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やつと私と雨の庭〜文月の残照〜  作者: 渡来亜輝彦


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第二十六話 ギラギラ-2

 *


 その後は、差し当たって危険なことはなかった。例の不審な男の気配も消え、我々は車で少しドライブを楽しんだ。

 午後四時ごろ。夏の日は長く、まだ夕方という印象もないほど、太陽は輝いている。

「今日は本当に楽しかったです」

 我々は指定された駅にいた。そこで、禎子の付き人と待ち合わせの予定だった。

「こちらこそ楽しかったぜ」

「イコちゃんのおかげで助かりました」

 それぞれ礼を述べつつも、私は時間を気にしていた。禎子の付き人がなかなか来ないのだ。

 時間に正確な人物なのに珍しい。普段であれば、前倒しで来るのだが。

「うちの付き人、なかなかきてくれませんね」

 変だなあと禎子も呟く。

「急用が入ったか、手違いでもあったのかもしれません」

 禎子にそういうと、ふと「先生」と私を呼ぶ声があった。

 そちらを見るとマサが手を振っていた。

 マサは今日同行する予定はなかったが、私の予定は伝えてあった。

「先生。禎子さんの付き人さんから私に連絡がありまして、急用で遅れるようです。そして、できれば今夜は外泊してほしいとのことです。お宿はこちらで用意しました」

「急用? どうしたのかしら?」

 禎子が不安そうにマサに尋ねた。

「マサさん、うちのひとたち、なにか言ってました?」

「いやそれが……」

 マサはすこし躊躇いつつ、

「禎子さんの自宅や事務所周辺で、怪しい男がうろついているとのことで。危険なので、こちらにいらっしゃる方が良いかと。先生のお許しがあれば、禎子さんのお世話は私がさせていただきますが」

 マサが私に視線を向ける。

「もちろんだ。イコちゃんについていてあげてくれ」

 私はそう答えたが、先ほどのことが頭をよぎった。仁和寺から車で移動した我々を見失ったその不審な男は、禎子の自宅や事務所の方に移動したのだろうか。

 しかし、やつの見立てでは、その男には春の骸の気配がかかっている。それなら、春の骸は、取り憑いている私の所在くらいはわかっているはず。

 何故、敢えて禎子の自宅や事務所を脅かしたのだろうか。

 私はマサに尋ねた。

「マサ、ところで、お前は何できたのだ」

「単車で参りました」

 マサは、近くに停めてあるトライアンフを指した。

「そうか。それなら、駐車場に私の車を止めてあるから、そこのロータリーまで回しておいてくれないか? イコちゃんは私が宿まで乗せていこう」

 私はマサにそう頼みつつ、禎子を見た。

 先ほどまで幸せそうだった禎子は、急に不安な顔をしていた。

 それも仕方あるまい。不審な男は彼女を、今まで散々不安にさせてきた。それがとうとう思い切った行動に出ている。

「大丈夫ですよ。イコちゃん。あなたのことはマサが守ります。マサのことはよく知っていますね。彼がいれば安心です」

 禎子はマサに元から懐いている。強面だが実直かつ優しいマサは、彼女から特に信頼されていた。マサがいるなら、彼女も安心するだろう。

「ありがとう。オオニワさん」

「そうだぜ。宿まではおれもいるしな」

 やつが言った。

「もし、不安ならおれが禎子についてもいられる。心配するな」

 やつがそう言った。


 マサが車を回してくる間、私とやつは彼女を守るようにして立っていた。

 駅はさほど人はいなかったが、我々は、ロータリーの近くの木陰、比較的人目につかない場所にいた。正体を見破られて騒がれるのは本意ではない。

 そこは人目につかないが、こちらからは周りがよく見えた。

 誰かが接近してきたらわかるはず、だった。

 しかし。

 さら、さら。

 初めは微かな音だった。

 桜が散る時のような音。

 私は顔を上げた。何もない場所に違和感がある。

 ざわ、ざら、ざらざら。

 花びらがまばらではなくたくさん舞い散っているかのような音。

 やつも気づいた。

 駅の風景は、まるで我々だけが切り取られたかのようになっていた。他の人間の姿が見当たらず、不穏な静寂に満ちている。

 そして、まるで何もない空間から、黒いものが桜の花びらと共に現れたかのように、桜に取り巻かれてそれは現れた。

 まだ若い男。背広を着ていたが、その精神の不安定さを示すように、服装は少し乱れている。

 目は虚ろで、背後に黒いモヤのようなものが張り付いている。

「イコちゃんは」 

 男がそう口にした時、私のそばの禎子が身を硬くし、やつの銀鼠のケープを掴んだ。気丈な彼女は悲鳴こそあげないが、怖いのは間違いないだろう。

「周りの悪い大人に騙されているんだ。お金稼ぎの道具に。かわいそうに」

 男がブツクサと言った。

「だから、助けてあげるね」

 男はニヤリとした。不気味な笑いだった。その後ろの黒いものが嘲笑った気配があった。

 男の目は、ギラギラと人ならざるもののように輝いていた。

「野郎ッ!」

 やつが私に禎子をあずけ、ステッキを刀に変えた。

 しかし、男は何の恐怖心もないかのように、ずんずんこちらに向かってきた。やつは躊躇なく刀を抜いてそれに斬りかかったが、その時不思議なことが起こった。

 やつの刀は男の体をすり抜けた。

「畜生!」

 やつはさして驚かなかった。

 やつが続けて掴みかかろうとしたが、やはりその手も男を揺さぶることすらできない。

『やはり、ニンゲンの体には手が出せないか』

 男の唇が動くと共に、複数人が混ざった女の声が聞こえた。

『それに』

 男が嘲笑っていた。

『一日中、実体を保っていると、お前でも多少弱るのねえ』

 ハッとやつが左目を見開いた。

 その瞬間、男が手を出した。その手にはナイフが握られていたが、それは黒く変色した花びらで固められていた。

 男は躊躇なくやつの脇腹にそれを突き立てた。

「殿様!」

 禎子の悲鳴が響いた。

 男がやつを蹴倒しながらナイフを抜くと、やつの腹のあたりから黒い靄が吹き出した。パナマ帽が落ち、やつが倒れながら天を睨む。

 空は確かに青く、まだ太陽は攻撃的な夏の光線を発していた。

 ああ、破滅は、やはり青空の下でも平気で訪れる。絶望と灰燼に彩られる予感を隠して。

 呆然とした私は、倒れゆくやつの瞳と目が合った。


 強いギラギラの太陽とあまりにも青い蒼天を恨み呪う、憤怒と殺意に満ちた瞳。

 この世の不条理を呪う虚無と憎悪を孕んだ視線。


 あの日の私の眼差しと、やつのそれは同じもの。

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