第二十五話 揺らぐ
仁和寺は格式ある寺院で、その境内も広い。
観光客は多かったが、春や秋ほどのことはなく、人出は落ち着いているので、人目を避けたい我々には良かった。
まずは定番の五重塔や枯山水の庭園を巡り、池の鯉を眺めたりして、ごく普通の観光をする。夏の青紅葉は生命力を感じさせる色をしていて、観光の盛んな春や秋とはまた違う趣があった。
我々三人がどのように他人から見えているかわからないが、少なくとも私かやつのどちらかは、禎子の保護者に見えたと思う。
やつも楽しそうに、禎子と話をしながら歩いていたものだ。
禎子自身は最も楽しんでいて、少しはしゃいだ様子になっていた。自分用のお守りを買いたいといっては、年相応の娘のように明るく声を上げて笑う。
普段は仕事で忙しい禎子のそういう姿を見るのは、自分の娘を見るかのようで私も嬉しかった。
一通りめぐると、流石に暑くなってきたので、一旦、門を出て茶店に入って休憩することにした。
私と禎子は氷金時、やつは冷やし飴を楽しんだ。
「立派なお寺ですね。お庭もとっても素敵」
禎子がにこにこしながら言った。ご機嫌な禎子はみていてこちらも良い気分になる。
「オオニワさんもお庭のことになると、すごくじっくりご覧になっていましたね」
「庭づくりに何かと参考になりますからね」
と私は答えたものの、実はそこまで無心に楽しめずにいた。
というのも、ここにきても何も特別に感じることがなかったのだ。春の骸に直結しそうな気配が何もない。
荘厳な古刹の寺は、清浄で厳粛な空気があり、あの腐乱した怪異のつけいる隙などないのだ。
「しかし、オオニワは、なにも収穫なさそうなツラしているのだよな」
唐突にやつが核心を突いてきた。焦りを感じていた私は、やつの指摘を素直に肯定した。
「まあ、そういうことにはなる」
「春にも一通り境内を回りながら、桜を見にいかれたんですよね」
禎子に尋ねられ、私は頷いた。
「ええ。他にも著名人が招かれていたから、皆が境内を回遊した後、ゆっくりと桜を見に行って……」
「御室桜は遅咲きなのだろう? この春の桜の見納めというものだったろうから、人出は多かったのだろうな」
「そうだな。あれは確かに四月の中頃のことだった。人も多く、挨拶をするのにてんてこ舞いで……。私は人付き合いが得意ではないからな」
それなもので、桜をゆっくり愛でたという記憶も希薄だ。満開の桜はそれは絶景ではあったので、それなりに感動した記憶はあったが、気疲れも多かったのだ。その後に面倒な会食もあったことだから。
「境内を巡ってもなにも思い出さないということは、仁和寺そのものとは関係しないのではないですか?」
禎子があずきを口に入れながら、そう言った。
「やっぱりお寺の空気は、とても澄んでいますからね。今の春の骸には入れないでしょうし」
「おれもそう思うぞ、オオニワ」
やつが顎を撫でやりつつ同意する。
二人の予想と私の感覚も同じではあった。
(仁和寺と春の骸に直接の関係は、ないのかもしれない)
しかし、御室桜とは。
ああして腐り果てる前の、美しい春の骸なら、仁和寺の桜と何かの関係があったかもしれない。
「桜もさっきチラッと見てきたんだがな。夏だから目立ってねえし、見落としちまいそうだったが」
「金堂に行くまでにあった低い木ですよね」
そう。我々は中門を通り御室桜のそばを通って回遊してきた。
御室桜、御室有明は他の桜に比べて明らかに背が低い。夏の青々とした葉をつけているのみで、今はさして目立ったものでもなく、夏の陽光を浴びていた。
しかし、何かを感じたかというと、何も感じなかった。
「一休みしたら桜を改めて見に行きましょうか、イコちゃん」
私は言った。
残念ながら、先ほどは何も感じることはなかった。しかし、仁和寺とは無関係だとしても、春の骸はおそらく御室桜とは関係がある。
それに関しては、私の直感もそう告げていた。
だから、もう一度、注意深く観察しなければ。
*
我々は再び境内に戻り、御室桜を臨む遊歩道に立っていた。
丈の低い桜が並んでおり、春先はこれらが全て花をつけていて実に荘厳だった。背の低い桜が地面を這うように広がり、すぐ眼前に花を広げていた。
しかし、今は青々とした葉が茂り、こんもりとした茂みのような印象だった。夏の生命力に溢れた風景は、春特有の儚さも感じられない。
シャアシャアシャア、と蝉の声が聞こえた。クマゼミの声だった。
「やっぱり、背の低い桜ですよね」
「ええ、御室桜は背丈が高くならないのだといいますよ」
禎子に尋ねられてそういうと、禎子は少し考え、
「この背丈なら子供でも手が届きそうですよね」
思わぬことを彼女は言い出した。
「それに大きくならないのは、なんとなく文世さんを連想してしまうかも」
そう言われて、それはそうかもしれない、と思った。
幼くして亡くなったという文世は、たった八歳の少女のままの姿の記憶だった。私にとってもそうだが、それは文世の父親にとってもそうだったろう。文世の供養のために、この桜を選んだ理由はわかる気がする。
文世にも似ているが、この桜であれば、文世の小さな手にも花が届きそうだからだ。
小さな手? 桜の花に手が届く。
ふと、私は腕組みしていた手を解いた。
頭の奥からとある音声が甦る。
——仁和寺の桜やったら、お父はんはうちでも背が届くゆうて……。
その瞬間、蝉の声が掻き消えた。
目の前の風景が揺らぎ、真っ暗な中、桜の木々と私だけになる。
——オオニワのお兄ちゃん、約束しよ。
彼女の声が聞こえた。
——もし、大阪に帰ったら——
夜桜の薄紅の桜が散るのが見えた。
*
「来年の春に、大阪に帰ったら、お父はんは、うちらをお花見に連れて行ってくれるっていうんよ」
文世はある時そう言った。
あの約束の後、私は月に二、三度、横浜を訪れるたびに曙洋行に立ち寄り、少しの時間、文世に本を読んであげた。
本は主に怪盗ルパンのシリーズからはじまり、やはりその年頃の子にしては早熟な印象の物語が多かった。西洋かぶれの父の影響か、翻訳物がかなりあった。
文世に朗読してやるのは、半ば会社公認だった。
私の会社も曙洋行の末娘がそれを喜んでいるとどこからか聞いたものらしく、今後の取引に良い影響があるかもしれないから行ってこいということにもなり、些細なお使いを頼まれて訪問することが増えたのだった。
東京から横浜までおおよそ一時間。月に何度かの出張は、気分転換にはなるし、私も悪い気はしなかった。
横浜は東京とは違う洗練された異国情緒があり、私にとっても良い刺激があった。
それに、おませな文世との交流にも慣れて、私も彼女との対話が楽しくなってきた頃だった。
私も演じることは嫌いではなく、子供であると思っても、文世が朗読を誉めてくれるのが嬉しかった。
その日はまだ残暑が厳しく暑い日だった。
夏の終わりの気配はまだ薄く、茂みではヒグラシの物悲しげな鳴き声が響いていた。
文世は麦藁帽子をかぶって、涼しげな白いワンピースを着ていた。
「オオニワのお兄ちゃんは、春には大阪に帰らへんのん?」
いつのまにか、私のことは眼鏡のお兄ちゃんから、オオニワのお兄ちゃんになっていた。
私の姓は正確には大庭なのだが、オオニワの方が似合うといって文世はもっぱらオオニワと呼んでいた。
文世は半年経過してもやはり大阪が恋しいのか、よく来年の春の話をした。大阪に戻ったら、何をしたいかを私に語ってくれる。
ラムネを飲みながら彼女は言った。
「うちはね、来年の春に大阪に帰ったら、京都にお花見にいくんよ」
「それは楽しみだね」
「でもね、忙しいから、お花見行くんは桜が散る頃になるかもしれへんって。そやけど、京都には遅くに咲く桜もあるって言うんよ。だから、そこに行くのん」
文世は曙洋行の社員の話では普段は物静かな娘らしかったが、私にはよく話した。私はこいさんのお気に入りということらしい。
「京都の遅咲きの桜? へえ、そんなところがあるの? どこに行くんだい?」
尋ねてみると、文世はにこりとした。
「仁和寺にあるんやて。お兄ちゃんは知ってはる?」
文世は手を広げた。
「仁和寺の桜は背が低うてね、うちみたいな子供の手にも届くくらいなんやって。それがお寺のお庭にぎょうさん植えられてるんやって」
文世は夢見るように胸に手をやった。
「うち、まだみたことないけど、きれいなんやろなあ」
「ああ、御室桜という有名な桜があるのは聞いたことがあるよ。私も見たことはないが」
「そうなん? せやったら、お兄ちゃんもうちと一緒に観にいかん?」
文世が目をきらめかせた。
「でも仕事が東京であるから難しいかなあ」
「来年と違うても、お兄ちゃんが、大阪のお兄さんとこに帰ってきはった時にでええんよ」
文世は少し必死だった。
「いつでもええから」
文世は、大阪に戻ってからも私に会いたいと言ってくれているのだろう。
「そうだね。春に帰る機会があって、それが桜の季節なら一緒に行けるといいね。覚えておくよ」
「ほんまやねえ。ねえ、オオニワのお兄ちゃん、約束しよ」
文世が、良いことを思いついたとばかりに顔を上げた。
「約束、できるかなあ」
私は、その時はまだ若く、未来がどうなるかなど予想できずにいた。文筆で身を立てたい気持ちもあり、このまま平凡なサラリーマンを続けることに内心物足りなさを感じていた。
「オオニワのお兄ちゃんが大阪に帰ったとき、仁和寺の桜が咲く季節やったら、でええんよ。いつでもええの」
文世は譲歩してそうつけくわえた。
他愛もない約束。しかも気まぐれな子供との約束。なんの保証もない約束。
私も文世も、心のどこかで守られるはずもないとわかっている約束だった。
けれど、文世がそれで寂しくないのであれば。それで彼女が満足するのなら。
私はそう思って微笑んだ。
「いつになるかわからないよ。それでもいいなら、約束しようか」
そう言って小指を差し出すと、文世の小さな小指がそれに絡められた。
「うん。オオニワのお兄ちゃん、約束やで」
文世は美しい顔に微笑みを浮かべた。幸せそうな笑顔だった。
私は、彼女のそういう顔を見るのが好きだった。
「文世との二つ目の約束ね」
ゆびきりげんまん、うそついたら針千本のーます。
ゆび、きった——
目の前の文世の姿が揺らぎ、背の低い御室桜が満開になる光景が私の目の前に展開した。
そして、それも夜の闇に沈んでいく。
*
当然、目の前の光景が元に戻り、蝉の声は物悲しいヒグラシからクマゼミのけたたましいものに戻っていた。
目の前には、背の低い御室桜の葉が青々として夏の陽光を浴びていた。
「オオニワさん?」
禎子に声をかけられて、私は呆然と顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
青ざめた私を心配した禎子の言葉に、私は直接返答しなかった。ただ、一言。
「約束を、していた」
私はつぶやいた。
「なんだって?」
やつが割って入ってきた。
「約束をしていたのだ。文世と。……思い出した」
私は、ハンカチーフで額の冷や汗を拭った。
「次の春になると文世は、大阪に戻ってくる予定だった。その時、仁和寺の桜を見に行くのだと言っていて、私も一緒に行かないかと誘われた」
私は続けた。
「私の予定はわからなかった。けれど、いつになるかわからないが、一緒に見ようと、私は文世と指切りしたのだ。夏の終わりの頃。おそらく、あれは——」
あれは、きっと、あの日の午前中。
私は眼鏡を外し、目に流れ込みそうな汗を拭った。
「文世と仁和寺に行く約束をしていたということか?」
やつにきかれて私は頷いた。
「とはいえ、不確定な約束だった。私も彼女も実現するとは思っていないような、他愛もないものだ。しかし、……確かに仁和寺の桜を見に行く約束を、あの日にした」
「あの日? もしかして」
禎子に尋ねられ、私は頷いた。
「おそらく、あれは、関東大震災のあった日の午前。……私は横浜に出張があって、午後に帰る予定だった。ただ……文世の記憶はそこまでで……」
その後の記憶が思い出せない。
私は銀座の勤務先に帰る途中で被災し、瓦礫に塗れながら、ほうほうのていでなんとか東京に帰ってきた。
その辺りの記憶はあるのに、文世と約束をした後のことが思い出せなかった。
これは私がただ忘れているのか、つらい記憶を封じているのか、それとも——。
しかし、文世とのやりとりがそこで終わったはずがない。彼女はあの後、どうしたのだろう。
思い出そうとすると、目眩を覚えそうだった。
「オオニワさん、お顔の色も悪いですから、ちょっと休憩しましょう」
禎子が気を遣ってそう言ってくれた。
「すぐには全部思い出せませんよ」
「そうだぞ、オオニワ」
やつも同意した。
「今ある情報で一度考えようぜ」
「そうですよ。そろそろお昼になりますもの。ゆっくりご飯を食べてから考えましょう」
禎子に言われて、私は仁和寺を後にすることにした。
その時に。
桜の花が一枚、目の端にチラついた。
私は振り返ったが、すぐに見えなくなった。これは気のせいかもしれない。やつも禎子も反応していなかった。
ただ、目眩のような視界の揺らぎと共に、茂みに人影が見えた気がした。
それも、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。




