第二十二話 楔
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏——
宗教書があちらこちらに散らばる部屋で、私は一心不乱に口を動かしていた。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥——
喉が枯れるまでひたすらそれを唱えて、私はふるえていた。
脆弱な私の心は、それを唱え忘れると簡単に四散してしまうのではないかと思った。
私の母は元から信心深いひとだった。私自身もその影響を深く受けて育った。
だから、もともと私も熱心な仏教徒ではあった。
しかし、あの日、仕事がなくなって、私は大阪に戻った。そして、助けてくれるものを探して、宗教書を読み漁り、最終的に私は阿弥陀仏に縋った。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
あの日、私の職場は被災した。
暑い九月の初めの日。
夢を見ながら過ごした都会の日は、一瞬にして地獄の業火に飲まれていった。
揺れと炎で恐ろしい思いをしながら逃げるとき、私は地獄の街を見た。
そして、友人や知人の消息がしれなくなった。
せっかく身を粉にして働いても、建物は崩れ、店はなくなり、会社はつぶれる。
街と共に私の仕事はなくなった。
私は自分は身一つで生きていかないと、結局、何もならないと思った。
ああ、何故。こんなに辛い思いをしながら生きていかなければならないのだろう。
人の世はあまりにも無常だ。
辛い思いをするために生きていなければならないのは、なぜなのか。
様々なことがあれから私の心に飛び交った。
そうはいえど。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……
唱えながら私は涙した。
本当は違う。
追悼のためなどではない。
私は自分の本当の望みがわかっていた。
ああ、本当に、私はエゴの塊だ。
亡くなった友人を思って唱えているつもりでいて、本音では、結局、私だけ救われたいと思っている。
救われたいのだ!
誰よりも私だけが救われたい!
もう、あの日のことを全部忘れてしまいたい。
あの日だけではない。辛い記憶は全てどこか遠くに持っていってほしい。
助けてほしい。
毎日が苦しい。
どうか、私を助けて……。
どうか、罪深い私を助けてください。
そんな気分で鬱々と。
あの日の記憶を消すために。
私の心が、これ以上、破れてしまわないように。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏——
私はまだ若かった。
そんなふうに楔を打ち込まないと、私は立ち上がることもできないほど打ちのめされていた。
何に?
あの日の光景に?
友も仕事も一瞬で失くしたことに?
生き残っただけでなく、自分だけが救われたい自分に?
わからない。何もかもわからない。
わかるのは、この世で生きることがあまりにも辛いことだけだ。
けれども死ぬこともできない。
私は死にたくない。けれど、生きることはあまりにも辛い。
だから、どうか——。
このまま、生きていくしかないのなら、どうか私を助けてください。
ひたすらに私は、念仏を唱え続けていた。
*
「オオニワ」
ふとやつに声をかけられて、私は顔を上げた。
「どうした、顔色が悪いな」
「ああ、いや」
私はハンカチーフを取り出して、額の汗を拭った。
「なんでもない」
「それなら良いが」
やつは私を気にかけつつも言った。
「オハラ夫妻が気になる情報をくれた。先ほどの簡単な話でも伝わったかもしれねえが」
やつはパトリックから写真を受け取っていた。
「パトリックの取引先に大阪の朝倉という商人がいてな。本業は老舗の呉服屋なんだが、別に会社を起こし舶来物を取り扱っている。レンズや時計、硝子製品などの扱いがあり、パトリックとその辺で付き合いがある」
やつは写真を指で弾きつつ、
「朝倉には亡くなった娘がいて、その供養に仁和寺の桜をもらい接ぎ木したんだがうまく花が咲かねえ。パトリックがその話を聞いて、マダム・エレノアに相談した。それが数日前の話だ」
やつの写真を改めて見る。
桜らしい細い木と市松人形のような美少女の写真。
「パトリックはお前の御室桜の話を思い出し、それに縁を感じ、写真を預かってきたという。何かの手掛かりにはならねえかと思ったそうだ」
「娘の供養に、桜を?」
私は口籠もりつつ、
「その、娘さんは、先ほど言っていた……」
「ああ、関東の震災で亡くなっている。もう十何年も前の話だがな」
私は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「この娘に、覚えはあるか?」
「覚え? いや……、朝倉という名前にも覚えはないが……」
私はおそるおそる記憶を辿った。
「しかし、貿易を行う会社なら、私が若い頃勤めていた商社と関連するかもしれない。大阪と東京で、私はそれぞれ輸入関係の会社で働いていたし、それで本社のあった横浜にも顔を出していたから」
「Patrick」
やつが間髪入れずにパトリックに尋ねた。
「The company’s name?」
やつが会社の名前を尋ねたのだとわかった。
「Akebono Yoko.」
「アケボノヨーコー?」
パトリックからの返答をやつが反芻する前に、私ははっと顔を上げていた。やつがわかりやすく発音するまでもなく、パトリックの訛りのある言葉でもすぐにわかった。
アケボノ洋行。違う、曙洋行だ。
「曙洋行という会社は知っている。東京の商社につとめていたとき、横浜にその会社があって、確か酒類の輸入に携わっていた。私は仕入部門で売掛金の管理をしていたから、時折、取引先に書類を持参することがあった。しかし、横浜の会社だし、今は酒類の扱いはないなら同名の別会社かもしれない」
「そうか、確かめてやろう」
やつは頷いて、改めてパトリックに尋ねた。
「Did Akebono Yoko have an office in Yokohama before the earthquake?」
やつがなにごとか尋ねると、パトリックが手振りを含めて答える。
「Yes. After the earthquake, they moved the business back to Osaka.」
やつが私を振り見た。
「横浜にいたが、震災の後、大阪に戻ったそうだ」
*
多くの取引先のその後を私が知らなかったのと同様に、曙洋行のその後も私は知らなかった。
しかし、関東大震災では東京、特に横浜の被害はたいへん大きく、本社を関西に移した会社も多かったのだ。
曙洋行は元々大阪船場の店だというから、横浜での再建を諦めて関西に戻っていたとしても何の不思議もない。
私は確かに曙洋行に出入りしたことがある。しかも、あの日の直前まで。
しかし、彼らにとって、私は大勢いる取引先の社員の一人でしかなかった。しかも私はその時は二十代、平社員の下っ端もいいところ。帳簿関連の事務職員の私は、大きな取引に絡むことはなく、書類の受け渡しや確認を行うだけだった。
そんな私にとって、曙洋行に取り憑かれるほど私に執着するものがいたとも思えない。
しかし、何故——、今になって全てが絡み合う?
パトリック・オハラが気に掛かったのも無理はない。これは春の骸の誘導なのか、御仏のお導きなのか。
偶然というには、恣意的だ。
春の骸は私に何を気づいて欲しいのだろう。
しとしと、ぱたぱた。
外は雨が降っている。
仕事中は役に入ることで気持ちを切り替えられたものの、その後の私は気もそぞろだった。
幸い、仕事はさほど忙しくなかったので、早めに帰宅し、別荘の方で気持ちを落ち着けていた。今日は無理に続けても良い仕事はできない。
いつものようにお経を唱えてお勤めをし、瞑想を試みた。けれど、今日はどうしても、あの頃の自分を思い出してしまう。
瞑想しても、雑念ばかりが頭をよぎる。
それは仕方ない。念仏を唱えるのも、瞑想を行うのも、私の場合、修練以外にも辛い現実を忘れるための一つの方法でもあったからだ。
それは私の弱さがさせること……、それは逃避に他ならない。
私は何かしらの忘れた過去から、逃げようとしているのだろうか。
「オオニワ」
勤行するためのお堂から母屋に戻ってくると、やつがいつもの定位置で待っていた。柱に背をもたせ、座っている。
部屋に入ってすぐ、やつから声をかけてくることは珍しい。
「なんだ?」
そう尋ねるとやつはすぐには返答せず、
「貴様は先の震災の時に、東京、もしくは、横浜にいたのか?」
そう尋ねられて私はどきりとした。
やつは少し誤魔化すように苦笑して、
「いやなァ、おれは、実はあの災害のことはしらねえのだ。おれはまだ生まれてもいねえし、先生もその時は亜米利加にいてな」
やつは猫背になり、片膝を抱えた。
「先生はその知らせを聞いて、日本が恋しくなって帰ってきたんだそうだ。本当はもう帰るつもりなんざなかったらしいんだがなァ。故郷のひどい有様を聞くと、恋しくなるもので……」
やつは続けた。
「先生は船員の募集に応じて、船で日本に帰ってきたんだが、当然、居着くつもりはなくてな。だが、そうこうしていたら、亜米利加のVISA——こいつは査証のことだが、そいつが降りなくなっちまって……」
やつは苦笑しつつ、
「その結果、日本に縛りつけられちまった先生は作家になって、おれが生まれたわけなんだがな」
やつはすこし上目遣いに私をみた。
「だから、おれはあれがどんなにひでえものなのか、よく知らねえのだ。先生も伝聞で聞いただけだったからな」
「……あれは、一種の地獄だ」
私はぽつりと呟いた。私はまとわりつく不安と恐怖を記憶ごと追い払うように言った。
「あの日のことを、思い出したくはない」
「そうだろうよ」
やつはため息をついた。
「おれはナ、オオニワ」
やつは少し躊躇いがちに言った。
「別に勘の鋭い方じゃあねえのだが。流石にてめえが、繊細な男だというのはわかっているのだぜ?」
何を言い出すのか、と、私はやつを見た。やつは私を見たが、目を少し逸らし気味だった。
「だから強情っぱりなてめえが、他人が思っているほど、強くはねえことも知っている」
やつは、少し声の調子を落とした。
「……だから、てめえが嫌ならこれ以上調べずに……」
おれが、黙って春の骸の始末をつけてやろうか。
やつはそれを口に出さなかったが、やつがそう言いたいのは私には伝わった。
しばらくやつを見やって、私は思わずふきだした。
「貴様に気を遣われるとはな」
「笑い事じゃねえぞ」
やつは真面目だった。私はやつの向かいにいつものように腰を下ろした。
「春の骸は女だろうと言い出したのは、貴様だろう? 私に秘密裏でお前が女を始末できるかな?」
「何だその言い方は? 別におれは女が斬れねえわけでは……」
「そうではなく……、お前は非情のようでいてそうでないからな。私のことを心配してくれているが、お前も本当はそんなに心の強い男ではないだろう」
やつは少し詰まって無言になってしまった。
私は言った。
「貴様に心配されるほどには脆くはない。……あの頃と違って、私もあちらこちらに楔を打って自分を安定させている」
「本当かよ?」
やつがからかうように軽く言った。
「もちろん。もういい歳だからな」
私はそう答えた。
そうだ。私は強くはないが、やつも本当は傷つきやすい男だった。
やつは血も涙もない殺人鬼のようでいて、弱いものには優しい一面もあるし、傷つきやすくもある。
春の骸の正体は我々にはまだわからないが、やつにとっても負担のないものとは限らない。事実、春の骸が藤の女の姿をした時、やつは斬るのをためらったのだから。
それに、あの頃の私よりは、今の私の方が幾分かは強くなっているはずだった。
信仰心や心構えの問題だけでなく。
認めたくないが、今の私には楔の役割を果たすやつがいるのだから。
しかし、そのことは言わないつもりだ。
「それくらい、なんとかなる」
「そうかよ、それなら良いのだが」
やつは少し調子を変えて、唐突にため息をついた。
「あーあ。今日は疲れたぜ。てめえに迷惑をかけられたのだから、少し良い酒でもつけてくれよ」
やつは左手だけで伸び上がるような仕草をしつつ、
「暑くなってきたから冷やがいいぜ。奥に良い酒があったろう。あれを開けろ」
これはやつにしては、わざとらしい図々しさだった。だが、私は知らないふりをして。
「図々しい。あの程度の迷惑、私の方が普段からかけられている」
そう私は敢えて不機嫌に答えつつ。
「まあ良い。今日は疲れたから、酒の用意くらいはしてやってもよいぞ。しかし、いつものだ。そんなに良い酒ばかり開けられるか」
「ちッ、けちくせえやつだな」
やつの舌打ちは、作為的だった。
やつがほんの少し安堵したのを、私は見逃していなかった。
不覚ながら、やつの不器用さに私は感謝した。




