第二十四話 タイムカプセル
「お兄ちゃん、なにしてはるの?」
その少女に話しかけられたのは春の頃だった。
確かに桜の咲く頃だ。
年は七、八歳といった頃だろうが、顔が整っており、まつ毛が長く、切れ長の目をしていた。それゆえに大人びた美少女に見えていた。
その時に着ていたのは、薄紅色のワンピース。桜を思わせる上品さがあった。布も随分上等なものであるし、ハイカラなものだった。
横浜の本社を訪れた際、私はついでに曙洋行に書類を持って行くように言われた。帳簿のことで確認することもあったから、お使いを頼まれたのは良かったが、いざ曙洋行についてみると、担当者は他の会社の営業と話しており、私は待たされることになった。
店の近くの海の見える場所で煙草を吸いながら待っていたが、一本吸い終わってもまだ商談が終わる気配がない。煙草ばかり消費するのも勿体無いので、私はぼんやりと海を見ていた。
ふと、渡り鳥の一団が見えた。
編隊飛行している鳥たち。もう北国に帰るのだろうか。
そう思うと、私の心に郷愁が蘇った。
(九州の家はどうなっているかな。母は、大阪の兄達は元気かな)
その時に、少女に声をかけられたのだ。
その上等な服と少し上品な関西訛りから、どこかの店のお嬢さんだと理解した。
「いや、とりたてて何をしているというわけではないんだが、曙洋行さんに書類を持ってきていて、待っているところなんだ」
子供に何を話しているのだろう、そんなことを思いながら説明すると、彼女はくすりと笑った。
「曙洋行やったら、うちやわぁ。うちの社員さんがごめんなさいね。堪忍したってね」
私は驚いた。
「きみは曙洋行のお嬢さんかい?」
「そうよ。うちは文世。お店の人はうちをこいさんって呼んでるわ。うちは末っ子やからねえ」
文世は私のそばに座った。
私はあまり子供に好かれるタチではないので、少し面食らったが、文世はいっそ馴れ馴れしいほどだった。
文世は本を持っていた。
怪盗紳士。フランスの怪盗を描いたアルセーヌ・ルパンのシリーズだ。とても流行っていて私も読んだことがある。
しかし、文世が読むには、いささか難しいのではないかと思った。この子は早熟なのだろう。
「難しい本を読んでいるんだね」
「そうやろ。けれど、とても面白いんよ。このルパンがほんまにかっこええの」
文世はそっと顔を赤めて嬉しそうに笑う。
「でも、うちにはまだ難しい漢字が多うてねえ。だから、社員さんが暇な時に読んでもろうてるんやけど、今日、みんな忙しそうでねえ」
「ああ。そういうことか」
「眼鏡のお兄ちゃん、もし時間あるんやったら読んでくれへん? 途中まででもええから」
文世はそういうと、私に本を押し付けた。私としては断る理由もないし、実際時間もある。子供と何を話せば良いかもわからないし、本を読む方が気が楽だ。
「構わないよ。どこから読んだら良い?」
了承して、私は本を朗読した。
一通りの章を読んだ後、文世は目をきらめかせていた。
「こんな感じでどうかな?」
「お兄ちゃん、ええ声してはるわあ」
文世は感動したといわんばかりに私を見上げて言った。美少女の文世にそんな視線でみられて、私も悪い気はしない。
「そうかな」
「うん。声も素敵やし、演技もすごくお上手やわ。ほんまもんの役者さんみたいや!」
文世の言葉には世辞はないようだ。
「お兄ちゃん、役者さんにならはったら良いのに」
「まさか」
私は苦笑した。
「こんな顔じゃダメだよ。もう少し男前でないとね」
それに、と私は少し恥ずかしくなって言った。
「私は少し訛っているし」
「ああ、お兄ちゃんは大阪の言葉もあるけど、ちょっと違う感じやね」
文世は、目を瞬かせた。
「眼鏡のお兄ちゃん、お里はどこやのん?」
「私は九州の生まれなんだ。豊前の方だよ」
「そうなんや。うちは大阪の船場なんよ。お父はんが異人さんとお商売するから、今年の春先に横浜に来たんや」
文世はそう言って、少し寂しい顔をした。
「だからまだお友達おらへんの」
「そうなのかい」
私は慌てて慰めようとした。
「でも、お父さんやお母さんが遊んでくれるだろう?」
「お母はんははやくに亡くなってしもうててね。お父はんはお商売が忙しいから、あまり会えへんの。兄さんと姉さんは年が離れていて。そやから、社員さんに遊んでもろうてる」
「そうなのかい?」
私は言葉もなく、困惑した。
「うん」
文世は、ぱっと顔を上げた。
「でも、来年の春には大阪に帰るのん。だから、少しの辛抱やて、お父はんはいうの」
文世は空を見上げた。
「うちもなあ、渡り鳥と同じなん。次の春になったら帰るんや。だから、それまで横浜を楽しむんよ」
「それは……良いことだと思うよ。横浜にも楽しいことはたくさんある」
「そうやね」
私がそういうと、文世は煌めく瞳を私に向けた。
「お兄ちゃんは、いつお里に帰るのん? 来年の春まではここにおるの?」
そう尋ねられ、私は困りつつ答えた。
「今のところはね。ここで仕事をするつもりだよ」
「そうなんや」
文世は笑顔になった。
「もし、これからもうちの会社にくるときは、お兄ちゃん、うちに本を読んでくれんかな?」
文世は私にねだるように言った。
「うち、お兄ちゃんの声が好きになったの。だから、また本を読んでほしいんよ」
「いいよ」
そう応諾すると、文世は微笑んだ。
「ほんま? 指切りするで」
文世はそういうと小さな小指を差し出した。
ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます——
ゆびきった!
*
梅雨は明けようとしている。
夏の京都はすでに蒸し暑く、私は車の運転席で扇子を使って彼女を待っていた。
「オオニワよお」
隣のやつは、薄物の銀鼠の短いケープを肩から羽織っている。
だが、怪異のこやつはそもそも寒暖の差をさほど感じないのだろう。本当はお気に入りの夏物のインバネスを羽織ろうとしていたが、視覚的に暑苦しいのでやめさせた。
とはいえ、右腕のないことや右目と顔の傷をかくすのにインバネスと帽子は便利である。
そこで銀鼠の絽の丈の短いケープとパナマ帽を仕立ててやり、やつに与えた。
やつは中は着物だが、この半洋装の服装もなかなか似合っており、伊達男めいている。
私は今日は和装なのだが、やつの方がぐっと洒落ていた。
「なあ、オオニワよ」
やつが絡み口調になっていた。
こういう時のやつは面倒臭いので、私は無視したいのだが、今日は車の助手席にいるので無視するのも難しい。
「なんだ」
「なんだもかんだも。てめえ、よりによってクライスラーなんざあ」
「クライスラーの何が悪い。ちゃんと私が働いた金で買ったものだ」
私は、私物の車を出していた。
今日は、禎子と仁和寺に行く約束の日だった。
あまり人目につくのもよくないし、車を使おうということになったのだが、やつはそのことに一言あるらしい。
「お前、ド近眼のくせに、なんて車に乗ってるんだ、てめえ」
やつが呆れたように言った。
「しかも運転手なしで自分で運転かぁ、よくやるぜ」
「悪いか。車は趣味なのだ」
「瓶底眼鏡のド近眼が運転する車にゃア、乗りたかねえなあ」
やつはクククと笑って、
「しかし、貴様、金のかかる趣味しかしねえなあ。庭だの車だのカメラだの書画収集に刀剣集め。ああ、いくつかは途中で才能のないのがわかって諦めたみてえだが」
やつは呆れたように言った。
「まあ、頑張って働け。金さえかければ、一つくらいはモノになるかもしれねえからな」
「うるさい。居候が! 放り出すぞ!」
やつの皮肉に腹を立てていると、ふと視線の先で手を振る若い女性の姿が目に入った。後ろには禎子の付き人が寄り添っているが、ここまで送ってきたのだろう。
今日は私的な観光ということになっているので、付き人はこの後退席し、夕刻、また迎えにくることになっていた。
「おお、禎子だぜ」
「そのようだな。さあ、助手席から降りろ」
「はァ?」
やつは不服そうだ。
「イコちゃんを隣に乗せるから、貴様は後ろにいけと言っている」
「なんだと! 身の安全を考えると、禎子はおれと一緒に後ろに乗るのが最上だろう!?」
「ド近眼の運転する車に乗りたくないんだろうが。後ろに行け」
「てめえ、禎子と乗りたいだけだろ!」
「貴様がだろうが!」
私とやつが争っているうちに禎子が来てしまったので、やつは仕方なく禎子に席を譲ったのだった。
*
「朝倉文世さん?」
助手席に座った禎子は、鮮やかな水色のワンピースをきており、今日もフランス人形のように可愛らしい。
白いレースの襟が目に鮮やかで、細い腰に巻かれたレースのリボンが涼しげに揺れる。
正体を隠すべく伊達メガネをかけて、髪を三つ編みに結っていたが、輝くような美少女っぷりは隠しようもないものだった。
今はかぶっていた白い帽子を膝の上に置き、白のレースのパラソルを手にしている。
「そうだ。朝倉文世という娘が関わっている可能性がある」
後部座席から、私と禎子の間に割り込んで、にゅっと顔を出してきたのは、やつだった。左手を前の座席にかけて前のめりで話してくる。
「大正十二年で八歳だったから、今なら大人の娘になっていたのだろうな」
「でも、オオニワさんは、彼女について詳しくは覚えていないんですか?」
禎子にきかれて私は唸った。
「ええ。横浜の出張の際に、彼女に本を読んであげていたのは覚えています。本を読んであげるという約束をしたことも」
「しかし、本を読む約束がそんな執着に繋がるとは思えねえからな。他にも約束をしているはずだ」
パナマ帽を斜めに被ったやつが口を挟んだ。
「しかし、オオニワも、あの震災ではひでぇ目に遭っているからな。朝倉文世との思い出が、そこに直結するのだとしたら、思い出せないことがあるのかもしれねえ」
「そうなんですね」
禎子はため息をついた。
「私は生まれてすぐのころだから、震災の記憶はないんです。でもオオニワさんはちょうどその時東京にいたんですよね」
「……ええ。だからこそ、思い出さないようにしているのかもしれませんから」
私はそう答え、ため息をついた。
「あの時、船場でこやつが持ってきた本と写真を見た時、一斉に記憶が戻ってきました。……ということは、思い出すには何かのきっかけが必要だ、ということなのかもしれない」
ふむと禎子は唸った。
「仁和寺にもそんな過去を封じ込めたものがあるのかしらね。だって、オオニワさんは、仁和寺のお花見で、春の骸に取り憑かれた可能性が高そうなのでしょう?」
禎子は少し考えて頷いた。
「もしかしたら、オオニワさんの記憶の蓋を開けるためのもの。過去を封じ込めた箱のようなものを、春の骸は用意していたのかもしれないわ。けれど、オオニワさんはその時には思い出せなかったか、それを見ることがなかった」
禎子はレースの手袋を引っ張って、手袋を脱いだりつけたりしつつ考えながら話した。
「春の骸は、何かをオオニワさんに伝えたかったけれど、伝えられなかった。そのうちに、周りの悪意に影響されてしまったのかしら。そんなこともあるのかもしれないですよね?」
ふむ、とやつが唸った。
「横浜の娘が残した伝言が仁和寺にある……というのも、ずいぶん不可思議な話だが、どうも何かしらあるのだよな、仁和寺には」
やつは肩をすくめた。
「仁和寺の五重塔は、別荘から毎日見ているはずなのだが、おれもオオニワも何も感じねえのだよな」
私はそれに同意する。確かに仁和寺自体は、私の別荘から見えている。しかし、何も思い出さない。
やつは、私と禎子を左目で見比べながら言った。
「禎子、お前は年頃の娘だから、多分、気の利かねえおれたちよりも細かいところに気がつく。それに朝倉文世とも年が近い。何かしら感性が共通しているかもしれねえ」
やつは頼むように言った。
「オオニワだけじゃあ心許ねえから、お前の助力に期待しているぞ」
「あら、殿様。珍しく弱気ねえ」
禎子はにっこりした。
「そりゃあ、おれたちには、若い小娘の考えることは、わからねえからな」
やつが苦笑すると、禎子は明るく笑う。
この娘がいると、急に周りが明るくなる気がする。私の緊張した心もほぐれていった。
禎子はビシッと敬礼し、明るい笑顔を私に向けた。
「大丈夫ですよ。そういうことなら、このイコにお任せください」




