第二十九話 影-2
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甘美な攻撃の衝動、湧き上がる快楽。
普段であれば、味わってはならない禁断の感覚。
しかし、完全にやつを降ろすということは、それを受け入れることだ。
それが人ではない存在を自分の中に入れる、ということである。狂気じみた興奮が私を満たしていた。それを受け入れる抵抗感はもはやない。
けれど、やつ、そして私も、本来の目的を忘れたわけではなかった。
私は文世と話をしにきたのだ。
この戦闘の悦楽に、いつまでも浸っているわけにはいかない。
血路を開いて浮島の中ほどまで進んできたところで、しばらく敵の攻撃が止んだ。
桜の茂みに隠れるようにして、我々は少し息をついた。
流石に呼吸が荒くなっていた。やつの影響で、感じる疲労は劇的に軽減されていたが、あまりにも相手の数が多かった。
しかし、休んでいる暇はない。相手の攻撃が緩まっている間に進む必要がある。
そのまま、真っ直ぐに中心部に歩いていく。
『大丈夫か、オオニワ』
やつが声をかけてきた。
「無茶をさせたのは貴様だろう? 私はもう若くないんだぞ。何を今更」
私が恨み言を言うと、やつは苦笑していた。
『それはそうだが』
やつの声は妙に冷静だった。
やつの方が流石に修羅場は慣れている。
ふと、左手が勝手に動いた。そのまま、後ろから飛びかかってきた怪異を振り向きざまに斬り下ろす。
『あまり疲れすぎると後でへばるからな』
やつの狂気は私よりもよほど深いが、その切り替えの仕方も慣れている。
先ほどまで笑いながら戦っていたと思っても、次の瞬間に氷のように冷静になっていることがあった。
今がそのような時だ。
完全に自我が溶けてやつと同化していたような私だったが、やつの方が先に冷静になり、こうして再び切り離して話しかけてきていた。
『そろそろ、目を覚ましておいた方が良い。てめえは話し合いの時間だろう』
やつは言った。
「話し合い……」
そうだ。文世と話をしなければならない。
ただ、私はまだ文世との記憶が完璧ではなかった。そんな状態で、文世と話せるだろうか。そんな不安がある。
『オオニワよ』
やつは私の不安を読み取って言った。
『おれは、こういう存在だからナ。てめえの心の奥の記憶に触れることはできる』
やつは珍しく遠慮がちに言った。
『だから、てめえが封じ込めちまった記憶で、文世との間に本当は何が起こったのかを知っているぜ』
やつは言った。
『それを無理に思い出せとは言わねえ。お前も文世も不幸なできごとに巻き込まれ、理不尽に傷つけられただけのこと。……ただ、文世と話をするには、周りの取り巻きどもを排除し、優しく話しかけるだけではすまねえ』
「どういうことだ」
『なあ、オオニワ』
やつは気怠くため息をついた。
『おれは強え存在だ。しかし、てめえが見抜いた通り、おれも強いだけの存在ではない。そして、おれはお前の影。てめえにとっちゃあ、醜い、見たくねえものも見せる。しかし、てめえはおれを受け入れた。だから、おれとお前は存外にうまくやってきた』
やつは少し声を低めた。
『……文世の影も受け入れてやれよ』
やつの声には同情がこもっていた。
冷徹で残酷な、この人斬りの化け物のようなやつは、文世を憐れに思って胸を痛めている。
『あの娘は、この世ではお前以外見えていねえんだ。もう誰もいねえ、ひとりぼっちだ』
ふふ、と私は笑った。
「貴様としたことが、随分しおらしいな」
私はため息をついた。
「元よりその覚悟で来た。そうでなければ、こんな姿でここまで来ないだろう?」
やつは返事をしない。
「貴様も存外に善人なところがあるな」
『冗談ぬかすなよ』
やつが苦笑した。
突然、目の前がひらけてくる。
一際美しい一面の桜。
そしてその一角だけ照明をあびたように明るい。背の低い桜が地を這うように張り巡らされて、ひたすら散り続けていた。その散った桜吹雪が私に降りかかる。
まるで撮影中のセットの中に、紛れ込んだかのようだった。
あの照明の下に、文世がいる。
そう確信した。
「なんとなくわかってはいた。あれだけ山の中で私を挑発してきた文世が、今は静かだ。文世自身が、本当は閉じこもっている」
『そうだ』
やつは短く肯定した。
『まア、いつ、攻撃的になるかわからねえがな。若い娘の心の中ってえのは、全くもって難しい』
「お前にも私にも苦手な分野だ」
私の背後に、再び怪異の妖しい気配が満ちてきていた。
彼等は私を完全に包囲していた。
いつのまにか、背後はまるで活動写真の世界だった。
御用提灯やハシゴ。有象無象の連中は、捕方の姿を模していた。
『なんだ、ありゃあ』
やつが苦笑した。
『文世に余計な知恵をつけたやつがいるらしい。まったく、てめえがやっていた活動写真の通りじゃねえか』
まるで私が若い頃に演じていた作品の光景。やつを含む主人公は、無数の捕り手に囲まれ追い詰められていく。
『鬱陶しい! 全くしょうがねえな』
そういうと、ふっと、肩から何か抜け出る感覚があり、やつが空間に姿を現した。
完全にではないものの、私への憑依を部分的に解除して分離したものらしい。
ふわりと地面に降り立ち、やつは言う。
「オオニワ、行けよ。ここはおれが食いとめていてやろう」
やつが肉声を伴って言った。
「しかし、貴様が相手をするにしても、あまりにも多勢だぞ」
怪異の数が明らかに多い。
闇に煌々とひらめく御用提灯の数は、異常なほど増えていた。
「それに貴様は、実体化した疲労と夕方の負傷で弱っているだろう。私と同化していた方が」
「何を言っていやがる! おれは相手が多い方がいいんだよ!」
やつは笑い飛ばし、口の端を歪めた。そして、やつは囁くように言った。
「おれは、——なのだぞ!」
やつが小声で自分の名を告げた。
作家先生にもらった名前は、誇らしげに響いた。
「てめえが話をつける間くらい、持たせられねえとでも思ったか? 寧ろ、飽きるほど、人……じゃあねえが、下衆どもが斬れて嬉しいくらいだ」
不意に飛びかかってきた御用提灯と黒い何かが、やつに斬り下ろされて真っ二つになって飛んだ。
「さあ、もうあっちは待ってくれねえぞ! てめえのなまくら剣法と一緒にするなよ」
私は笑った。
「そうだったな。私の杞憂だった」
私はそう言うと、中央の桜の方に向き直った。
「それでは頼んだ」
「おう。気をつけろよ!」
やつはニヤリとして言った。
「影に取り込まれねえようにな」
私は振り返らずに先を急いだ。
やつは闇の中に蠢くものたちに見栄を切るように言うのが聞こえた。
「おい! これで遠慮なく相手ができるぜ! さあ、かかって来い!」
やつの挑発的な声がいっそ小気味良かった。
「てめえらが行きたくてたまらねえと言う、西方の十万億土に送りこんでやるッ!」




