第二十八話 宇宙旅行-2
*
黄昏から宵にかけて。
空は青から橙に染まり、じわじわと濃紺の帳が迫ってくる。
沈みゆく太陽の反対に月が昇る頃。
星はちらちら瞬き、夢見るように淡い色の空が広がっていた。
二人乗りの単車。
私の体に掴まる禎子の体温を感じながら、私とやつは彼女から文世の声を聞いた。
あいつに捕まった後、私は気をすぐに失ったわ。多分、春の骸が私に干渉してきたからだと思う。
その間、桜の夢を見ていたの。
背の低い桜、あれが御室桜かしら。多分そうだと思う。その地面に絨毯みたいに桜の花が敷き詰められていた。
それが時折吹き上がって、その場所にまで飛んできて、地面に降り積もるの。
そこは仁和寺ではなくて、山の中だった。
そこからは仁和寺が見下ろせて、時折桜の花が飛んできていた。
市松人形みたいな綺麗な子。あれがきっと朝倉文世さん。
そんなことを考えていると、彼女の考えや気持ちが私に流れ込んできたわ——
*
『あれが仁和寺の桜。ほんまにきれいやわあ。でも、これ以上は近づかれへん』
彼女は悲しげだった。
彼女は長く彷徨っていた。
横浜で死んだ後、迷子になり、自分の落ち着く場所を探して流れてきたのだ。
ようやく春に見たかった桜のある仁和寺に来たけれど、寺には入れなかったのだろう。
だから、近くの人寂しい山に登って、桜を見ていた。
文世はあれから母を探していた。だからこそ迷ったのだ。
母は先に天国で待っていると聞かされていた。しかし、迷子になって辿り着けず、文世は知っている土地を求めてここまで流されてきた。
大阪にも帰らなかった。
一度、実家の近くまで行ったが、そこでみたのは独立した兄と姉、そして、新しい家族を迎えた父の姿だった。後添えをもらった父には、文世の弟妹が生まれていた。
文世は自分の帰る場所がないのだと思い、咄嗟に逃げてしまった。
そして、そのとき、文世は、仁和寺の桜の約束を思い出して、なんとか京都に流れ着いたのだった。
『オオニワのお兄ちゃんと桜を見るって約束したなあ』
そんなことを思い出しながら、彼女はずっとそこにいた。
そこは居心地が比較的良かった。
長く彷徨っているうちに、彼女はいろんな思念たちと混ざり合っていったが、彼らは文世をお姫様のように扱った。
仁和寺の近くでは、さらに彼らは文世を大切に扱った。彼ら曰く、文世は特別なのだという。
しかし、文世の周りの取り巻きはすでに穢れたもの達だった。彼らの影響を文世も受け続けていた。
そんなころ。
突然、オオニワ本人が仁和寺に現れたのを、取り巻きの誰かが報告した。
彼女は喜んだ。
オオニワのことはよく覚えていた。あの約束をしたのは、この世を去るすぐ前だったから記憶にも残りやすかったのだろう。
そして、彼の気配を文世は嗅ぎ取った。
『オオニワのお兄ちゃんや。間違いない』
彼女は山を降りて、彼を追いかけて仁和寺に行った。
『うちとの約束を覚えていてくれたんや』
彼の周りにはたくさんの人がいた。ただですら仁和寺の中には入れないのに、たくさんの人に囲まれたオオニワにも近づけない。彼女は困っていた。
ただ、人々の話を聞いた。
「見ろよ。大丹羽勇次郎だ」
「へえ、あの人が? 活動写真でみるのと雰囲気違いますなあ」
「そういえば、新作の封切りも近いんやな」
どうやらオオニワのお兄ちゃんは、役者になったらしい、と彼女は理解した。
『うちの思った通りや。オオニワのお兄ちゃんは、素敵な声をしてはるし、よく見るとカッコええところもあるもん』
彼女は誇らしくなった。
人々が様々に噂しあう。なるほど、彼は立派な俳優になっているらしい。
文世は、その頃には他人の思念が読めるようになっていた。それは文世と混ざり合った取り巻き達の力でもあった。
その日の仁和寺にいたものは映画関係者も多く、文世はそんな人々からたくさんの記憶を写し取り、かつての冴えない若い事務員オオニワが、今では押しも押されもせぬスタアなのだと知った。
『兄ちゃん、ほんまにすごい! そんなに人気があるんや!』
さらに周りを探ると人々の記憶が提供され、めくるめく早さで混ざっていった。
大丹羽の出ていた活動写真の記憶、ブロマイド、彼の醜聞、大丹羽の演じた人々。
目まぐるしく与えられる情報。
そんな文世の目の前を、とうとう大丹羽勇次郎が通る。まるで別人のような威圧感があったものの、やはり、元事務員オオニワの面影をたたえていた。
『お兄ちゃん!』
文世は呼びかけた。
『オオニワのお兄ちゃん。うちは、ここにおるのよ!』
それは文世がここにきて、初めて見た知り合いでもあった。だからこそ、文世は必死に呼びかけた。文世に連動して、他の有象無象たちもオオニワを呼んだ。
しかし——。
「大丹羽先生、よくぞきてくれました。ご多忙中、ありがとうございます」
「いえいえ。こんな風流な会に呼んでいただいて光栄です」
オオニワの声。つまらない社交辞令。だらだらした大人同士の会話。
偉いおじさんたち。整った顔立ちの役者たち。美しく艶かしい女優たち。
オオニワはもうそこの住人だ。
文世のことなど見向きもしない。
『オオニワのお兄ちゃん、うちのことがわからへんの? ここにおるのよ!』
文世は泣き始めてしまった。
しかし、スタアとなった大丹羽は、もう彼女のような小さな娘など顧みるはずもない。
華やかな世界に身を投じてしまった彼は、文世の手の届かない場所にいる。
『うちとの約束を忘れて、自分一人だけお花見に来たの? うちはここにおるのに!』
仁和寺に入っていくオオニワを見送りながら、はらはらと文世は泣いた。追いかけたが、仁和寺の清らかな世界には、穢れをまとってしまった文世はどうしても入れない。
全てに見放された気持ちだった。
『うちが子供やから忘れたん? 子供やから、うちなんか見いひんの? あんなに綺麗な女の人が周りにぎょうさんおるから』
そんな彼女に、周りのとりまきたちがそそのかし始めていた。
——もっと
——もっと、強く
——呼んでみなければダメだよ
——あのひとを手に入れるためには
——縛り付けてしまうほど強く呼んで
——振り向かせることができたら
——力の強くなる夏には
——あのひとはお前のものになる
スタアのオオニワは、燦然と輝く獲物だった。人ならざる者たちにとって、オオニワは垂涎ものの、美味そうなニンゲンだった。
もちろん、文世の取り巻き達にとっても。
だから、文世を焚き付ける必要があった。
文世はそれまで気づかなかったが、彼女がお姫様のように扱われたのは、特別な力があったためだった。
それは、桜の花びらを操る力だった。
ここに吹き溜まっているのは、飛んできた御室桜の花びらの残滓だった。
清らかだった花びらは、ここに吹かれてくる頃には見る影もなく崩れていた。それでも、残された少しの清らかさを、皆は求めた。古い清らかな聖域の桜は、それだけの力を秘めていた。
しかし、文世だけが足元に降り積もる桜の花びらを好きなように扱えた。
文世はもともと清らかなまま死んだ娘だからか、古く強い桜を他のものより上手に扱うことができたのだ。
しかし、それでもそこの桜はすでに朽ちている桜だった。何年も降り積もった花びらの残滓が、積み重なった思念に影響されていた。
美しい薄紅の花は、やがて萎れて黒く腐りゆく。強い力の代償に、その腐敗は強くなる。
文世は、それを扱い続けるのを危険だと思っていた。
しかし、その力は魅力的だった。そして、一瞬であれば、それはみずみずしい春の桜に擬態できる。魅力的なものを装える。
その力さえあれば、彼を振り向かせることも容易いはずだ。
彼らは文世にそれを教え、そして、扱うように勧めた。
——彼を呼び止め、彼との縁を作り、密やかに取り憑く!
——そして、今年の桜の花も爛熟し切った夏の頃、彼を取り殺して一緒に呼び込んでしまえ!
彼らは、再三、文世にそう言った。
——彼も我々の一部になれば、文世は永遠に彼といられる!
——さあ、取り込んでしまえ!
——誘惑しろ!
——さあ、呼ぶんだ!
文世が少しでも望めば、その力が手に入る。
足元にこんなにあるのだもの。この大きな力を文世はやろうと思えば、自分のものにできる。
そうすれば、古い怪異と同じくらい、強い力を得られるのでは?
しかし、その力は禁断の果実だった。それを求めると、きっとお母はんの元には帰れない。それは、化け物になるということだから。
『うちは、お兄ちゃんと一緒にいたい。一人はもう嫌や』
とうとう、文世はその禁断の果実に手を出した。
『オオニワさーん!』
文世は叫んだ。その声は美しい桜吹雪を伴う風になり、オオニワの背に降りかかった。
オオニワは振り返った。
一瞬のことだった。美しい女優と雑談していたオオニワは、確かに文世を振り返った。
しかし、そこには何もいない。
「気のせいか」
オオニワはあの声でポツリと呟いた。
オオニワは、再び雑談に戻ったが、その背にべったりと桜の花びらが張り付いた。
『そうや、もううちは一人やない。……夏を待てば、お兄ちゃんはうちと一緒にいて本を読んでくれるようになる』
ああ。
文世は嘆息をついた。
『夏になるのが、楽しみやなあ』
いつしか文世は大人の女の姿を取っていた。
オオニワが愛していたという藤の女によく似た、妖艶な女だった。
春は子供と若者の季節だ。
そして夏は成熟した大人の季節である。
しかし、子供のままで死んだ文世は、そのままで大人になることはできない。無理に大人の姿になった彼女は、夏になれば、ただ爛熟して腐乱して醜い姿となるだけだった。
そうわかっていながら。
『もう、うちは一人でいとうない。お兄ちゃんをもう離さへん。だって、約束したんやもん』
お兄ちゃんは二つ目の約束を破った。
だから、一つ目の約束を、叶えてもらわなあかん。永遠に。
永遠に、文世と一緒に!




