第二十九話 影-1
光があれば影ができ、影があるからこそ光は視認される。
その二つは、本当は同じものなのかもしれない。
やつには影がない。
私が出会った時からそうだった。
それは当たり前のことであり、本来は幽霊のようなもので、実体がないからに相違なかった。
やつが怪異のようなもので、本来なら存在しないものだったという証左でもある。
近頃は実体化していることのあるやつだが、影はかなり意識しないとできないらしい。
着物をきていると誤魔化しやすいらしく、やつが外出時に帽子とインバネスやケープを好むのは、顔や右腕を隠すほかにも影を作りやすいかららしい。
「気を遣っているんだぜ? お前と禎子といるのだから、影がないだのと騒がれると困るだろう」
やつなりの気遣いらしいが、他に気をつかうところはもっとあるだろうとは思う。
しかし、やつに影がないのはなんとなく私には納得できた。私にはやつ自身が影そのもののように思えてもいたのだ。影には影はできないだろうから。
初めは作家先生の影であったろうし、今では私の影ではあるのかもしれないと思う。
私にとっては、やつは鏡の向こうの私の虚像であり、そして、私が普段隠している攻撃性をその瞳に抱くものだから。
おそらく、やつは私の影でいられるものだから、私とやつはこうして腐れ縁が切れないのだろう。
影は自分の暗部ではあるけれど、それは心地よさを伴うものでもある。
眩いだけの光は、私のような男には、あまりにも眩しすぎて目がくらんでしまう。
やつくらいの影は、私には心地よいのかもしれない。
そのままの私には、発露させることのできない衝動をふりまくやつの存在が。
私とやつは表と裏の存在なのだった。
*
上下のない浮遊感に包まれながら、我々は進んでいた。
「天地玄黄、宇宙洪荒」
私の口をついてやつの声が出る。
「日月盈昃、辰宿列張。千字文の世界だなあ」
やつがそんなことを言う。
「ちょうどてめえの着ている紙子に書いてあらぁな。なかなか良い気分じゃねえか」
私はため息をつきたい気持ちになりつつ、
「何を呑気なことを言っている? 敵の掌中に飛び込んだのだから、警戒しろといったのは貴様だぞ」
ふん、とやつが笑う気配があった。
『それはわかり切ったこと。あっちは、手ぐすね引いて待っていやがるぜ?』
やつは私の口を使わずにそう言った。
頭の中に直接響く感じだ。この感覚はやつを演じている時にあったもので、取り立てて珍しくはない。
ふわふわ浮かびながら、どこかに進んでいるようだ。私は不安になり尋ねた。
「このまま双ヶ丘にいけるのか」
『さて同じ土地かどうかはしらねえが、春の骸の本拠地にはいける。ほらみろ、オオニワ』
やつの言葉に従って、左手が上がった。私はやつを演じる時には右手は使わず、懐に入れて隠しているが、今日はそのまま右手を袖から出していた。しかし、やつが優位に動かす時は、左手しか動かない。
その指さす方向に、桜で覆われた浮島のようなものが見える。
『あれがここでのあいつの居城だな』
「思ったより、美しいな」
私は率直な感想を述べた。
『この異界はやつが作り出した自分の世界。腐れ果てた外道でも、夢は見たいものだぜ。わかるだろう?』
やつの言葉は自嘲的だった。
私は直接それに答えず、
「春の骸は、何故、文世を存在の核にしたのだろう」
私はつぶやいた。
「あの娘は、何も知らない幼子なのに」
『何も知らねえからだろう。何も知らねえ清らかな娘だったから、あの力を使えた』
「散った御室桜の残滓を?」
『そうだ。もともと高貴で清らかなものだからな。穢れきったやつは使えねえ。……たとえば、おれがあの花に、あの花がおれに耐えきれねえようなものだ』
やつに指示されるように、無意識に私は空間にまばらに飛ぶ桜の花びらを、指で掴んだ。右手で掴んだそれは、朽ちかけた花びらだった。しかし、勝手に左手が動き、それを左手で摘んだ途端、黒く萎れていく。
『右手はお前、左手はおれ。お前と違って、おれは清浄とは言い難いからな』
「春の骸の力がお前を傷つけたのは、お前の力が疲労で落ちていた上、元の清浄な力が強いからか」
やつが忌々しげに舌打ちした。いまだに春の骸にしてやられたことに、やつは腹を立てているのだ。
『そういう言い方もできる。出自が仁和寺のやんごとないものだからな。アレの刃物で抉られたのはそこそこ効いたぞ』
やつは根にもっているようだ。
『しかし、おそるべくは、あの桜の花の力だ。春の骸は成立してせいぜい十余年程度だが、あれを集めた力は古参の怪異に匹敵する『格』を持っている』
と、やつが、不意に自嘲した。
『まア、文世自体が、幼くてもおれよりは古い生まれのも関係するかもしれねえが。文世は大正生まれだろう? おれは昭和生まれなのだ。おれはこれでも、まだ生まれて十にも満たない若輩者なんでなア』
やつがそう言って苦笑した。
私は浮島を改めて見た。
美しい桜で満たされたそこに、形をなさない黒く蠢く亡者が地に這っている。
あれが、文世の取り巻きだろうか。
あんなものに囲まれ、同化してしまったのか、彼女は。
私は眉根をひそめた。
「あれに辿り着くとどうなると思う?」
『まず、雑魚どもに襲われる。それは間違いがねえ。しかし、お前は文世を助けたいのだろう? 周囲の有象無象は、見境なく襲ってくるぞ。容赦なく斬り捨てろ』
こともなげに冷徹にやつは告げる。
「斬り捨てる、か」
『いやか?』
やつが鼻で笑った。
『……安心しろ。あれは文世ではない。あれが文世を惑わしているやつらだ。……それに、気が乗らなくても、問題はねえ。おれといるときは、いつもやっているではないか』
やつは笑いを含んで言った。
『荒事が近付けばおれに影響される。必ず、お前は高揚した気分になる。お前はおれで、おれはお前なのだ』
私は返事をしなかった。
『それにしてもオオニワ、落ち着いているな』
やつは言った。
「何がだ?」
『何が? こんな異常な状況に巻き込まれていて、よく普通に受け答えできるな?』
私は苦笑した。
「慣れた。貴様のおかげで、異常なことに巻き込まれるのも日常茶飯事だからな」
『それは誤解があるぜ。てめえの体質の問題だ。おれはお前を守ってやっているのだぜ?』
やつは不服そうだった。
『まア、そういう度胸のすわっているところは、悪くはねえのだがな』
いよいよ、浮島が近づいてくる。
浮島の表面は背の低い桜が一面に生え、茂みになっている。その桜が永遠に散り続けていた。
私の来訪を察知してか、姿形のよくわからない亡者たちがわらわらと近づいてきた。
『文世や春の骸がいきなり迎えてくれると思うなよ? お姫様は奥にいるものだ。多分、ついたら即歓迎会が始まる。わかるな、オオニワ』
やつが含みを持って言った。
『せっかくの機会なのだ。うまくやるコツはただ一つ。……愉しめ』
やつがその一瞬で血の予感に酔ったかのように、恍惚としたのがわかった。
やつの悪い病だ。しかし、その時の私はそれを咎める気にならなかった。
「良いだろう」
私は答えた。
私は刀を鞘ごと抜き取ると、その下緒を口に咥えた。噛み締める歯に真剣の重みがぐぐっと伝わった。
そして、胸の内に突き上げる自分のものとは思えない高揚感に身を委ねながら——、差した刀の鯉口を切った。
優雅なほどゆるやかな浮遊の旅は、その浮島の大地に草履ばきの足を着けた時点で終わりを告げた。
ぞわっと周囲の空気が変わり、その浮島の全てが、私に敵意を向けたのがわかった。
ほとんど殺意と言って良い空気だ。
途端、暗く変色した桜の花びらの化け物たちが、私にわらわらと群がった。
(外道が! 望むところだ!)
先程はあんなに憂鬱だったのに、私は野蛮な衝動に駆られていた。内から溢れくる殺意と狂気は、やつ由来のものだが、私自身のものでもある。
やつに影響されて引き出されてくる、私の影。私の攻撃性と狂気、そして怒り。
降り立った瞬間に、泥人形のようなものが、私に襲いかかってきた。
『抜け!』
やつが命令した。
言われなくても——!
私は左手で抜刀した。口で咥えた鞘から、白刃のギラリとした輝きが迸った。
そのまま振り下ろすと、その襲いかかってきたものは重い刀に引き裂かれた。
私は首を振って口から鞘を捨て、忍び寄ってくる有象無象に一喝した。
「道を開けろ! 通さねば、斬る!」
しかし、その言葉が素直にわかるような連中ではない。
仲間が斬られようが、彼らは構わなかった。
——オオニワだ
——オオニワユウジロウだ
——役者なんだろう?
——ああ、本物か?
——文世がここまで連れてきたのだ!
——文世をそそのかしてよかった!
——美味そうだ!
——ほんとうに!
——銀幕のスタアはやはり美味そうだ!
——今日はご馳走になる!
——早い者勝ちだ!
——八つ裂きにして早く持って行かないと!
純粋な捕食の欲望に混じる、妬みや嫉みの入り混じった声。
禎子ややつの話では、文世の取り巻きには、生きているものの思念も混ざっていたという。その中に、私の知り合いもいるのだろう。私に嫉みや妬みを向けるものたちも。
私の生きる世界は、華やかだがどろどろしているのだから。
しかし、それらが文世に、私とあの藤の女との醜聞を教え、彼女をどんどん追い込んでいったのだろうか。
そうして、文世が読み取った私の後悔の記憶を頼りに、春の骸は強大になっていって——。
(そんなことは、どうでも良い!)
ふと、考えを打ち切るような強い怒りが湧き出した。
あの幼子を利用した穢れたものたち!
私を食い尽くしたいという欲望に満ちた悪霊ども!
こいつらを許せない! 許してなるものか!
そして、文世を忘れてしまった私自身も!
「こいつらァァ!」
胸を突いた突然の破壊衝動に驚く間もなく、やつらは堰を切ったように私に襲いかかってきた。
『盛り上がってきたじゃあねえか、オオニワ!』
やつが嘲笑った。
『さあ! 斬れ! 今は斬りたくて仕方がねえ! おれとお前は!』
やつの声が私と一体化していく。
『この衝動に身をまかせろ!』
私の自我とやつの魂が溶け合う。体が一段と軽くなり、ぼやけて遠近感の取れないはずの視界がはっきりと見えてくる。
相手の動きが全てわかり、自分がどう動けば良いかが、考えずにわかる。身を任せるだけで。
私ではありえない達人の動きが、やつと一緒にいればできる。
敵を切り裂く感触が、手のひらを通して伝わるが、それはやつの中では快楽に近い感覚に変換されていた。
狂気の渦に飲まれてしまいそうな、この異常な高揚。
「ふっ!」
私かやつか、どちらが発したものか、口元が歪んで勝手に笑い声が漏れた。
「はははははっ、ふははははっ!」
狂乱の笑い。私は高笑いしていた。
そして、性懲りもなく群がる外道たちを睨み回して嘲笑った。
「さあ、来い! 有象無象どもが! 貴様らの為にひとさし舞ってやる!」
自分でも言うつもりのない言葉が、自然と私の口から漏れていた。
私は疾走しながら剣を振るう。体が軽い。刀が羽のように軽い。
今なら、風のように走り、そして斬れる!
ああ、そうだ。撮影の時と同じだな。
私はかすかな自我でそう思った。
自分が溶けていき、いつしか私はやつそのものになっていく。




