第二話 予感
春の骸。
やつはそう物騒にいうと、左手で頬杖をついて冷たい笑みを浮かべていた。
「オオニワ、その花の幻を見るようになったのはいつからだ?」
「いつ? いや、正確には覚えていないが、一週間くらい前か」
私は言った。
「ここのところ、撮影が忙しくて疲れていたからな。それで、眼鏡の不具合か疲れかと」
やつは首を振った。
「ほほう。そいつは巧妙なことだ。ここのところ、おれも貴様とあまり顔を合わさなかったから、ろくに気づきもしなかった。おれとしたことが不覚だったぜ」
やつは見えにくいものを見るときのように、目を細めていた。
「……おれが気づかない程度にうっすらと、なにかがてめえに憑いている。だが、この夏の気配でそろそろ蠢き出したというところらしい」
やつは飲みかけのぐい呑みを畳に置いた。
そして、柱の隣にある刀に左手をかけた。やつは元から右腕がないキャラクタアだが、私の前に現れたやつもそうで右半身自体がぼやけて見える。
だから、刀の取り扱いもいつも左手だった。
「憑いている? 私に?」
私はやつに尋ねた。
「そうだ。お前には、差し詰め、春の骸が憑いている」
やつは言った。
「春のころにはそりゃあ形見と言えるほど美しかったかもしれねえが、爛熟した夏を迎えりゃあ、見るも無惨な腐れた骸になっちまう。そういう何かだぜ」
やつは刀を肩にかけながら、指でその柄を撫でるようにして弄んでいる。
「まさか」
私は、やつの悪い冗談だと首を振った。
「あまりからかうものではないぞ」
「からかっちゃいねえ。……まあしかし、おれの言葉がすぐに信じられねえのも理解はするぜ」
やつはそういうと立ち上がって縁側に歩み寄った。刀はそのまま手にしたままだ。
「お前、少し外に出てみるか?」
「なんだと?」
私は怪訝に思いながら、やつを見上げた。
「なんでも良い。外に出りゃあ、おれの影響が薄まってわかることもあるってことだ」
やつは随分と長身だ。演じた私が小柄なのに比べ、抜きん出て背が高かった。縁側に向かうのも、頭を打たないように身を屈めないといけない。
立ったまま、やつは私を急かすように視線を投げてきた。
「まったく。何の酔狂か知らんが」
私は根負けし、立ち上がった。
そして、縁側へと足を進める。見えるのは曇った空の下の鬱蒼とした夏の庭と山々の青々とした風景。湿った空気に草と緑の青くさい香りすら漂う。
しかし、それだけのはずだった。
自然に満ちた私の自慢の、美しい庭。そこはみどりと季節の香りがするだけのはず。
が、縁側に足を踏み入れた瞬間、私の鼻に異質なにおいが紛れ込んだ。
それはあまりにもなまぐさい香りだった。
獣のような、血のような。
一瞬、血の香りをさせていることがあるやつのせいかと思ったが、それは違う。やつはこんなに獣のような嫌な香りはさせていない。
やつのは、もっと純粋な金属のような澄んだ香りだった。
ならばこれは?
そう考える間もなく——。
目の前にぶわりと広がったのは、黒いもやのようなものだった。それは花びらの形をしたもやだった。
美しい淡い白に近い紅は、血の赤となりそのまま腐れたように黒くなり、もやとなって雪崩れ込んでくる。
私が慄然とした、その瞬間、光が走った。
ビュッと風を切るような音がし、目に光が入ってきた。
私は瞬きした。
目を開けると、私の目の前に陽光で白く光る刀が突き出されていた。
それが黒いものを断ち切ったのだ。
立ち込めていたもやは一瞬にして晴れていた。
もはや、そこは、何の変わりもない、いつもの庭に戻っていた。
「やれやれ」
やつが笑いながら言った。そして、しょうがねえなと言いたげに物憂げに言った。
「オオニワ、てめえ、何か拾ってきたな?」
「なんだと」
ぞっとしたのを隠すように、私はやつを睨んで言った。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。なんぞ貴様に惚れ込んだものが、憑いてきているぜ」
やつはため息をついた。
「しかし、この清浄な庭の空気に負けずに入り込むとはな」
やつは目を細めてそういうと、私の方をみやった。
「なかなかの強者だぜ、これは」
やつの口元が引き攣った。
「厄介な相手だな」
こいつ、笑っている。
そう、やつは喜んでいるのだ。そして、口元を引き攣らせて笑っている。
やつは来たる強敵の気配に、本来の凶暴な性質をのぞかせて——。
「久しぶりに、退屈から解放されそうな予感がするぜ」




