第三十話 びいどろ-3
*
「おい」
気がつくと、背後からそう声をかけられていた。それで我に返った。
私は、一心不乱に文世から渡された本を読んでいたはずだった。
やつが背後に立っていた。
「終わったか?」
やつの姿はぼろぼろだった。
御用提灯を数えきれないほど斬り捨てたらしいやつだったが、やつとて余裕はなかった。
ハシゴで押さえつけられ、投げ縄を絡められる中を、なんとか一人で斬り倒し、私と文世の時間を守り抜いたのだろう。
文世の力が減衰すると同時に、文世の取り巻きの力は薄れ、逃れたものらしい。
黒い怪異の返り血に塗れた姿には、縄が絡まっており、目潰しの粉で赤茶色の髪の毛が白くなっていた。
私の腕の中にいたはずの文世は、いつのまにか読んでいたはずの本と共に、桜の花びらに変わっていた。大量の薄紅の美しい花弁が、ざらざらと指の間から落ちていき、それは溶けるように消えていった。
「ああ」
私はやつに答えた。
「終わった」
私は消えていく花びらの中から、簪を拾い上げた。
私が持ち込んだそれだけは、形を保っていた。
「そうか」
やつは短くそういい、ため息をついた。
「それなら、おれたちも戻らなければならねえ。文世の力がなければ、あの取り巻き共の力ではこの空間は維持できねえ。ここは崩れていくぞ」
私は立ち上がった。
そうこうしているうちに、桜の木々が枯れ始めていた。枯れ果てて溶けるようにして消えていく。
「しかし、どうやって戻る?」
私は尋ねた。
「簡単だ。文世が出口を示してくれている」
文世が寄りかかっていた一際大きい桜の根元に、空間の歪みがあった。
その向こうに星空が透けて見える。
「文世が扉を開けてくれていた。あそこから帰るぞ」
私はやつに従った。
その頃には天空にも大きなヒビが入っていた。それを見てやつが斬り損ねた有象無象の亡者たちが阿鼻叫喚の声をあげている。
「あれらはどうなる?」
やつは苦笑した。
「文世はおめえが思っているより、慈悲深い、いい女なんだぜ、オオニワ」
やつは言った。
「見ろ。西側に光がある」
そう言われて、やつの左手が指差す方向を見た。
「文世があいつらを導いている。お姫様だからな。責任を感じているのだろう。もし、大人になれていたら、観音様みてえな綺麗で慈悲深い良い女になったろう」
あえて文世のことを大人の女に例え、やつはため息をついた。
「あいつらも、素直に文世に導かれりゃあ、一緒に西方浄土にたどり着けるだろう。だから心配はいらねえよ」
やつは、さあ、と私をせかした。
空間の歪みの向こうには星空と、そして、透けて現世が見えていた。
「わかった」
私とやつは、空間の歪みに身を踊らせた。
一瞬の強烈な浮遊感と眩暈の後、目の前が暗くなった。
*
気がつくと、私は別荘の庭にいた。
夜明けの時刻なのか、空は白んでいた。
私の庭には、元からあった鳥居が残されていた。どうやらあの空間は、直接、私の別荘の鳥居に繋がったらしい。
それは、文世の気遣いなのかもしれない。
一時、私に静かに取り憑いていたという彼女は、私がここをどれだけ大切にしているかも知っていた。
私は疲れ果ててそこに座り込んだ。
やつも同様だった。
しばらく二人で口をきかず、明けようとする空を見上げていた。
ニンゲンには見えないやつはともかく、ぼろぼろの姿の私を、他の人間が見かけなかったのは幸いだった。
やつの扮装をしたまま、汗だくで座り込む私はどう考えても異常だったろう。
明け六つの亡霊のようにしか見えない。
本当に不審者として、警察に通報されそうだ。
そんなことを考えているうちに、太陽が昇ってきた。
これは、文世の見られなかった夜明け。
それを見ているうちに、私はふと口を開いた。
「文世は」
やつがちらと視線だけ投げてきた。
「春に私に取り憑いてから、しばらくお前の目を盗んで一緒にいたと」
「ああ」
やつがぶっきらぼうに答えた。
「初めに言ったろう。おれの気付かねえうちに取り憑いていたからな」
「文世は、お前が見逃してくれたと言っていた」
やつは舌打ちした。
「桜の花びら一枚が、張り付いていただけだ。春が過ぎれば落ちる弱い憑き物と思ったからよ」
やつは不機嫌に言った。
「見込み違いも良いところだ。手こずらせやがって!」
私は頷いた。
「そうか。春の間は、文世は穏やかでいられたのだな」
「ああ、そうだ」
「その間、気づかない私と一緒にいた。一緒に過ごしていたと。彼女はここにいる間にも、わたしと一緒だったのか」
「ああ」
やつは、また投げやりに相槌を打った。
私は少し躊躇った後、その質問をした。
「……文世は、その間だけでも、私のそばにいて幸せだったろうか」
「馬鹿野郎!」
やつが突然声を荒げた。
「そ、そんな話するんじゃあねえ! オオニワ! この唐変木!」
やつの声は、涙声だった。
感情を爆発させて、やつは言った。
「当たり前だろ! 文世はてめえのことが好きだったんだからよ! 一緒にいられて嬉しくないわけねえだろうが!」
やつは、涙を隠すためか、敢えて乱暴に言った。
私はやつが、本当は涙もろいのを知っている。やつの声が微かにふるえていた。
私はため息をついて、明けゆく空を見た。
朝を迎える。夜が明ける。
人は、結局は、いつかくる滅びに向かって歩むだけ。いつか滅びると分かっていて、何故生きていかねばならないのか。
辛いことばかりのこの世界を。
「夜が明けるな」
私はため息をついた。
そう、夜は明ける。いつか、夜は明ける。
夜明けは日没と似ている。濃紺から橙色の空、淡く混ざった美しい色。
日没と夜明けはどちらも美しく、しかし、夜明けには日没のもつ滅びへの悲しみはなかった。
今の私のこの気持ちに、夜明けは不似合いだった。
明るくなる東の空。文世の向かう西の空も、少しずつ暗闇から明るくなっていく。
「文世も、夜明けを迎えられたのだろうか。西方浄土に行く途中で」
私は独り言のように呟いた。
「そうだろうよ」
やつが鼻を啜りながら答えた。
「あんな罪もねえ子供が苦しむような夜は、とっくに終わった。お前の信じるところじゃあ、おれみたいな悪人ですら救われるのだろう。だとしたら、文世の夜はとっくに明けているぜ」
やつの言葉に、わたしは頷いた。
「それならば良い」
私は、改めて簪を手に取った。
それを地面に置くと、草の上で、びいどろは微かな朝陽を拾って輝いた。
私はそっと手を合わせた。




