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やつと私と雨の庭〜文月の残照〜  作者: 渡来亜輝彦


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第三十話 びいどろ-2

 *


 やつが奮闘している間に、私は文世のいるであろう浮島の中心部に入り込んだ。

 背後でやつが激しい戦闘をしているのを、やつと繋がっている私は感じとった。

 それに比べ、私の周りは静かだった。

 ただ桜の並木が続いているだけ。荘厳な庭園に迷い込んだかのよう。

 何ものも私の邪魔をしない。

 頭上には、星の瞬く美しい夜空。

 一際大きな桜の周りは撮影セットのようで、強い照明が彩っている。

 私が足をすすめ、そこに立ち入ろうとした時、ふと声が聞こえた。

『来ないで!』

 それは大人の女の声だったが、私は文世のものだとわかった。

「文世ちゃんだろう」

 私は声をかけた。

 一際大きな桜の下で、黒い花びらがより集まり、女の姿になった。

 美しい着物を着崩して、髪を乱した女だ。

 それは藤の女によく似ていたが、私はそれが文世なのだとわかった。

 切れ長の瞳の妖艶なほど美しい女。しかし、その体は朽ち果てた桜で出来上がり、ところどころ歪で醜い。顔も黒く染まっているところがあり、彼女が本当は醜い姿を見られたくないのだと知った。

 双ヶ丘の山の中で、禎子への憑依が解けそうな時、彼女が大人しく退却し、本性を表さなかったのは、そうした理由があるからなのかもしれない。

 美しい生者の禎子の隣で醜い亡者の姿を晒すことを、彼女は嫌ったのだろう。

 文世が、かつて私の恋人であった藤の女を参考にしているのは明白だった。

 彼女は大人の姿をとるときに、私の気を引くため彼女に似せたのだ。私の恋人であったことを知り、嫉妬しながらもそうしたのは、哀れな幼さだった。

 文世は美しい少女だったから、藤の女を真似しなくても、きっと似た面差しの、美しい娘になったはずだ。

 それが一層悲しい。

「文世ちゃん」

 私は呼びかけた。

 すかさず、黒い桜吹雪が渦巻いて、私に強く吹き付けた。

『オオニワさんは、もう立派な役者になってしもうたんやろ?』

 文世は恨めしげに言った。

『うちのことなんて、忘れてしもうたんや』

「それは私が悪かった」

 私は桜の花びらに吹かれながら、目を伏せた。

「私はあの日のことを思い出すのが辛かった。だから、文世ちゃんから逃げて、忘れてしまった」

『言い訳や! そんなの! うちが呼んだのに、オオニワさんは気づいてくれへんかった』

 私に桜吹雪がさらに強く吹きつけてきた。それは当たると痛いほどだった。

 黒い桜。これは朽ち果てた文世の思い。

 花びら一枚一枚に、まとわりつくような熱と引き裂くような冷たさが同居していたが、私は気にせず彼女に歩み寄った。

『オオニワさんは、役者になって違う世界に行ってもうた。綺麗な女の人に囲まれて、うちなんて子供、どうでもよかったんや!』

 文世が嫉妬を露わにした。

『だって、みんなうちより綺麗やもん! うちだって大人になれたらもっと』

 私はため息をついた。

「文世ちゃんは綺麗だよ。彼女達の真似をしなくても良い」

『何を言うてるの! そんなん嘘! だって、みんな、うちのこと忘れてるのに!』

 文世は癇癪を起こした。

『うちはみんなに忘れられた。お父はんには新しい家族がおる! お兄ちゃんもお姉ちゃんももう大人で結婚して子供もおる! 社員さんやって、うちのこと忘れとる! だれも、思い出してくれへん』

「それは違う!」

 桜に吹き付けられながら、私は反論した。

「文世ちゃんは、忘れられてなどいない! 文世ちゃんのお父さんは、君のために御室桜を手に入れた。君の本も写真も、今も船場の家にある! 大切にされているんだ」

『嘘や!』

 文世の操る桜がますます量を増した。

 とうとうそれは、花びらを固めた腕のような形になり、私の体を掴んだ。

 桜は私を闇に引き摺り込もうとしていた。

 しかし、私は臆さずに言った。

「嘘ではないよ。それに、私もようやく思い出した」

 私は懐から包みを取り出して広げた。

 そこには、蜻蛉玉の簪があった。

「これに似たものに見覚えはないか?」

 私は尋ねた。

「お母さんのガラス玉の簪、文世ちゃんは大切にしていたね。あの日も、学校に忘れたこれをとりに行った。私は、あの時文世ちゃんをもっと止めるべきだった」

 私は簪を取り出して、文世に見せた。文世がハッとして、私を見た。蛇のようにまとわりつき、私を掴む黒い腕が、少し力を弱めた。

「あの時の簪は、見つからなかったんだろう? 文世ちゃん」

『簪、びいどろの簪』

 文世がおろおろと狼狽えたようにそれを見た。

「思い出したかい? 文世ちゃん」

 私は、いつのまにか、まだ二十代のころの青年になっていた。

 その姿は背広を着て、瓶底眼鏡をかけた冴えない若者だった。まだこれから起こることも何も知らない青年。

 私は、文世が、あの頃の私と話がしたいのだと知った。

 私は目を閉じた。

 大丈夫だ。

 私はこれから演じるものを思い浮かべた。

 私は俳優。……他人を演じられ、何者にもなれる私が、自分自身になれないわけがない。

 過去の自分に。

 私は今の俳優大丹羽勇次郎でなく、家庭人の大庭勇でもなく、何も知らない青年、事務員オオニワにならなければならない。

 私は目を開き、桜の群体でできた戒めを払い除けて、一歩前に進んだ。

「文世ちゃん」

 私の声は、あの頃の青年のものになっていた。

「君は簪を探していたんだ。あの日、急いで学校から帰ったから、栞がわりにつかっていたお母さんのびいどろの簪を、君は学校に忘れてきた。そして、私と別れてから、取りに帰ったんだね」

『うちは……』

 文世はうなだれた。

『見つからへんかったの。簪は、あの時、見つからへんかって、それで——』

 文世の表情がこわばった。私は首を振った。

「それ以降のことは思い出さなくていいよ。怖い記憶なのだろう?」

 私は彼女を止めて、

「けれど、文世ちゃんは、今もそれを探している。けれど、今は、その探していることすら、忘れてしまったんだろうね?」

 文世は何も言わない。

「私が辛くて忘れてしまったように、文世ちゃんも、簪を探すのが辛くて忘れたのだね」

 今や、私を取り巻く桜の戒めの力は弱かった。もはや、腕の形も保てない。

 私はそれを簡単に振り解くことができ、文世のそばまで近づいた。

「あの時の簪を、今更探し出すことはできないかもしれない。これは代わりにはならないけれど、君のお母さんのものによく似ている。これは文世ちゃんにあげる」

 崩れ落ちた文世の前に、私は簪を差し出した。

「ごめんね。文世ちゃん。迎えに来るのが、遅くなってしまった」

 おそるおそる、文世はそれに手を触れた。

 簪に手を触れた瞬間、文世の手が小さな子供の手になり、大人の女の姿をした彼女は、いつのまにかあの頃の八歳の文世になった。

 薄紅色のワンピースに麦わら帽子を被った夏の装い。

 あの日の文世だ。

『オオニワのお兄ちゃん』

 文世は顔を上げた。文世は涙で濡れた瞳を上げた。

『うちのこと、怒ってないん?』

 恐る恐る彼女は聞いた。

『うちは、とても悪いことをしたんよ』

「私は、文世ちゃんを怒ることのできる立場ではないよ」

 私は言った。文世はその簪を手に取った。

「私が、文世ちゃんを忘れていたのが一番悪いんだ。仁和寺で呼んでくれたのに」

 文世の目はみるみる涙で溢れ、大粒の涙がこぼれ落ちていく。

『うちはね、オオニワさんがスタアになったのきいて、本当は嬉しかったん』

 文世は言った。

『だって、初めにオオニワさんは役者になれるいうたのは、文世やもん。うちの目に狂いはないんやって』

「ああ。ありがとう」

『あの後、お兄ちゃんの出てた活動写真、見たんよ。怖かったけど、かっこよかった』

「嬉しいよ」

 あの頃の青年の私には、全く気の利かない礼しか口から出なかった。けれど、それで良い。

 文世が本当に会いたいのは、あの頃の私だったろうから。

『仁和寺で会った後、うちはオオニワさんと夏まで一緒にいたんよ。隣の怖いおじさんに見つかりそうやったから、かくれんぼしながらやったけど』

「そうか。あの日まで、こっそり一緒にいてくれたのかい」

『うん。うちは……、春の間は、まだ桜の姿でいられたから』

 文世は悲しげに笑った。

 私は、桜が視界の端をちらつき始めた日のことを思い出した。やつも初めはそれを見逃していた。

 夏になり、じわじわと彼女が攻撃性を表すまでは。

『あの怖いおじさんな。うちが桜の姿のうちは、きっと見て見ぬ振りしてくれたんよ』

「そうか。やつもあれで悪いやつではないんだよ」

『うん』

 春を過ぎれば爛熟し、朽ち果て腐り果てる文世。

 彼女は、春から初夏にかけては、穏やかなまま、私のそばにいられたということだろうか。

『うちは、九月になるとこの姿が保てへんの。夏は力が強うなるけれど、徐々に崩れてしまうん。そやから——』

 私には、文世が夏の間に私を所有しようとした経緯がわかってきていた。

 文世は九月の始まりに死に、秋を迎えられない娘だった。秋になると文世の力は急速に衰える。夏を超えてしまうと、美しい姿が見せかけだけでも、維持できなくなる。

 そして、力が強くなるが腐敗の始まる夏に、文世は攻撃的な化け物になるのだ。焦りと共に。朽ち果てる前に、私を引き摺り込まなければならないから。

 穏やかな春の日には、やつにも見過ごされていた微かな魔性が、いつしか見過ごせない凶暴性を帯びたのはそのせいだったのか?

 文世は私に抱きついた。

 それは、もうあの熱や冷たさを帯びていなかった。儚い弱い力が私に伝わった。

 私はその肩を静かに抱いてやった。今にも砕け散りそうなほど弱々しい。

「ずっとここにいたのだね」

『うん』

「そうか。寂しかっただろう」

 私は泣いている彼女の背中を撫でた。

「帰ろう。文世ちゃん」

 私は彼女に言った。

「向こうでは、きっとお母さんが君を待っているよ」

 私は、泣かなかった。

 しかし、その実、感情を揺さぶられていた。

 大丈夫だ。私は役者だから。

 私は言い聞かせた。

 自分に与えられた役を全うしなければならない。だから泣いてはいけない。

 ——私が泣けば、文世は眠れなくなってしまう。

 私はあの日の事務員大庭勇。

 彼女がどうなるかの未来も知らない。

 彼女に朗読の声を褒められ、そして、彼女のために本を読む。まだ拙い演技をしていた、あの日の私。

「お母さんの元に帰るのに少し時間がかかる。眠くなってきただろう? 文世ちゃんが眠るまで、私が何か読んであげよう。何が良いかな」

 私はそう提案した。

「それやったら、読んで欲しい本があるの」

 文世は、笑顔で一冊の本を差し出した。


 私は満開の桜の下で、小さな文世を抱いたまま、その本を開いて読み始めた。

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