第二十六話 ギラギラ-1
青い空と照りつける太陽が煌びやかな日だった。
何故か、人は破滅が暗闇と共に訪れると思っているが、破滅と絶望の始まりは案外、すっきりとした晴天と共に訪れる。
人は破滅を夢見るものだ。
怯えながらも演出された破滅を夢見ることで安心するものだから、そんな日に破滅が来るとは思わないものだった。
その日は風の強い日で、朝ににわか雨が降っていたが、雨に汚れを洗い流されたのか、雲はかかっていたが空は澄んで見えた。
文世とあの約束をした後、私は勤務先に戻るべく横浜駅を目指していた。
当時、私の勤めていた商社は銀座の新しいビルヂングに入っていた。東洋一と言われるビルで仕事をしているのは、誇らしかった。
昨日から横浜に泊まっており、帳簿の付き合わせ作業をした後、曙洋行に立ち寄った。
横浜から東京へは一時間ほどだったから、午後に帰っても少し仕事をしなければならないだろう。
そんなことを考えているところで、突然、突き上げるような揺れに襲われた。
その後のことは、私が詳しく語らなくても想像がつくだろう。
幸い私はさしたる負傷もせずに済んだ。ひとまず山手の高台に避難したところで、街の至る所から火の手が上がるのを見た。
私はその後、翌一日かけ、徒歩で東京の勤務先に帰った。しかし、東京は異常な熱気に包まれ、あちらこちらで煙が立ち上り、焦げたいやなにおいが立ち込めていた。
東洋一のビルも激しく被害を受け、会社は再開できるはずもなかった。住んでいた家も破壊されていた。
しばらく後片付けを手伝うなどしたあと、仕事がなくなり、最終的に私は兄を頼って大阪に移動した。
そんな状況だから、私は曙洋行のその後を知らなかった。
横浜の惨状を耳にした私は、当時きっと絶望したにちがいない。しかし、こうも思ったのだ。
『きっと、文世は逃げ延びたのだ、そうに違いない』
そう思い込むことで、彼女をあの日の記憶ごと忘れようとしたのだろうか。
あの太陽の記憶と共に。
私がその日見聞きしたことは、思い出したくもないことだった。
あの昼のギラギラとした場違いな太陽と絶望をまだ知らぬような澄んだ青い蒼天を、私は恨めしく思い、そして呪った。
私の眼鏡の奥の瞳は、きっと太陽と蒼天を呪う、虚無に満ちた底知れぬ憎悪をたたえていただろう。
*
昼食は和やかに進んだ。
ちょうど土用の丑の日だったので鰻を食べることにし、店に入った。
禎子とやつは私に気を遣ったものか、あまり核心に触れてこなかった。どちらにしろ、私が話せることも、先ほど話した通りのものであったから、私に改めて聞かなくても各々精査することもできたろう。
店でのんびりと温かい茶を飲んだ頃には、私の気持ちも落ち着いてきていた。
これなら目の前の鰻重も喉を通りそうだ。
「鰻か。なかなか豪勢だな。禎子と一緒にくると、飯が豪華になるらしい」
やつが例によって少し皮肉なことを言う。
「土用の丑の日だからだ」
禎子がきょとんとして、
「あら、オオニワさんと殿様のお二人では、ご飯に行かないんですか?」
「オオニワは飯より酒の方が好きだからな」
やつはそういって私をからかう。
「何を言う。お前は食事を必ずしも必要としないだろうが」
第一、この男、食事に連れて行っても大した量を食うわけでもないのだ。元々が痩せ型だし、怪異だから食べるのが当たり前ではない。だからさほど食わないのだ。
「それはそうと、オオニワ。話を蒸し返すようだが、食いながら気楽に確認しようぜ」
ふと、やつが鰻を箸でつまみながら言った。
「朝倉文世との約束の話、てめえが先ほど言ったのが全部だな」
「そうだ。彼女は大阪に帰ってからも私に会いたいと言ってくれたのだろう」
今は文世の話をしても、鰻の味を美味に感じる程度には、私は落ち着いていた。
「仁和寺の花見は、口実のようなものだった。だから、いつ見る約束なのかは限定されなかった」
「そうか」
やつは私に震災の話を思い出させないように、と思ったのか、それ以上は尋ねなかった。
「しかし、それならなんとなく話は繋がるな。朝倉文世は仁和寺でお前と桜が見たかった。だが、文世は約束を果たす前にこの世を去り、十余年ののちにお前は仕事で桜を見るのに仁和寺を訪れた、ということだな」
「でも、お花見の日には、異変は何もなかったのですよね」
やつがまとめた後、禎子がそう尋ねてきた。私は考えながら答える。
「そうですね。花見の日には、特別なことは……。その日、仁和寺でなにかあれば、思い出したはずなのですが」
しかし、まだ忘れていることや気づかなかったことがあるのかもしれない。
確かなことは、かつて私と文世が仁和寺の桜を見に行く約束をしたこと、だ。そして、私はそれを忘れていた。
文世は仁和寺の桜を見る機会はなく、私は今年の春、約束を忘れたまま、仁和寺で花見をした。もっと前にも仁和寺を訪れたことはあったはずだが、その時は春の骸は現れず、なぜか今年、春の骸に取り憑かれた。
それが何を意味しているのか。
第一、春に仁和寺を来訪した際には異変らしい異変は何もなかったのに、二ヶ月以上経過した夏にそれは牙を剥き始めたのはなぜか。
やつのいうとおり、春の清らかな思い出が夏の暑さで腐り果てて悪意を持ったものとしてもだ。十五年ほど経過した今になって、文世が私に執着したのは、何故だろうか。
「まだ忘れたことがあるのも当然ですよ」
禎子は私を励ますように言った。
「きっかけは手に入れたんですから、ゆっくり考えましょう。とりあえず、今は美味しい鰻が目の前にあるんですからねっ!」
禎子のいうのももっともだ。
こういう時は禎子の明るさに救われる。
禎子が無邪気に鰻を頬張るのを、微笑ましく見ながら自分も食べ進めることにした。
*
ゆっくり昼食を取ったあとは、仁和寺の門前町で土産物を見ることにした。
禎子は随分楽しそうに土産物を物色したものだ。仁和寺でお守りを買う時も楽しそうだったが、やはり若い娘。小さな人形や小間物を見る彼女は、年相応の可愛らしさがあった。
「禎子、今日はオオニワがなんでも買ってくれるらしいぜ? 高いもんをねだっても良いぞ」
髪飾りを見ている禎子に、やつがニヤニヤしながら言った。
「オオニワの稼ぎなら、多少無茶言っても構わねえからな」
「まったく、貴様は勝手なことを」
と私はやつを睨みつつ、しかし、禎子には優しく言った。
「しかし、イコちゃんには、本当にお世話になっていますからね。イコちゃんのお陰で、思い出したこともたくさんあります。ぜひ、お礼をさせてください」
やつが禎子の若い娘の感性に期待した通り、彼女は我々とは違う観点でものが見えている。
私が文世の記憶と繋がったのは、確かに彼女がいたからだ。
それだけでなくとも、この不可解な謎解きに随分と付き合ってもらっているので、禎子には何かしらの礼をしたかったところだったが。
「美味しい鰻だけでも十分ですよ、オオニワさん。ご馳走になりました」
「そうは言わず。何か今日の記念に好きなものがあれば、買ってあげますよ。私の気持ちです」
「そうだぜ。買ってもらえよ、禎子」
遠慮する禎子にそう勧めると、間にやつが入ってきた。
「そうですか。それじゃあ、髪飾りをいただこうかな。かんざしも素敵だし」
そういって、禎子は蜻蛉玉のついた玉かんざしを手にした。
この小間物屋は、髪飾りやかんざしを取り扱っている。洋風の装いに合うものもあるが、かんざしも相当数売っていた。
その中に蜻蛉玉の簪もある。ガラス玉が夏の太陽に透かされて煌めいていた。
と、ふと、私はその輝きに何かを思い出しそうになった。陽光に煌めくガラス玉。透き通った中に通る強い光線。
しかし、その時は思い出せない。
特に、禎子が触れているかんざしの隣にある桜の紋様をあしらったものだ。
無意識に手に取った。
「オオニワさんも買うんですか? 奥様へのお土産?」
「あ、ああ、そう、ですね」
禎子に聞かれて私は慌ててそう答えたが、無論、妻に渡す土産物ではない。
ただ、このかんざしが気になる。手に入れなければならない気がした。
「せっかくですから、こちらもいただきましょうか」
私はそう答え、禎子の選んだものとそれを包んでもらうことにした。
勘定を払い終え、禎子を店に残して外に出ると、ふとやつが私の腹を肘で突いた。
「なんだ?」
「見られているぜ、オオニワ」
いつもの嫌がらせかと思ったが、やつは真面目な顔で私の耳元で囁いた。
「見られている?」
眉根をひそめた私に、やつは言う。
「ああ、尾行されている」
やつがパナマ帽の下で視線だけで、路地の角を見た。商店と商店のあいだに人影が見えたが、私が振り向いた途端にさっと退いた。
「なんだ? 記者か何かか?」
「いや、そういうものではねえよ」
やつは眉根をひそめ、
「前から、禎子をつけまわしていた野郎だ」
「なに?」
私は少し慌てて、
「警察を呼ぼう」
「待て。騒ぎになるぞ。それに何か様子がおかしい。野郎の気配ごと消えやがった! ……ここで待っていろ」
やつはそういうと、路地裏に早足で近寄り、何かを拾って戻ってきた。
「これが落ちていたぜ」
やつはそういって私にだけ見えるように手のひらを広げた。
そこには黒く変色した桜の花があり、やつの手のひらでみるみるうちに縮み、消えていった。
やつは顎を撫でて考える。
「どうも、警察の手に負える相手じゃあねえのかもしれねえ」
と、禎子が、店員に礼を言う声が聞こえた。
「とにかく、禎子をなるべく守るようにして動くぞ。相手が人外ならおれの領域だが、そう簡単にはいかねえかもしれねえ。車で移動すりゃあ安全だ」
「わかった」
その時、禎子が戻ってきた。
「お二人とも、お待たせしました」
「いえいえ。それでは参りましょう」
私とやつは先ほどのことを禎子に悟らせないようにしつつ、彼女を両方から挟み込むようにして歩き始めた。




