようやく安心したらしい。誘拐未遂の罪もさることながら、こまごまと余罪もあったので、しばらく勾留されることになったらしい。脅かされていない禎子の、その顔は晴れやかだ。
しかし、話があの日の当日に及ぶと、急に不機嫌になり、私とやつはお説教を食らっていたのである。
確かにあの後、私とやつは揃って疲れ果て、昼まで寝込んでいたのだ。
私は衣装を脱ぎすてただけで、化粧をきちんと落とさずに寝ている有様で、それこそ泥のように眠っていた。
そこを、連絡が取れないので探しにきたマサに発見され、心配する禎子に伝えられたのだった。連絡もせずにぐうぐう寝ていた、ということで怒られても仕様のないことではある。
「だがよう、禎子」
やつがおそるおそる口を挟む。
「おれたちも、なかなか大変で。ちょっと人様に見せるには、気が引けるボロボロ具合だったからなあ」
やつが禎子を宥めるように言った。
「とにかく、表に出られねえ格好だったんだ。許してくれよな。特にオオニワなんざあ」
自分もひどい有様だったのに、こういうところでちょっとひとを貶めてくる。むっとして睨んでいると、やつはさらにこう言った。
「お詫びにオオニワが、なんでもごちそうするからよ」
「また勝手に、そのようなことを」
私はやつを睨んだが、禎子への謝罪の気持ちは確かである。今回は世話にもなった。
「けれど、イコちゃんに埋め合わせしたい気持ちはあります。是非、何かごちそうさせてください。イコちゃんの食べたいもので良いですよ」
私がそういうと、禎子は小悪魔的ににっこりした。
「あら、そんな約束して良いの」
禎子は悪戯っぽく笑う。
「そんなこと言うと、グリル東雲のご飯をお願いしてしまいますよ?」
禎子は私が少し洋食が苦手なことを踏まえて、ちょっぴり意地悪めいて言っているらしい。やつがそれに乗った。
「それは良いな。おれもグリル東雲の飯は好きだぜ。ビフテキが食いたいところだ。もっとも、オオニワ先生は苦手かもしれんがな」
私は調子のいいやつを睨みながら、ため息をついた。
「いいですよ。別に。苦手ではありません! たまには洋食を食べたくなったところです!」
私はやぶれかぶれに言った。
「グリル東雲でもなんでも任せてください!」
ちょっと開き直ると、禎子が私とやつの様子を見て笑った。
「ふふっ、それなら楽しみにしましょうか」
ひとまず、禎子には手打ちとして、お詫びのプリンを奢ることになった。
これで機嫌を直してくれるなら安いものだ。
「でも、文世さんは、簪を見て、本当に探していたものを思い出してくれたんですね」
出されたプリンを食べながら、禎子が言った。
「ええ。私も彼女のことを、簪で思い出しました。思えば、彼女にはかわいそうなことをしましたね」
私はため息をついて、珈琲カップを手に取った。
「私があの日横浜にいなければ、そもそも彼女は——」
「それは、オオニワさんは何も悪くないですよー」
禎子がスプーンを振りながら言った。
「全部偶然のことですし、それで気に病まれたら、文世さんの方が困りますよ。……というより、実際困っていたと思いますよ?」
「そうでしょうか?」
私が珈琲を飲みかけた手を下ろし、目を瞬かせると禎子は力強く言った。
「当たり前です! ほんと、オオニワさんは、乙女心がわかっていませんね」
禎子は不服そうに言った。
「私は春の骸に取り憑かれましたからね。その時に文世さんの気持ちが、わかったんですもの。だから……、あーあ、わかっていないなあ」
禎子が呆れ果てたようにため息をついた。
「文世さんは、オオニワさんが大好きだったんですよ。あの日も会えて嬉しかったに違いないです。乙女心っていうのは、そういうものなんですよ」
「し、しかし……」
禎子にそう叱られて、私が戸惑っていると、隣でやつが囃し立てるように言った。
「そうだ。禎子、もっと言ってやってくれ。こいつは、本当に鈍いんだよな」
お前にだけは言われたくない!
私はやつを睨んだ。絶対に乙女心など理解しているはずもないくせに。
「オオニワさんたちが脱出できた先が、オオニワさんのお庭だったのだって、乙女心からのものだと思いますからね」
「それは、なんとなく、わかっていますよ」
なんとなく、と言ったのが、禎子に怒られそうだったが、彼女はその揚げ足は取らず、
「文世さんは、春の間は殿様が見過ごしちゃうような弱くて小さい存在を装って、オオニワさんに取り憑いてたんですよね?」
「まあそういうことだ。おれも初めは気づいたんだが、取るに足りねえと思っていた。その後は存在自体をうまく隠していたからな」
そこはやつにとっては失態ではあるらしく、やつは少し気まずそうだった。
「でも、その期間は大切だったんですよ」
禎子は強く言った。
「その間、オオニワさんと一緒に過ごせたんです。あの別荘やお庭は、うまくすればオオニワさんと二人だけになれる場所だものね。怪異となった文世さんの幸せの記憶の場所なんですよ。だから、そこに送り届けてくれたんじゃないかな」
禎子は、ため息をつく。
「文世さんは、オオニワさんが初恋だったのかしらねえ」
「まさか」
私は苦笑した。
「後の私ならまだしも、当時の私みたいな冴えない若者に、それはありませんよ」
「そういうのが、オオニワさんのダメなところだなあ」
禎子がしみじみとため息をついて、肩をすくめた。
と、ふと入り口から男女が二人、店に入ってきた。金髪の男女、一目でわかるとおり、オハラ夫妻だった。
「お、パトリックとマダム・エレノアだ」
やつが立ちあがった。
「挨拶をしてくるぜ」
やつが率先して、挨拶をしに彼らの席に近づいた。
やつとしては、おどろくほど社交的な態度だった。
しかし、やつとしては作家先生仕込みの英語を扱える数少ない話し相手であり、それはやつにとって楽しいらしい。
それに、おそらくだが、異邦人の彼等が、人間のフリをするやつにとってもとっつきやすいのかもしれない。
日本人ならわかってしまう、やつの些細なところで出る怪異性も、やつの正体を示す記号も、彼等にはわかりづらい。気楽に話せる相手なのだと思う。
私は、やつに実体化して話せる友人ができること自体は好ましいと思っていた。
やつがこれからどういう生活を送るにせよ、今後もニンゲンとも絡んでいくのだろう。それならニンゲンとも普通の付き合いをしなければならない。
依代の私とでなく、別の人間と話すことは、やつにとっても良い影響があると思った。
やつがいつもの流暢な英語で夫妻と話すのを遠目に見ていると、ふとやつが私の方に目を向け何か話した。
オーケー、オールライト。
やつがそう答えると、やつはそのまま、私の方に歩み寄ってきた。
「なんだ?」
なんの用事かと尋ねると、やつは言った。
「二人にこの間の話が、解決したと説明したのだが」
やつは続けた。
「御室桜の夢は、パトリックに教えてもらった朝倉文世と関係があった。オオニワが朝倉文世とかつて会ったことがあり、そのせいで桜を夢見たのだろうと説明したぞ」
オハラ夫妻には、私が見た桜の怪異は夢だということにしてある。だから、やつの簡略な説明は整合性があった。
それに、事実も当たらず遠からずである。
それは私も礼を述べたいところだが、どうやらやつは本題を別に持っていた。
それでな、と、やつは言った。
「朝倉家に挨拶にいかねえか? パトリックが仲介してくれるそうだ」
ふと脳裏に、まだ別荘の部屋に置いてある、あの簪のことがよぎった。
あれは文世に渡したものだ。現実の世界でも、彼女の元にある方が良いと思った。




