第二十六話 ギラギラ-2
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その後は、差し当たって危険なことはなかった。例の不審な男の気配も消え、我々は車で少しドライブを楽しんだ。
午後四時ごろ。夏の日は長く、まだ夕方という印象もないほど、太陽は輝いている。
「今日は本当に楽しかったです」
我々は指定された駅にいた。そこで、禎子の付き人と待ち合わせの予定だった。
「こちらこそ楽しかったぜ」
「イコちゃんのおかげで助かりました」
それぞれ礼を述べつつも、私は時間を気にしていた。禎子の付き人がなかなか来ないのだ。
時間に正確な人物なのに珍しい。普段であれば、前倒しで来るのだが。
「うちの付き人、なかなかきてくれませんね」
変だなあと禎子も呟く。
「急用が入ったか、手違いでもあったのかもしれません」
禎子にそういうと、ふと「先生」と私を呼ぶ声があった。
そちらを見るとマサが手を振っていた。
マサは今日同行する予定はなかったが、私の予定は伝えてあった。
「先生。禎子さんの付き人さんから私に連絡がありまして、急用で遅れるようです。そして、できれば今夜は外泊してほしいとのことです。お宿はこちらで用意しました」
「急用? どうしたのかしら?」
禎子が不安そうにマサに尋ねた。
「マサさん、うちのひとたち、なにか言ってました?」
「いやそれが……」
マサはすこし躊躇いつつ、
「禎子さんの自宅や事務所周辺で、怪しい男がうろついているとのことで。危険なので、こちらにいらっしゃる方が良いかと。先生のお許しがあれば、禎子さんのお世話は私がさせていただきますが」
マサが私に視線を向ける。
「もちろんだ。イコちゃんについていてあげてくれ」
私はそう答えたが、先ほどのことが頭をよぎった。仁和寺から車で移動した我々を見失ったその不審な男は、禎子の自宅や事務所の方に移動したのだろうか。
しかし、やつの見立てでは、その男には春の骸の気配がかかっている。それなら、春の骸は、取り憑いている私の所在くらいはわかっているはず。
何故、敢えて禎子の自宅や事務所を脅かしたのだろうか。
私はマサに尋ねた。
「マサ、ところで、お前は何できたのだ」
「単車で参りました」
マサは、近くに停めてあるトライアンフを指した。
「そうか。それなら、駐車場に私の車を止めてあるから、そこのロータリーまで回しておいてくれないか? イコちゃんは私が宿まで乗せていこう」
私はマサにそう頼みつつ、禎子を見た。
先ほどまで幸せそうだった禎子は、急に不安な顔をしていた。
それも仕方あるまい。不審な男は彼女を、今まで散々不安にさせてきた。それがとうとう思い切った行動に出ている。
「大丈夫ですよ。イコちゃん。あなたのことはマサが守ります。マサのことはよく知っていますね。彼がいれば安心です」
禎子はマサに元から懐いている。強面だが実直かつ優しいマサは、彼女から特に信頼されていた。マサがいるなら、彼女も安心するだろう。
「ありがとう。オオニワさん」
「そうだぜ。宿まではおれもいるしな」
やつが言った。
「もし、不安ならおれが禎子についてもいられる。心配するな」
やつがそう言った。
マサが車を回してくる間、私とやつは彼女を守るようにして立っていた。
駅はさほど人はいなかったが、我々は、ロータリーの近くの木陰、比較的人目につかない場所にいた。正体を見破られて騒がれるのは本意ではない。
そこは人目につかないが、こちらからは周りがよく見えた。
誰かが接近してきたらわかるはず、だった。
しかし。
さら、さら。
初めは微かな音だった。
桜が散る時のような音。
私は顔を上げた。何もない場所に違和感がある。
ざわ、ざら、ざらざら。
花びらがまばらではなくたくさん舞い散っているかのような音。
やつも気づいた。
駅の風景は、まるで我々だけが切り取られたかのようになっていた。他の人間の姿が見当たらず、不穏な静寂に満ちている。
そして、まるで何もない空間から、黒いものが桜の花びらと共に現れたかのように、桜に取り巻かれてそれは現れた。
まだ若い男。背広を着ていたが、その精神の不安定さを示すように、服装は少し乱れている。
目は虚ろで、背後に黒いモヤのようなものが張り付いている。
「イコちゃんは」
男がそう口にした時、私のそばの禎子が身を硬くし、やつの銀鼠のケープを掴んだ。気丈な彼女は悲鳴こそあげないが、怖いのは間違いないだろう。
「周りの悪い大人に騙されているんだ。お金稼ぎの道具に。かわいそうに」
男がブツクサと言った。
「だから、助けてあげるね」
男はニヤリとした。不気味な笑いだった。その後ろの黒いものが嘲笑った気配があった。
男の目は、ギラギラと人ならざるもののように輝いていた。
「野郎ッ!」
やつが私に禎子をあずけ、ステッキを刀に変えた。
しかし、男は何の恐怖心もないかのように、ずんずんこちらに向かってきた。やつは躊躇なく刀を抜いてそれに斬りかかったが、その時不思議なことが起こった。
やつの刀は男の体をすり抜けた。
「畜生!」
やつはさして驚かなかった。
やつが続けて掴みかかろうとしたが、やはりその手も男を揺さぶることすらできない。
『やはり、ニンゲンの体には手が出せないか』
男の唇が動くと共に、複数人が混ざった女の声が聞こえた。
『それに』
男が嘲笑っていた。
『一日中、実体を保っていると、お前でも多少弱るのねえ』
ハッとやつが左目を見開いた。
その瞬間、男が手を出した。その手にはナイフが握られていたが、それは黒く変色した花びらで固められていた。
男は躊躇なくやつの脇腹にそれを突き立てた。
「殿様!」
禎子の悲鳴が響いた。
男がやつを蹴倒しながらナイフを抜くと、やつの腹のあたりから黒い靄が吹き出した。パナマ帽が落ち、やつが倒れながら天を睨む。
空は確かに青く、まだ太陽は攻撃的な夏の光線を発していた。
ああ、破滅は、やはり青空の下でも平気で訪れる。絶望と灰燼に彩られる予感を隠して。
呆然とした私は、倒れゆくやつの瞳と目が合った。
強いギラギラの太陽とあまりにも青い蒼天を恨み呪う、憤怒と殺意に満ちた瞳。
この世の不条理を呪う虚無と憎悪を孕んだ視線。
あの日の私の眼差しと、やつのそれは同じもの。




