第三話 振り返る
振り返るという行為は、過ぎ去った過去を気にかけるようなもの。
通りすがった後、微かに視界に入り、そして聞こえたかもしれない何かに気を取られて、振り返るのだ。
私のように、もはや若いとは言いづらい男には、振り返る理由も過去もたくさんある。
若い頃のように目の前だけを見て歩けるわけではないからだ。
しかし、それでは、私はいつ振り返ってしまったのだろう。
過ぎ去った春の幻に取り憑かれる程度に。
*
普段は撮影で忙しくしていることもあり、私がこの別荘にやってくるのは主に休暇の時なのだが、時には仕事の合間に来ることもある。
私が忙しい間も、大体、やつは別荘の一室を根城にして、自由気ままにすごしている。
やつとは当然顔を合わせない日も多いが、そういう時、やつはやつで楽しく過ごしている、ということらしい。私としては問題を起こさなければ、それで良しとしたい。
やつの姿は人には見えないが、それでも勘の鋭いものには見えることがあるという。しかし、私の別荘は庭師や付き人のマサなどは出入りをしているが、比較的訪れる人も少なかった。
そういう意味でも、あの別荘はやつにはとても居心地が良いのだろう。
なお、やつもやつなりに気を遣って、私が家族と過ごす本宅には顔を出さなかった。遠慮会釈もないくせに、そういうところにまともな反応をすることもあるのだ。
さらに私について撮影所に出入りすると、やはり勘の鋭いものに姿を見られそうで厄介なので(映画関係者には、製作者としてやつと縁のあるものも多すぎる)、やつはあまり私の仕事場についてこなかった。
まあ、しかし。
やつが別荘から離れない理由は他にもある。
私に取り憑く形で存在するやつは、私、または、私と深い結びつきのあるこの別荘から遠く離れた場所にはいけないらしいのだ。
今は、私の大切な別荘は、やつの根城にもされている。それには不満を表明したい。
仕事が中止になったので、私は別荘に向かうべく山に向かっていた。少しやつに聞きたいことがあったのだ。
今でも、時折、視界の端を花びらがのぞくことがある。
やつはこの間、怪異を斬り捨てた後、結局、今はなにもわからんと深い話をしなかったが、今更ながらあれはどういうことかと気になってきたのだった。
先ほどまで降りしきっていたにわか雨は止み、あたりはじっとりとした湿気が漂っていた。涼しいとは言えぬ気候だったが、今では肌寒く感じられる。
しっとりと濡れた、藪に囲まれた小道を上っていく。紫陽花が少し残っていたが、夏に向かう季節の道は濃い緑に覆われている。
と、ふと、後ろから声が聞こえた。
オオニワさん——……
そんなふうに呼び止められた気がしたのだ。聞き覚えのあるような女の声に聞こえた。可憐で可愛らしく、甘い女の声だ。
聞き覚えがある気がした。
誰だったろうか、と私は考えた。そして、失くした過去を探すように首をめぐらそうとして——。
「振り返るな」
とすぐ背後からしゃがれた静止の声が聞こえた。
やつだ。
「振り返るな。なにかつけてきているぜ」
気がつくと、やつが私のすぐ後ろに並んで歩いている。
やつはいつもの白い着物を着ていたが、その右半身は相変わらず闇に溶け出しそうな不確かさだった。右の顔にはいつぞや手に入れた狐の面を斜めに被っているが、外出時にはそうしていることが多い。
「貴様、いつのまに?」
「てめえがあんまりぼんやりしているから、心配で迎えにきてやったんだ。感謝してもらいてえもんだな」
やつは皮肉を言って、
「今日は撮影が休みか?」
と尋ねた。
私はやつの忠告通り、振り返らずに話をした。
「雨が降ってきたからな。撮影が中止になった」
「ほう。お前の我儘で中止になったのでなきゃあ、良かったぜ」
やつはいつもの調子だが、流石に私にはあまり余裕がなかった。
やつは皮肉はいうが嘘はあまりつかない。
大体、私に送り狼よろしくぴったりついてくるやつは左手を刀に置いていた。やつも警戒している証拠だった。
女の声でまだ私は呼ばれている。
オオニワさん、オオニワさーん——……
「この間、貴様、私に気になることを言ったな?」
と、私は声を振り払うように尋ねた。
「春の骸が私に取り憑いているとかなんとか」
「おお、それか。……確かに言った」
やつは平然と言った。
「それについて、詳しいことを私に説明しなかったな」
「おれも詳しいことはわからねえからな」
やつは悪びれもしない。
「この間、手を出してきた時はおれが斬ってやったが、あれは本体ではない。そう簡単な相手ではねえということだ」
「では祓えていないということか」
「はは、同類項のおれのやることだから、『祓う』というのが適切かどうかはわからんが」
やつが苦笑しつつ、
「少なくとも、おれが斬って退治まではできていねえ。あいつはまだお前に憑いて狙っている」
やつはニヤリとし、ちらっと後ろに視線を向けた。
「今聞こえている女の声も、そいつのものだ。やれやれ、相手が大物だと面倒だな。あの手この手とあらゆる手を使ってきやがる」
やつは苦笑した。
「よほどてめえに惚れ込んでいるものと思われるぜ。色男は辛えなあ」
「戯言をいうな。しかし、何故だ。なぜ私に?」
私は尋ねた。
やつは急に真面目な顔になった。
「オオニワ、お前は普段はもっさりしたただの男、大庭勇だが、一方では当世の大スタア様、大丹羽勇次郎だ。前に、役者のような人の注目を集めるやつは、ああいう怪異からも魅力的な存在だと教えてやったろう」
「確かに聞いたが」
「うむ。ただの役者でも美味しいところ、てめえはスタアと呼ばれるような存在。やつらからすりゃあ垂涎ものの美味な存在なのだ。だから、隙あれば取り憑こうとする不埒者は多い」
「それも聞いている。……貴様がここにくるようになって、私も物怪の類が見えるようになった。だから、気をつけるようにはしていたはずだ」
「どうだか。貴様は鈍臭いところもあるからな」
やつは肩をすくめた。
「あいつが何者かはおれも知らんが、なかなか古くて手強い相手なのは確かだ。おそらく、貴様がロケ先かなにかで拾ってきたのだろう。古刹にもああいうのは多い。特に、この京の都にはあちらこちらに曰く付きの場所があろうからな。おれもどこから来たやつなのかははかりかねている」
ふむ、と私は唸った。
確かに、このところ撮影でいろんなところに行っているし、そう言われると心当たりも多い。
「オオニワ、おそらくだが、貴様はどこかであいつに呼び止められて振り返ってしまった。それであいつは貴様に憑いてきてしまった」
不意に背後に花びらの気配があった。
散る花びら、桜吹雪の。
ざああ、ざああ。
音がするようだ。
思わずぞっとして、背筋に冷たいものが走る。
「どうすれば良い?」
「どうすれば? 毎日、お経唱えて坊主みたいな生活してるんだから、そのまま、同じようにしてりゃいい」
やつは笑ってからかうように言った。むっとして、
「私は真剣に相談しているのだぞ?」
「心配するな。てめえにはべったりとおれが取り憑いているから、そう簡単に手出ししてこねえよ。おれの方が先客なんだ」
やつは言う。
「だからこそ、貴様が一人で出歩いていても簡単には来ねえんだ。それだけでもなく、仕事場や家には他の人間の気配もある。それでも、危ねえのはこういう人寂しい道」
やつは唇を歪めた。
「あれはおれの隙を突こうとしているが、そう簡単にはいかねえ」
やがて別荘が見えてきた。その門を通る頃に、ふと一陣の涼しげな風が吹きつけた。
オオニワさん、オオニワ……さー、ん……
ざああ、ぶわあ。
花びらが膨らむように増えて、ざらざら散る気配がした。
途端、やつがざっと振り返る。その一瞬の殺気たるや凄まじいものだった。
やつはあまりにも滑らかに刀を抜いた。
ばしゃっ、と水の音のようなものが聞こえた。
ようやく私は振り返り、そちらに目を向けた。
水たまりに波紋が広がっただけで、特に何も見えなかった。
「どうした?」
「ついきている何かの先端は斬ったが、やはり本体には逃げられたぜ」
やつが刀をおさめながら呟き、顎で水溜まりを示した。
水たまりに黒く変色した花びらが浮かび、黒インクのようなものを滲ませている。
「やつはなんらかの集合体みてえなもんかな? やれやれ。厄介な相手だ」
やつは私を見遣って、ため息をつき、私に皮肉っぽく言った。
「まったく、てめえときたら、どこで振り返っちまったんだ。とんだアバズレに見染められやがって」
やつは続ける。
「お前みてえな後ろ向きな男は、振り返らなくて良いもんを振り返っちまうもんだからな」
私はさすがにムッとして言い返す。
「私くらいの年になると、いやでも振り返る過去はあろうというものだ。気になることがあれば、反射的に振り返りたくもなるものだろう? それは貴様もではないか?」
私がそういうと、やつはニヤリとした。
「おれはそう簡単に過ぎ去った過去など振り返らねえ。どうせ碌な思い出などねえんだからな」
やつはそう言って、私を別荘に向かうよう手で指示した。
「何かと思い出したくもねえ過去を振り返るのも、良し悪しだぜ。オオニワ」




