第一話 春の形見
ふわりと、不意に桜の花びらを見た気がした。
明らかな季節外れ。
見間違いと思い、私はすぐにそれを忘れてしまった。
*
春。
春は子供と若者の季節だ。
萌え出る芽はやがて大きく伸びるが、まだ柔らかい。夏の激しさをまだ持たず、甘い記憶を残す。
そして、それゆえにとても不安定。
若芽のように柔らかく、しかし、確実に肉を抉る棘を、春は残していく。
激しい夏からもう秋へと差し掛かる年頃の私には、春の残した傷跡が、時にひどく身に染みる。
まるで春の形見のように——
*
季節は夏へと向かっている。
私の庭も季節の移ろいを見せて、今は青々とした山の緑が美しかった。と同時に灼熱の季節と、その直前の湿った梅雨を予感させる。
私が購入した山にある広大な土地は、別荘とまだ作りかけの庭があった。
私は役作りや一人の時間を楽しむために、そこに向かうことが多い。
日常は忙しく、元は外交的ではない私も好きではない人付き合いをしなければならない。そんな俗世の憂さを忘れるため、私はここに来る。
苦心して作り上げた映画のフィルムはすぐに燃え上がり、また恐ろしい速さで消費される。私は、変わらぬ美しさが欲しくて、ここを手に入れたのかもしれない。
しかし、そんな私に想定外のことが一つあった。
「どうも、またじめじめした気候が続きそうだな」
別荘でくつろいでいた私に、そんなうんざりとした声が届く。
散歩でもしていたのか姿が見えないと思っていた『やつ』が、ふらっと姿を現したのだ。
いつもの白衣の着物を着流している痩身の『やつ』は、当然のように、私の向かいに座って柱にもたれかかった。そして、勝手に私の酒に手を出して、いつのまにか持ってきていた自分のぐい呑みに注いでいる。
「どうもいけねえな。こういう日は、外に出るのが億劫になるぜ。鬱陶しいものだな」
(鬱陶しい気分なのは私のほうだ)
私はやつを眼鏡の奥で睨んでみるが、やつには全く効果がない。やつは平気で私の酒の上前を跳ねていた。
相変わらずというべきか、もう当たり前のように、やつは私の別荘にいすわっている。
やつのことを説明せねばならない。
やつ、は、私が演じていたキャラクタアだ。
主に時代劇の俳優である私は、その時、話題であったやつが主役の作品を手掛け、やつを演じた。
自分の演じる人物に入り込みすぎるきらいは私に元からあったが、それ以降、やつは何の因果か私の前に姿を現した。初めは声がするだけであったり、鏡の中だけであったが、しまいには実際に現実に現れるようになって、すっかり、私に取り憑いてしまった。
今はこうして、私の前で姿を見せるだけでなく、私の別荘を宿舎がわりにつかってごろごろ居座っている。
こうしていると、単に強面で、そして設定では欠損している右側の体が不確かに闇に溶けているような姿だから、恐ろしげな姿ではあるが、無害そうにも見えるが……。
実のところ、やつほど好戦的なものもそういない。元々は殺人鬼と言って良い性格づけをされており、今のやつにもその指向は確実にある。
だからこそ、私もやつを生み出した責任を感じて、やつの身柄を引き受けているところがある。下手に解き放って悪さをされても困るのだ。
ということで、仕方なく逗留を許しているが、不本意ながら、私はやつと顔を突き合わせる日々を送らざるを得ないのだった。
やつの正体は不明だ。体の右半分が空間に溶けるように不確かで、いっそのこと怪異じみているし、もののけのようなものと思っている。本人も否定はしていない。
やつ曰くは、生みの親の作家先生がいなくなったことで行く場所がなくなり、因果のある俳優の私の元に身を寄せたとのことだった。
しかし、それとて真実はわからない。私がはじめにやつを見かけたのは楽屋でのことだから、私の妄想の作り出した産物なのかもしれなかった。やつの姿は基本的には私にしか見えていない。
まあしかし、今更そんなことはどうでも良い。
とにかく、私にはやつが見えてしまうし、やつは私の前で普通に現実に干渉しはじめていた。襖も開ければ雨にも濡れるし、私の酒も煙草ものむし、時にはおしゃれをするために着替えだってする。
他のものにはやつの姿が見えないのだけが救いだ。
ともあれ、普段は訪れるものも少ない別荘の一部屋を陣取って、やつは今日も存在していた。
今も、勝手に私の酒を飲むやつと、何となく過ごしている。
そんな折、私はまた花びらの幻を見た。
花びらを見たのは縁側の方だった。
眼鏡のレンズの端の方で。
桜の花びらのようで、ひらひらと一枚、二枚、そしてふわりと増えて桜吹雪のように。
ざああ、ざああ、と音すら聞こえそうな花。
しかし、瞬きすると消えてしまった。
はっとして、私は反射的に顔を上げた。
私が顔を上げたのを、やつは素早く察知した。
こう見えてやつは話さない時は無口なので、我々はいつもの如く無言でおのおの自由に酒を嗜んでいたのだが。
「どうしたのだ?」
「いや、見間違いと思うのだが、桜の花びらを見た気がしてな」
蒸し暑い空気だ。
梅雨を感じさせる湿り、曇った空。そんな時期に桜があるはずもない。
まごうことなく見間違い。それか幻覚だ。
「疲れているのか、近頃時々ある」
それか、と私は呟いた。
「眼鏡の度が合っていないのかもしれないが」
「は、貴様の瓶底眼鏡の?」
やつは嘲笑うように言った。
「そんなもの合わせたところで変わるまいに。まだしも幻の方が自然だぜ」
やつはそう言って、私をみやった。
「てめえが感傷的なのはいつもの通りだが、桜の花とはあまりにも季節外れだな」
「桜というものは、古来より日本人の心を打つものだからな。……さしづめ、春の形見といったところだろうか。そのような幻であればよいな」
私がそういうと、やつが膝を打って笑った。
「ふっ、そいつは風流なことだな、オオニワ。貴様の割に気がきいているぜ。春の形見とは、湿っぽいてめえにはぴったりだ」
揶揄われて私がムッとして睨むと、ふとやつは笑いを収めた。
「しかしな、オオニワ。そいつはどうも気に入らねえなあ」
やつの目がきらりと光り、口元が笑みに歪んだ。
「お前の湿っぽいのは今更だが、今の気配はなにかにおうものがあったぞ」
やつは薄い唇を歪めて笑う。
「それは、春の形見などと風流なものではねえ。例えれば、春の骸というべきだ」




