第三十話 びいどろ-2
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やつが奮闘している間に、私は文世のいるであろう浮島の中心部に入り込んだ。
背後でやつが激しい戦闘をしているのを、やつと繋がっている私は感じとった。
それに比べ、私の周りは静かだった。
ただ桜の並木が続いているだけ。荘厳な庭園に迷い込んだかのよう。
何ものも私の邪魔をしない。
頭上には、星の瞬く美しい夜空。
一際大きな桜の周りは撮影セットのようで、強い照明が彩っている。
私が足をすすめ、そこに立ち入ろうとした時、ふと声が聞こえた。
『来ないで!』
それは大人の女の声だったが、私は文世のものだとわかった。
「文世ちゃんだろう」
私は声をかけた。
一際大きな桜の下で、黒い花びらがより集まり、女の姿になった。
美しい着物を着崩して、髪を乱した女だ。
それは藤の女によく似ていたが、私はそれが文世なのだとわかった。
切れ長の瞳の妖艶なほど美しい女。しかし、その体は朽ち果てた桜で出来上がり、ところどころ歪で醜い。顔も黒く染まっているところがあり、彼女が本当は醜い姿を見られたくないのだと知った。
双ヶ丘の山の中で、禎子への憑依が解けそうな時、彼女が大人しく退却し、本性を表さなかったのは、そうした理由があるからなのかもしれない。
美しい生者の禎子の隣で醜い亡者の姿を晒すことを、彼女は嫌ったのだろう。
文世が、かつて私の恋人であった藤の女を参考にしているのは明白だった。
彼女は大人の姿をとるときに、私の気を引くため彼女に似せたのだ。私の恋人であったことを知り、嫉妬しながらもそうしたのは、哀れな幼さだった。
文世は美しい少女だったから、藤の女を真似しなくても、きっと似た面差しの、美しい娘になったはずだ。
それが一層悲しい。
「文世ちゃん」
私は呼びかけた。
すかさず、黒い桜吹雪が渦巻いて、私に強く吹き付けた。
『オオニワさんは、もう立派な役者になってしもうたんやろ?』
文世は恨めしげに言った。
『うちのことなんて、忘れてしもうたんや』
「それは私が悪かった」
私は桜の花びらに吹かれながら、目を伏せた。
「私はあの日のことを思い出すのが辛かった。だから、文世ちゃんから逃げて、忘れてしまった」
『言い訳や! そんなの! うちが呼んだのに、オオニワさんは気づいてくれへんかった』
私に桜吹雪がさらに強く吹きつけてきた。それは当たると痛いほどだった。
黒い桜。これは朽ち果てた文世の思い。
花びら一枚一枚に、まとわりつくような熱と引き裂くような冷たさが同居していたが、私は気にせず彼女に歩み寄った。
『オオニワさんは、役者になって違う世界に行ってもうた。綺麗な女の人に囲まれて、うちなんて子供、どうでもよかったんや!』
文世が嫉妬を露わにした。
『だって、みんなうちより綺麗やもん! うちだって大人になれたらもっと』
私はため息をついた。
「文世ちゃんは綺麗だよ。彼女達の真似をしなくても良い」
『何を言うてるの! そんなん嘘! だって、みんな、うちのこと忘れてるのに!』
文世は癇癪を起こした。
『うちはみんなに忘れられた。お父はんには新しい家族がおる! お兄ちゃんもお姉ちゃんももう大人で結婚して子供もおる! 社員さんやって、うちのこと忘れとる! だれも、思い出してくれへん』
「それは違う!」
桜に吹き付けられながら、私は反論した。
「文世ちゃんは、忘れられてなどいない! 文世ちゃんのお父さんは、君のために御室桜を手に入れた。君の本も写真も、今も船場の家にある! 大切にされているんだ」
『嘘や!』
文世の操る桜がますます量を増した。
とうとうそれは、花びらを固めた腕のような形になり、私の体を掴んだ。
桜は私を闇に引き摺り込もうとしていた。
しかし、私は臆さずに言った。
「嘘ではないよ。それに、私もようやく思い出した」
私は懐から包みを取り出して広げた。
そこには、蜻蛉玉の簪があった。
「これに似たものに見覚えはないか?」
私は尋ねた。
「お母さんのガラス玉の簪、文世ちゃんは大切にしていたね。あの日も、学校に忘れたこれをとりに行った。私は、あの時文世ちゃんをもっと止めるべきだった」
私は簪を取り出して、文世に見せた。文世がハッとして、私を見た。蛇のようにまとわりつき、私を掴む黒い腕が、少し力を弱めた。
「あの時の簪は、見つからなかったんだろう? 文世ちゃん」
『簪、びいどろの簪』
文世がおろおろと狼狽えたようにそれを見た。
「思い出したかい? 文世ちゃん」
私は、いつのまにか、まだ二十代のころの青年になっていた。
その姿は背広を着て、瓶底眼鏡をかけた冴えない若者だった。まだこれから起こることも何も知らない青年。
私は、文世が、あの頃の私と話がしたいのだと知った。
私は目を閉じた。
大丈夫だ。
私はこれから演じるものを思い浮かべた。
私は俳優。……他人を演じられ、何者にもなれる私が、自分自身になれないわけがない。
過去の自分に。
私は今の俳優大丹羽勇次郎でなく、家庭人の大庭勇でもなく、何も知らない青年、事務員オオニワにならなければならない。
私は目を開き、桜の群体でできた戒めを払い除けて、一歩前に進んだ。
「文世ちゃん」
私の声は、あの頃の青年のものになっていた。
「君は簪を探していたんだ。あの日、急いで学校から帰ったから、栞がわりにつかっていたお母さんのびいどろの簪を、君は学校に忘れてきた。そして、私と別れてから、取りに帰ったんだね」
『うちは……』
文世はうなだれた。
『見つからへんかったの。簪は、あの時、見つからへんかって、それで——』
文世の表情がこわばった。私は首を振った。
「それ以降のことは思い出さなくていいよ。怖い記憶なのだろう?」
私は彼女を止めて、
「けれど、文世ちゃんは、今もそれを探している。けれど、今は、その探していることすら、忘れてしまったんだろうね?」
文世は何も言わない。
「私が辛くて忘れてしまったように、文世ちゃんも、簪を探すのが辛くて忘れたのだね」
今や、私を取り巻く桜の戒めの力は弱かった。もはや、腕の形も保てない。
私はそれを簡単に振り解くことができ、文世のそばまで近づいた。
「あの時の簪を、今更探し出すことはできないかもしれない。これは代わりにはならないけれど、君のお母さんのものによく似ている。これは文世ちゃんにあげる」
崩れ落ちた文世の前に、私は簪を差し出した。
「ごめんね。文世ちゃん。迎えに来るのが、遅くなってしまった」
おそるおそる、文世はそれに手を触れた。
簪に手を触れた瞬間、文世の手が小さな子供の手になり、大人の女の姿をした彼女は、いつのまにかあの頃の八歳の文世になった。
薄紅色のワンピースに麦わら帽子を被った夏の装い。
あの日の文世だ。
『オオニワのお兄ちゃん』
文世は顔を上げた。文世は涙で濡れた瞳を上げた。
『うちのこと、怒ってないん?』
恐る恐る彼女は聞いた。
『うちは、とても悪いことをしたんよ』
「私は、文世ちゃんを怒ることのできる立場ではないよ」
私は言った。文世はその簪を手に取った。
「私が、文世ちゃんを忘れていたのが一番悪いんだ。仁和寺で呼んでくれたのに」
文世の目はみるみる涙で溢れ、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
『うちはね、オオニワさんがスタアになったのきいて、本当は嬉しかったん』
文世は言った。
『だって、初めにオオニワさんは役者になれるいうたのは、文世やもん。うちの目に狂いはないんやって』
「ああ。ありがとう」
『あの後、お兄ちゃんの出てた活動写真、見たんよ。怖かったけど、かっこよかった』
「嬉しいよ」
あの頃の青年の私には、全く気の利かない礼しか口から出なかった。けれど、それで良い。
文世が本当に会いたいのは、あの頃の私だったろうから。
『仁和寺で会った後、うちはオオニワさんと夏まで一緒にいたんよ。隣の怖いおじさんに見つかりそうやったから、かくれんぼしながらやったけど』
「そうか。あの日まで、こっそり一緒にいてくれたのかい」
『うん。うちは……、春の間は、まだ桜の姿でいられたから』
文世は悲しげに笑った。
私は、桜が視界の端をちらつき始めた日のことを思い出した。やつも初めはそれを見逃していた。
夏になり、じわじわと彼女が攻撃性を表すまでは。
『あの怖いおじさんな。うちが桜の姿のうちは、きっと見て見ぬ振りしてくれたんよ』
「そうか。やつもあれで悪いやつではないんだよ」
『うん』
春を過ぎれば爛熟し、朽ち果て腐り果てる文世。
彼女は、春から初夏にかけては、穏やかなまま、私のそばにいられたということだろうか。
『うちは、九月になるとこの姿が保てへんの。夏は力が強うなるけれど、徐々に崩れてしまうん。そやから——』
私には、文世が夏の間に私を所有しようとした経緯がわかってきていた。
文世は九月の始まりに死に、秋を迎えられない娘だった。秋になると文世の力は急速に衰える。夏を超えてしまうと、美しい姿が見せかけだけでも、維持できなくなる。
そして、力が強くなるが腐敗の始まる夏に、文世は攻撃的な化け物になるのだ。焦りと共に。朽ち果てる前に、私を引き摺り込まなければならないから。
穏やかな春の日には、やつにも見過ごされていた微かな魔性が、いつしか見過ごせない凶暴性を帯びたのはそのせいだったのか?
文世は私に抱きついた。
それは、もうあの熱や冷たさを帯びていなかった。儚い弱い力が私に伝わった。
私はその肩を静かに抱いてやった。今にも砕け散りそうなほど弱々しい。
「ずっとここにいたのだね」
『うん』
「そうか。寂しかっただろう」
私は泣いている彼女の背中を撫でた。
「帰ろう。文世ちゃん」
私は彼女に言った。
「向こうでは、きっとお母さんが君を待っているよ」
私は、泣かなかった。
しかし、その実、感情を揺さぶられていた。
大丈夫だ。私は役者だから。
私は言い聞かせた。
自分に与えられた役を全うしなければならない。だから泣いてはいけない。
——私が泣けば、文世は眠れなくなってしまう。
私はあの日の事務員大庭勇。
彼女がどうなるかの未来も知らない。
彼女に朗読の声を褒められ、そして、彼女のために本を読む。まだ拙い演技をしていた、あの日の私。
「お母さんの元に帰るのに少し時間がかかる。眠くなってきただろう? 文世ちゃんが眠るまで、私が何か読んであげよう。何が良いかな」
私はそう提案した。
「それやったら、読んで欲しい本があるの」
文世は、笑顔で一冊の本を差し出した。
私は満開の桜の下で、小さな文世を抱いたまま、その本を開いて読み始めた。




