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やつと私と雨の庭〜文月の残照〜  作者: 渡来亜輝彦


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第二十八話 宇宙旅行-3

 *


 私は太秦の撮影所を訪れていた。

「衣装を借りたい? 大丹羽先生、今頃何をおっしゃってはりますの?」

「そこをなんとか。急用でどうしても必要なんだ」


 まだ時刻は宵の頃。

 撮影所には顔馴染みの衣装係がいたので、私は頼み込んでその一式を借りることにした。

 また変人の奇行などと思われていそうだが、そんなことはどうでも良い。

 やつは一度憑依を解き、姿を消している。

 事前に筋肉痛がどうのといっていたが、やつが容赦なく酷使した体は、流石にどっと疲れていた。立ち回りの撮影を一回分終えた後のようだ。

 しかし、休む時間はない。


 単車を二人乗りでここまで来る間、禎子は私とやつに文世の話を聞かせた。

 文世がどうして双ヶ丘にいたのか、文世は私を見て何を思ったのか、文世は私に何を求めたのか。

 文世は、どうして春の骸になったのか。

 禎子は優秀な女優だ。彼女の語る言葉は、もはや明るい禎子の口から出たものでなく、文世そのものにしか聞こえなかった。

 私は、理由はどうあれ、文世を忘れてしまった。そのために、文世が春の骸になってしまったのなら。

 私は——、文世を助けてやらねばならない!

「オオニワさん」

 私にあてがわれている楽屋に入ろうとして、禎子に呼び止められた。

「イコちゃん、どうしました? マサはそろそろ来るはずですが」

「お前の手伝いをすると言って聞かねえのだ」

 ふわっと空間からやつが現れた。

 撮影所では気配を潜めているやつだが、今はこの楽屋の周辺に誰もいないのを確認して、実体化こそしていないが少し気配を強めたものらしい。

 黒い靄の流出は止まっているが、やつの刺された腹の辺りがまだ黒く染まっていた。最近は安定していることの多い右半身も陽炎のように揺らめいて、闇に溶け出してしまいそうだ。

 春の骸が言った通り、やつにも相当負担がかかっているのは間違いない。

「だって、あの男の人のことは、私にも関係がありますよ。それに、文世さんの思いを聞いたのは私だもの! 居ても立っても居られないわ」

 禎子は言い出すと聞かない。この子は聡明だが強情だ。私はため息をついた。

「仕方ありませんね。それでは、マサが来るまで手伝ってくれますか」

「はい! お任せください」

 それでも、禎子の笑顔に少し救われる。なにも言わないが、それでもやつもそうだろう。

 私は禎子を楽屋に招き入れた。

 電灯をつけると、広い部屋が照らし出された。今は誰もおらず、大きな鏡台が鎮座している。かえって不気味にも思えた。

「オオニワ、どうしてもやるのか?」

 いざとなると、やつが私に尋ねた。

「やるとも。そうでなければ、文世に私の声が届かない」

「しかし、それはてめえごと、『こっち側』に来ちまうということなんだぜ? その意味はわかっているだろうな」

 まず着替えから始めようとする私に、やつが言った。

「わかっているとも」

 私は憮然として答えた。

「この方法でなければ、私が文世と直接言葉を交わす方法がないからな」

「しかし、おれと一緒だと、春の骸の作り出した異界に入り込むぞ。てめえらにわかりやすくいうと、ちょっとした宇宙旅行みてえなもんだ。なんの保証もねえ空間だ」

 やつは言った。

「おれにも限界はある。あの『境界』を越えちまったら、てめえを守り通せるかどうかはわからねえぞ」

「しかし」

 私は、禎子が広げてくれた煌びやかな長襦袢を手に取った。それは明らかに女ものの意匠だ。やつの衣装だった。

「仮にお前に春の骸を斬ってもらうとしても、あの娘は助かるまい」

 そういうと、やつは黙ってしまった。

 私は襦袢を羽織りながら、やつに言った。

「もう人間の私からあの娘には声は届かない。先ほどよくわかった。対等の立場で話し合うには、私が人以外のなにかになるしかないのだろうな」

 それで、と私は言った。

「私は先程、お前を受け入れて体を貸したわけだが、あれではおそらく完璧ではない。私自身が人の扱いだからだ。だから、彼女に声が届かなかった。そうなのだろう」

 やつはため息をついた。

「まア、お前等、役者共には体感してわかる話だからな。誤魔化さずに話すとそうだ」

 やつはやや観念した様子で、情報をぼかさなかった。

「あれは、おれがこちらの世界に干渉するためのもの。お前等ニンゲンがおれたちの世界に干渉するためには、お前等の側がこちらに歩み寄ることが必要だ」

「そう。だから、私をお前達の世界に近づけるためには、私にはこれが必要のはずだ」

 私は続けた。

「元々芝居は、人ならざるものを対岸に配置するものだ。観客の後ろには神霊がいるものとされてきた。だからこそ、演者は仮面をつけたり、顔に化粧を施すと聞いている。もちろん、演者としては自分の境界を越え、そちら側に置くための行為でもある」

 私は言った。

「だから、私がお前を完全に降ろすためには、私自身がお前の姿をとらなければならない。撮影中のようにな。そうすれば、その間、私は人間ではなくなる。……もはや人ではない文世と話をするためには、その方法しかない」

「まったく。やめさせてえんだがな、おれとしては」

 やつは近くの安楽椅子に腰を下ろしつつ、深々とため息をついた。

「畜生、貴様は強情だからなあ。言い出すときかねえ」

 やれやれとばかり肩をすくめて、やつは禎子に言った。

「悪いな、禎子。ちょっと手伝ってやってくれねえか。……これはおれには手伝えねえからな」

「ええ。殿様、そこは任せてください!」

 禎子がにっこりと笑った。

「私も役者ですからね。心得ていますよ」

 やつが苦々しく諦めたように笑った。


 *


 鏡台の前に座り、頭に羽二重を被り、ドーランを塗る。


 徐々に自分が抜けていく。鏡の中の自分が少しずつ消えていき、そして誰かになっていく。

 私は、メーキャップは基本的に自分でやっていた。少しずつ自分を変えて、何者かになるために。

 いつかの日。

 やつと初めて会った日も、こうやって化粧をしていた。

 ここは、私が自分でない何者かと接する場所。

 その何者かは基本的に人ではない。

 それが自分に接触してくる、境界のあわいがここだ。

 白粉をはたき、目張りを入れ。

 そして、次第に自分は誰かに変わっていく。

 右目の上の傷、これは特殊なメーキャップだが、その方法も私は大体知っている。

 正確にその位置に傷を作っていく。

 禎子は黙って、必要な道具や化粧品を手渡してくれていた。

 いつのまにか、気怠いやつの気配が安楽椅子から消えているのがわかった。

 ではどこにいるのか。

 ……室内にいる。静かに呼吸するように、やつの気配が満ちている。

 私にはそれがわかる。

 徐々にそれは鏡の中に移されていく。

 やつの到来は、思いのほか静かで、しかし、体感的には明らかだった。

 やつが夕方私に憑依した時のような熱感が、急激にではなく静かに現れる。

 首筋に、背中に、そしてじわじわと入り込んでくる。

 血の通わぬ虚ろな気配。人ならざるもの。

 私の目つきが少しずつ変わる。あの時のように、私は『やつ』になっていく。

 右目を接着剤で閉じると、眼鏡をはずしてぼやけた視界が一層悪くなり、遠近感が掴めなくなった。

 しかし、これは平気だ。やつはこういう世界で生きている。

 やつの魂を掴むためには、私は同じ条件に身をおかねばならない。

 腕は無理でも、目だけは。

 やつのことを深く理解しなければ、やつにはなれない。

 ムシリの鬘は、用意してもらっていた。本来なら専門の床山が必要だが、この時は禎子に手伝ってもらい、自分でやった。わかっている。やつについては、もう体の一部になっているかのように、わかっているのだ。

 私は、禎子に着物を取るように手で指示をした。

 黒襟をかけた白の着物。これは、かつて映画で演じた時の紙子を模した衣装。

 点在する梵字や南無阿弥陀仏をはじめとした経文。けれどこれはそれだけではない。

 何も描かれていない右袖と右身頃の大きな梵字に対して、左袖と左身頃には古典の漢籍や和歌、軍記物の書き付けがある。左肩の千字文が示す通り、それは子供の手習のものに似ていた。

 この衣装を作ったものが何を考えたのかは、詳しくは聞いていない。

 ただ、きっとこれは、もはやあの世と縁深いやつの右上半身に対し、生きている左半身は生活に根付いたこの世のものとして考えられて作られたのかもしれない。

 どちらにしろ、前衛的で挑発的なこの衣装は、やつの衣装の中でも一際目立つものだった。

 そして、仏教経典を含むこの衣装が、今の文世の目に留まるのは間違いなかろう。

 それが彼女に救済と映るか、挑発と映るかは別として。

 だからこそ、この衣装を選んだのだ。

 帯をきつく締める。左手だけで帯を結ぶのは至難の業で、少し禎子に手伝ってもらったが、直すのはある程度慣れていた。

 そして、金庫に隠してあった刀を取り出す。

 それはやつを演じるために買い求めた真剣の大小。そっと引き出してきて、腰にぐっと落として差した。

 孫六兼元の重さは、それだけで私の神経をピリピリさせた。これを差していると、私はもはや現代人の大庭勇でもなく、俳優の大丹羽勇次郎でもなくなった。

 腰の重みで体が傾き、それで、私は武士になりきれる。

「オオニワさん?」

 禎子がおそるおそる声をかけてきた。

 私は禎子を見た。彼女の戸惑うような視線は、きっと私の雰囲気がすっかり変わってしまっているからだろう。

 そう。この時には、私にはやつがすでに降りていた。やつの存在を内に感じる。

「いきましょうか。イコちゃん」

 私はその状態で、いつものように声をかけた。しかし、端々に違和感があったのだろう。禎子は立ちすくんでいた。

「禎子」

 戸惑う禎子に、私の口から少し低い声が漏れた。

「マサが迎えにきたら、マサの手配した宿に泊まれ。不審な野郎はマサが警察に突き出している。今日は疲れただろう? 安心して眠れるぜ」

 これはやつの声だった。

「それに、おれたちのことは心配ねえ」

 やつの声は優しかった。それが、禎子の緊張を解いた。

「どこから、文世さんのところに向かうんですか?」

 ふっとやつが私の体を借りて笑った。

「どこからでもだ。……春の骸がおれたちを招いている。どこからでも、相手の領域に入れるさ」

 楽屋を出ようとする私の目に、姿見が映った。

 鏡の中の私は、少なくともやつそのものになっていた。背格好も顔の形も違うはずが、私はやつの姿として鏡に映っていた。

 もしかしたら、禎子にも、そう見えただろうか。

「あの、お二人とも」

 禎子は楽屋からふらりと出ようとする私達を呼び止めた。

「オオニワさん、殿様」

 禎子は心配そうだったが、あえてにこりとして、それから芝居めかして言った。

「ご武運を!」

 私かやつかどちらかわからないが、目を細めて笑う気配があった。


 禎子を残して楽屋を出ると、廊下の隅に真っ黒な空間ができていた。桜の花が舞っているのがここからでもわかる。

「あれか」

「そのようだな」

 近づくと空間の内側は星の海になっていた。今、外に出れば一面に広がっているであろう天の川を思わせる、様々な色の星々の瞬く空間。

「ほらな、宇宙旅行だろう?」

 やつが言った。

「もう戻れねえかもしれねえぞ。いいのか?」

「ここまできて引き下がるはずがない」

 やつは私の中でくすりと笑った。

「そうだろうよ。てめえときたら本当に強情だから」

 私は躊躇いなくそこに進んだ。

「行くぜ、オオニワ」

 足を踏み出す。

 私とやつを浮遊感が包み、入り口が閉じて廊下は見えなくなった。


 私たちの前後左右は、星の海で満たされた。

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