第三十一話 花宵-2
*
朝倉家の仏壇に参らせてもらい、線香をあげた。
文世の遺影は幼いあの日のままで、相変わらず痛々しいほど可愛らしい。その近くに文世の好きだった本や人形などが飾ってあった。
やつが、あの時持ち出した怪盗紳士の本や写真は、この辺りから持ってきたものなのだろう。
文世は——心配する必要などなかったのだ。
朝倉の当主は、新しい後添えをもらって新しい家族を迎えても、文世を忘れることなく愛していたのだから。
船場の実家をのぞいたという文世が、この部屋を見つけられていたら、怪異になることなく成仏できたろうに。
私はそう考えると、そのすれ違いに切なくなる。
私は心ばかりの香典を朝倉の当主に渡し、そして、あの簪を取り出した。
当主がそれに目をとめた。
「おやこれは?」
「これは、あの時、お嬢様が栞がわりに使っていた簪によく似たものです。それそのものではありませんが」
当主もそれを覚えているのだろう。
「お嬢様はあの日、簪を探していました。学校に忘れたから、取りに行くと言っていた。あれは、お嬢様のお母様のものだったのでしょう」
当代は、懐かしそうにそれを手に取った。そして、ガラス玉を愛おしげに撫でた。
「ええ、ええ。本当にこれはあの簪によう似とる。文世はあの簪を、それはそれは大事にしとったもんでした」
老当主は目を伏せた。
「あの簪は、震災に巻き込まれて、実物は見つからへんかったのです。随分探しましたが」
「そうでしたか」
私は、自分の予想が正しかったことを知った。やはりあの簪は今も朝倉家にもなかったのだ。だから、文世は簪を探して彷徨っていた。
「差し出がましいようですが、お嬢様にこれを」
私は言った。
「ぜひ、お供えしてやってくれませんか。……お嬢様、文世ちゃんは、本当に簪を大切にしていましたから」
「ありがとうございます。文世も喜びます。そうさせていただきますよ」
老当主は少し目に涙を浮かべ、頷いた。
私が帰ろうと立ちあがり、廊下で待っていたやつが迎えようとした時、老当主が呼び止めてきた。
「お願いを重ねるようで申し訳ないんですが」
彼は恐縮しながら続けた。
「もしお時間があるようでしたら、文世の墓にも顔を出してやってもらえませんか」
彼は微笑んだ。
「文世は、オオニワさん……、大庭くんが本当に好きやったんですからね」
*
朝倉家の菩提寺は、徒歩で十分ほどのところにあった。
寺の和尚に挨拶をし、私は朝倉家の墓所を尋ねることにした。
朝倉家からは案内を出すといわれたものの、それは辞退した。
そこまでしてもらうと気をつかう。
それに第一、やつがそばにいるので、そばに誰もいない方が私には楽なのだ。やつが余計なことをしないとも限らないから。
和尚に挨拶をするのも、なんだかんだと時間がかかる。まず私も自分が何者か名乗るので、大体、世間話が長くなる。
その間、やつは「正体を見破られるかもしれん。相手がただの生臭坊主だったら良いが高僧だったらまずい」など言って、姿を隠していた。
やつのその手の話を聞くと、悪霊である自覚はあるのか、と毎度感心してしまう。
まあ、やつがただ単に善良なものではないから厄介なのは、私が一番よく知っているのだが。
特に僧侶に苦手意識があるようだが、どこかで聖職者に見破られて祓われそうになったことでもあるのだろうか。
とにかく、僧侶の前では極力姿を隠していた。
「おい、終わったぞ。場所がわかったから……」
とやつが隠れていそうなところに呼びかけたところで、やつの姿が見えた。
「チッチッ、チッ」
やつがしゃがみ込んで何かしている。私は言葉を飲み込み、それを観察した。
突然、やつが素早く動いた。
「ははっ、捕まえたぜ」
にゃーん、と猫の声。見ればやつは左手で真っ黒な子猫を抱いている。猫はみゃあみゃあ鳴きながら、やつにされるがままになっていた。
やつは猫をじゃらしていたらしい。
「おめえも、なかなかかわいいじゃあねえか」
ほらほら、とやつがじゃれる猫に左目を細めているようなので、私は意地悪をすることにした。
「おい」
私が大きめに声をかけると、やつは猫を抱えたまま、慌てて立ちあがった。
「な、なんだ、オオニワっ! 声をかけろよ」
「だから、おい、と声をかけたが?」
私が猫を見たのを見て、やつは慌てて子猫を離した。猫はそのままどこかに隠れてしまう。
「別に」
やつが気まずそうに言った。
「猫と遊んでいたわけではねえぞ」
「だったら、なぜ猫を」
「ん、ああ、それは」
やつは、動揺した顔になった。
「なんだ、その、仁和寺を開いた帝は、黒猫がとくと好きだったらしいからな。黒猫を見かけ、文世に思いを馳せていたのだ」
「ほーう」
私はやつを横目に見て言った。
「そうだ。ただそれだけだぞ」
やつが不自然に話を切ろうとした。
私は内心ほくそ笑んだ。
今度は、もっと決定的な瞬間を捉えたいものだ。いつもからかわれているのだから、たまには私もやり返してもよかろう。
「ともあれ、場所がわかったから行くぞ」
私はやつについてくるようにいうと、朝倉家の墓所に移動した。
朝倉家の墓所は、流石に老舗の商人の墓で、華美ではないものの立派な作りだった。
そこに小さな地蔵菩薩の石像があり、それが文世の供養塔だということは一目でわかった。
その隣に桜の細い木が植わっていた。今は夏なので葉を茂らせていたが、これがくだんの御室桜なのだろう。頼りなげな木だった。
雨は止んでいたが、墓石は濡れていた。
私は持ってきた竜胆の花を手向けると、文世に合掌した。
文世はもう惑わずに浄土にいけたろうか。あの様子では、もう二度と迷うことはないだろう……。
そう思いながら。
「おい」
ふと、背後で帽子を取って軽く黙礼していたやつが、声を上げた。
「オオニワ、見ろよ」
「なんだ。今は静かに……」
そう言いかけたところで、やつの左手が桜を指しているのに気づいた。
その細い枝の一つに、儚げな蕾がついていた。そして、それがかすかに開いていたのだ。
私は目を見開いた。
蕾は私が見ている前で開花した。
この御室桜の挿し木は、なぜか何年経っても花をつけない。そう朝倉家の当主が嘆いていたあの花だ。
それが、今、咲いた。
七月の終わり、夏の太陽のもとで狂い咲いていた。しかし、その可憐な花は、季節違いの不穏さではなく、少女の微笑みのような悪戯っぽさを湛えていた。
「そうか」
私はそっと微笑んだ。
文世は、帰ってこられたのだ。行くべきところに辿り着け、そして、家にも帰ってきた。
「おかえり。文世ちゃん」
私の呼びかけを聞いたように、季節外れの狂い咲きの桜はかすかに風に揺れた。
*
夕刻。
西の空に太陽が沈み、かすかな残照がまだ空にほのあかるさを与えていた。
大阪の街の橋の上で、ぼんやりと、着き始めたネオンサインと夕暮れの空を交互に眺めていた私とやつは、ふと同時にため息をついた。
それに気づき、やつが苦笑した。
「オオニワよお。おれたちは、帰りもせずに、なにをここに突っ立っているんだ?」
「私も知らん」
季節外れの桜をみた我々は、夏の盛りの最後の日に、春に迷い込んだ気持ちになっていた。
それは太陽が沈み、宵に差し掛かっても同じだ。
寧ろ、気温が下がった分、騒がしい夏の夜に馴染めず、まだ物憂げな春の気配に浸りたいような気分になった。
私とやつだけが、夏から取り残され、春の宵にいるようだ。
「春宵一刻直千金」
やつが、ぼそりと季節外れなことをつぶやく。
「本当に、文世め、最後までやってくれるぜ。季節感が狂っちまった」
やつが苦笑する。
「街はすっかり夏の夕暮れなのに、春の気分が抜けねえ」
「私もだ。……まだ桜のかげがチラついて見えるようだ」
空を見上げると、月が昇っていた。
なんだか、季節の狭間の迷路に迷い込んだようだ。
ため息を深々とつく。
「今日は、なにか飲んで帰るか」
ぽつりというとやつが、おっ、と声を上げた。
「おいおい、飲みの誘いか? おれがいると、外で飲むのは嫌がるお前が? 珍しいな?」
それはやつを連れて、料理店や喫茶店より揉め事の多い酒場を訪れるのが嫌なだけだ。
ただ、今日はそうも言っていられない。
「今日は特別だ。貴様も、飲みたいのだろう?」
「そりゃあな。こういう迷路の中みてえな気分の時は、飲んでスパッと忘れるに限るぜ」
やつは笑った。
「春の宵はそりゃあ風流で値千金だろうが、夏の宵も乙なものだぞ」
「お前、さては冷えたビールが飲みたいだけだろう?」
「悪いか? あれは格別じゃねえか。季節外れが好きな文世にも、夏の夜の楽しさも教えてやらなきゃあならねえな」
「まさか。そんな中年男の楽しみなど、あの子に知ってほしくない」
西の空。
すでに太陽は姿を消し、徐々に夜の闇が強くなっていた。
目の端を桜の花びらがちらついた。それが、ちらほらと西の空に向かって消えていく。
やつはふと私の脇をつついた。
「おい、ここにはビヤホールなるものがあるだろう? おれはまだ入ったことがねえのだ。それにしようぜ」
私は日本酒の方が好きなのだが、と思ったが、やつは行動が早い。さっそく、お目当ての店を探し当てていた。
「あれが有名なビヤホールだったな。さ、オオニワ行こうぜ」
やつは私が止める間もなく、店の方に進み出した。
私はそんなやつを面倒に思いながら、その後をついていった。
やつと私と雨の庭〜文月の残照〜 完




