第三十話 びいどろ-1
文世の影を受け入れろ——
やつは私にそう言った。
しかし、それは暗に自分の影を、もっと受け入れろということでもあると思った。
やつと私は、同化しているようなもの。だからこそ、やつは、私が忘れてしまった記憶の深くまで覗くことができたのだろう。
そう、私がなぜ文世を忘れてしまったのか。
文世の記憶だけが、なぜぽっかりと欠け落ちてしまったのか、をだ。
私は文世は生き延びたのだと思い込むことで、彼女そのものを忘れてしまったらしい。
しかし、なぜ、私は、そのような形で彼女を扱ってしまったのか。
やつは、私のその罪を知っている。
桜吹雪が降り積もる地面をふみしだき、私は文世のいるであろうそこに足を踏み入れていた。
私は懐に手をやった。
そこにがさりと紙の感触があった。
仁和寺の門前町の土産物屋で買った、あの桜の柄の蜻蛉玉の玉簪がそこに入っていた。
やつの衣装に着替えた時にも、私はそれを包みごと懐にいれてきていた。何故か、それを、持って来なければならないような気がしていた。
紙袋から簪を取り出し、私はそれを眺めた。
なんの変哲もない、可愛らしい玉簪だ。
しかし、それをこうして眺めて、ようやく、私は、それに関するとある物語を思い出し始めていた。
*
「仁和寺の桜、楽しみやなあ」
仁和寺の桜をいつか一緒に観ようという約束をした日。
文世と指切りをしたあと、彼女はそんなことを言った。
思えば文世は、あの時になぜあのような約束をしたのだろう。無意識に、これから何が起こるのかを予感していたのだろうか。
まだ月初め。今月も横浜へ足を運ぶ予定が決まっていた私に、唐突にそんな約束をしたのは今思えば、不自然だった。
「オオニワのお兄ちゃん、もう帰るん?」
私は懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。
ちょうど十一時半前だった。
その日は土曜日で本来は半ドンだったが、昨日から横浜の本社でつけ合わせた帳簿を確認する必要があった。そのため午後は銀座の社屋での残業を予定していた。
「そうだね。今日は昼の便で東京へ戻って、午後は少し仕事をしなければならないんだ」
「そうか、つまらへんなあ」
文世は寂しげにいい、読みかけていた本を手に取った。その日は怪盗ルパンのシリーズをまた読んでいた。
私が朗読してあげた後、彼女は律儀にその最後のページに、栞がわりの玉簪を挟むのが常だった。
それが、今日もその動作をしようとして、はたと止まった。
「あれ、簪があらへん」
文世の玉簪は、大人向けの大きさのもので、ガラス玉がついていた。蜻蛉玉というやつで、模様は桜の柄を模していて上品だった。
文世は『これはお母はんの形見やのん』と言っていた。文世はそれを大切に持ち歩いていたが、実際に髪飾りとして使うには文世には大き過ぎたので、こうして本の栞として使っているらしい。
「失くしたの?」
「ううん。多分、別の本に挟んだんや。学校の教科書やと思う」
文世はそのありかを覚えていたが、宝物の簪が手元にないことに不安を覚えたようだった。
「探しにいかなあかん。学校に忘れ物したんや。取りに行かな」
文世の家は会社から少し離れたところにあったが、寂しい文世は普段こうして会社に遊びに来ることが多かった。会社にいれば、社員の誰かが文世を構ってくれるからだ。
今日は文世は尋常小学校の始業式があったらしいが、授業はなく早々と終わったものらしく、学校が終わってすぐに会社の方に来たのだ。今日は私が午前中に来ることを知っていて、急いできたのだろう。
私に会うのに慌てて、忘れ物をしたのかもしれないと思った。
「探しにいこうかなあ。明日は日曜日やもんね」
その時、私はなぜか、文世をこのまま行かせるのを躊躇った。
本当にそれはなぜかわからない。直感だったのかもしれない。
「げ、月曜日に、しないかい?」
私は文世に言った。文世はきょとんとした。私はどもりながら尋ねた。
「だ、だって、もう学校もしまっているかもしれないよ」
「大丈夫やよ。すぐ近くなん。それにまだセンセ達いてはる。それにお母はんの形見やし、日曜日にそばにないの、落ち着かんもん」
「けれど」
私は、必死に止めようとしている自分にかえって戸惑った。私は、何を必死に止めているのだろう。何故、文世を行かせたくないのだろう。
できれば引き止めたい。それができないなら、汽車の時間を変更してでも、自分がついていこうとすら考えている。
(なんだ、これは)
そして、少し冷静になった。
傍目からすると、これはどう見えるだろうか。年端の行かない子供に妙なことを言っている、変質者のようにすら見えるのでは。
「一人では、危ないよ」
私は考えた末にそう言った。文世は目を瞬かせ、それからにこりとした。
「それやったら、うちの社員さんにたのんでついてきてもらうわ。うん、誘拐とか危ない話あるから、『こいさんも気ぃつけなあかんよ』って、言われてるもん」
文世は微笑んだ。
「オオニワのお兄ちゃん、心配してくれておおきに」
「ああ、うん」
私は呆然として頷いた。文世はそんな私に尋ねた。
「ぼんやりしてるけど、もう汽車の時間なのとちがうの?」
文世に言われて、慌ててもう一度懐中時計を見た。もう十一時半をすっかり回っていた。
「お弁当買っていかなあかんのでしょ。はよ、駅に着かな、乗り遅れたら大変よ」
文世がおませな口調でそう言った。
「オオニワさん、また来てね」
文世はそう言って手を振ると、近くにいた馴染みの社員を捕まえて、学校まで着いてきてくれるよう頼んだようだ。いつも彼女の世話をしている優しい人物だった。
(大丈夫。……私が着いていかなくても、彼が一緒に行ってくれるのだから)
私が着いていくなど、どう考えても変だ。
(それに、時間に遅れると仕事が。たくさんあるんだ、まだ)
私はそう考えて、文世に手を振って別れた。
そうして、数十分後に、あの呪わしいことが起こった。
駅に向かっている途中の道だった。
近くの煉瓦の塀が崩れてきて、私は危うく巻き込まれそうになった。どうにか這い出したところで、自分に怪我がないことがわかり、少し安心した私は直後に文世のことを考えた。
文世はどうしたろう。無事だろうか。
駅の方も大騒ぎになっていた。このまま駅には向かえまい。
私は人に流されるようにして、皆が向かう方向に歩いた。
「火が出たぞ!」
誰かが叫んでいた。
私はハッとした。曙洋行がある方角から煙が出ていた。
「文世ちゃん!」
私はつぶやいた。
人の流れの中、私は立ちすくんだ。
どうすれば良い? 今すぐ戻る?
そうすれば、文世を助けられるかも?
私は考えた。
しかし、文世の小学校の場所も知らない。曙洋行から何分のところにあるかもわからない。もしかしたら、帰宅しているかも。
そして、家も会社も学校も、無事かどうかわからない。そのどこに文世がいるのかも。
第一、街の破壊を目の当たりにしていた私は、怖気付いていた。炎の色と煙、きなくさい臭いに足がすくんだ。
「おい、邪魔だ! 立ち止まるな!」
小柄な私は突き飛ばされそうになり、ようやく、我に返った。
私はまた多くの人に流されるように、道を進み始めた。
高台に辿り着くと、さらに炎の赤い舌が街を舐めるのが見えていた。文世のいたあの場所は、煙に覆われて見えなかった。
私は——。
後悔したのだ。
なぜその日に横浜にきたのだろう。
私がいなければ、文世は慌てて帰宅することなく、忘れ物などしなかった。
なぜ文世を、強く引き止めなかったのだろう。
私が直感に任せて文世を引き止めていれば、私が文世についていれば、もっと安全だった。
なぜ文世を助けに戻らなかったのだろう。
私は怖くて、身動きができなかった。助かりたくて戻れなかった。
私は、自責した。
私が責任を感じるようなことではないと、きっと周りは言うだろう。
私にはどうしようもないことだった。
文世は一人ではなかったはずだ。私が助言したから。
だから、あの時とりうる最善の選択を、私はとったはずだった。それなのに、何度も何度も、私は自分を責めた。
けれど、私は何度も自問自答を繰り返した。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏——
その後も私は東京に帰るまでに何度も地獄を見た。
その光景と一緒に、文世の記憶を封印するために、私は南無阿弥陀仏を唱えた。
曙洋行のその後も積極的に確認しなかった。
文世はきっと生きている。
確認しなければそう思える。
現実と向き合えない私は、そう思い込むことで彼女を忘れた。
——それが、私のささやかで重たい罪。
彼女は母の形見の簪を、見つけることができたのだろうか。否、きっと見つけられなかったのだ。
おそらく、今も彼女は簪を探している。
それで母の元に辿り着けないのかもしれない。
しかし、彼女は簪を探していることをきっと忘れてしまっているのだろう。
他の穢れたもの達のお姫様になってしまって、本来何を探していたかを忘れている。
だからこそ、彼女は彷徨い続けている。




