第二十八話 宇宙旅行-1
我々は、禎子に取り憑いた春の骸と対峙していた。
禎子は生来の明るさがかき消えて、元からの美しさが艶かしく妖しく現れていた。
『ほんっと、役者の体は乗り移りやすいわね。そうだ、お前もそうなのでしょう? 随分と美味しそうな男を依代にしたことね』
「黙れ、女ァ」
やつが歯を見せて敵意をあらわにした。春の骸は、けらけらと笑った。
『その男がいて良かったわね、お前』
春の骸は見透かしたような目でやつを見た。
『さっきの傷を負ったまま、山に入ればお山の怪異に食われるほど弱体化していたはずよ。それがその体に乗り移らせてもらえて、命長らえたというところかしら』
春の骸の皮肉にやつは舌打ちした。
「冗談ぬかすな。この程度で消滅できりゃア気楽なんだが、そこまで柔じゃあねえんでな」
やつは図星をさされたのだろう。やつは終始なんでもないふりをしているが、あれだけやられてまったく平気なわけではない。しかし、お首にも出さず、ニヤリとした。
「それならそれで、汝には余程借りを返さなければならねえ」
あはは、と春の骸は笑った。禎子の姿を借りて、それは無邪気に見えた。
『お前みたいな傷だらけの男が? 今更傷が一つ増えたくらいで本気になって! それだけ深い傷だったということねえ! むしろ深傷なのは、体より自尊心の方かしら! あはは、いやだこと』
春の骸はくすくす笑い、やつを見下すようにみた。
『みっともないわね。死に損ないの怪異のくせに。創造主と一緒に逝けなかったくせに』
やつはそれに対しては冷静に受け流した。
「みっともねえのは、汝だってそうじゃあねえか。今更オオニワが欲しいからって、禎子にやきもちを焼くとはな」
その瞬間、春の骸の気配がぞわりと強くなった。春の骸の内側から、殻を破るように何かが現れる気配があった。
『やきもちなんかやない!』
声が乱れ、幼い子供のものになった。
『うちに本を読んでくれる、仁和寺の桜をみてくれる、そう約束したのに、兄ちゃんは来んかった! それやのに、こんな娘と仲良うして!』
「文世ちゃん!」
やつが憑依しているにも関わらず、口から私の声が出た。
「文世ちゃん、もうやめるんだ! 忘れていたことは私が悪かった! だが、こんなことは違う!」
「オオニワ、寄せ! 聞いてねえ!」
私の言葉のすぐ後で、やつが私の口を借りて言った。
「文世には届いてねえんだ」
すぐに文世の気配は消え、大人と子供、男と女の入り混じった春の骸に戻っていく。複数の笑い声がさざめいた。
『お前が悪いのよ。だって、約束したのに、忘れちゃうのだもの』
春の骸は禎子を使ってそう言って笑う。
『でも、この子はお前が欲しい。この子が満たされると我々も満たされる。それで、私たち、お前を取り込むことにしたの』
いっそ、あの時の藤の女を思わせる妖艶さで、禎子の姿をした春の骸はいう。
『だから、来てくれるわよね。そんな血で塗れた男なんて追い出して、私たちと来てくれるでしょ? だって、文世は……』
春の骸の声が多重に響いた。
『お前が本を読んでくれるのを今でも待っているのよ。お前が彼女を忘れて、役者になっても』
「聞くな、オオニワ!」
私が動揺したのを感じてか、やつが注意をしてきた。
と、その時、ふと春の骸が頭をもたげた。そして、相槌を打つ。何か小さな声で会話が交わされているようだった。
『おや、もう時間? もう嫌だって? いい依代だけれど、文世がこの娘といるのを嫌がるのは仕方ないねえ』
仕方がない、と彼女はもう一度言った。
『ここでお前と決着をつけたかったけれど、やめにしましょう。今度はもう少し邪魔の入らない、色気のあるところでお話ししましょう』
春の骸の声が多重に響いた。その中にはあの文世の声も混ざっている。
『文世はずっとここにおるのよ、オオニワさん』
文世の声は、いつのまにか大人のそれになっていた。
『ここにおるの。だからいつでもおいで。……もし、来ないならうちから迎えにいってあげる』
どきりとした。心臓が跳ねたのをやつが察知したのか、オオニワ、と小声で指摘される。
『夏はうちの強くなる季節や。夏の間に、昔、あんたと過ごした楽しい夏の間に、うちはあんたを手に入れる』
そういうと、禎子の周りをぐるぐると囲んでいた黒い靄と桜の花びらが一斉に空にのぼり始めた。それは空の上で集まると、突然、発光し、ばらばらになって消えていった。
『去った、のか?』
「ああ。禎子への憑依を維持できなくなったからだ。しかし、あいつは本気だぞ。今度こそ、お前を本当に迎えにくる」
やつが空を見上げながら、ぼそりと陰鬱な声でいった。
禎子の体からは何かが抜けたようになり、力が入らなくなった。彼女の体がかしいだ。
「禎子!」
やつが禎子に駆け寄り、彼女を抱き留める。
うーんと禎子は唸り、目を開ける。
「あれっ? オ、オオニワさん?」
禎子は眼鏡をしていない私を見て、ちょっと驚いたようだった。おそらく雰囲気も変わっているのだろう。
いまは、やつが降りてきているから。
「禎子、無事か?」
「ええ」
ぼんやりと禎子は答え、それから、目を瞬かせた。
「あれっ、私。あれからどうなって?」
禎子は思い出したのか、慌てた。そして、やつ——つまり私を見上げ。
「あれ、殿様はどうなったんですか? 確か?」
禎子はやつが刺されたのをみている。心配そうにしながら辺りを見回し、そして、もう一度私を見た。
禎子は流石に気づいただろう。
「もしかして、殿様なの? オオニワさんじゃあない、ですよね?」
にやりとやつが口元を引き上げたのがわかった。
「詳しい話は後だ。立てるか?」
やつは禎子の手をとって、立たせる。
「その前にアイツを縛り上げて、車に放り込んでおく。マサに連絡して警察に引き渡すぜ」
禎子からしてみれば、私の姿ではあるのに雰囲気や言動はやつそのものだろうから、かなり違和感のある状況なのだろう。
やつは気絶した男に近づき、男の車からロープを取り出してきた。禎子を攫うつもりだったのだから、そうした道具は一通り用意していたらしい。それがなければ、帯などを使わなければならなかったので、ある意味では助かった。不幸中の幸いだ。
やつは素早く後ろ手に男を縛り、足も揃えて縛り上げると、軽々担いで車の中に放り込んだ。
「今は春の骸は抜けちまっているらしいが、コイツは、あれに掻き立てられて禎子を強引に狙ったというだけで、元からお前を狙っていたやつだからな。危ねえやつだし、叩けば埃が出そうだ。まァ、何かしらの罪でしょっぴけるだろう」
やつはそう説明し、今度は乗り捨てた単車を取りに戻った。乱暴に山道に乗り捨てたものだが、幸い谷に落ちることもなく、道に倒れていた。
「禎子が救出できりゃア、おれは用済みなんだが、オオニワじゃあ単車の二人乗りは心許ねえからな。もう少しいてやろう」
『おい、イコちゃんの前で格好をつけるでない』
私だって、単車の運転くらいできる! ……多分。
しかし、やつはそれを無視した。
「二人乗りするぞ、禎子。後ろに乗りな」
禎子は、ようやく私の姿で話すやつに慣れてきたのか、はい、と頷いて近づいた。
やつは先ほどしまった眼鏡を、かけ直すところだった。やつの目にどう見えているのか知らないが、やつをしても近視の私の目で運転するのは気が引けたのだろう。
この山の中はもう黄昏の空気が満ちてきて、木々の陰が濃くなってきていた。暗くなるのは早い。やつとしても視界が悪くなったのだと思う。
「あの、でも。殿様、あのね……」
禎子は、単車に近づくと私の着物の袖を掴んだ。
「あのね、私、わかったことがあるのよ」
「わかったこと?」
やつは眼鏡をかけおえて、まじまじと禎子の顔を見た。
「どうした?」
「私、さっき、あの子の声を聞いたの。文世さんの。……あの子に多分取り憑かれた時に、外には届かない彼女の声を」
禎子はぎゅっと袖を掴み、
「文世さんが何を言いたいのかを」




