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やつと私と雨の庭〜文月の残照〜  作者: 渡来亜輝彦


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第二十話 渡り鳥


 まだ若い時分。

 私は関東で商社勤めをしていた。


 勤務先は東京の銀座の社屋だったが、もともと横浜で起こした会社で、私は仕入れの部署で帳簿をつける係だった。横浜に本社や倉庫があったから、そちらに出張することもたびたびあった。

 その時の私は文学青年だったから、仕事の休みに文章や絵を描いて、それで、食っていけないかと夢想しながら日々を過ごしたものだった。

 仕事は忙しかったが、それでも東京や横浜はそんな私に、夢見心地で新鮮な刺激をくれる先進的な都会の街ではあった。


 あれはいつ頃だったのか。

 渡り鳥が編隊を組んで飛ぶのをみた。春先だったのか、秋だったのか、そんなことは忘れてしまった。

 ただ、渡り鳥の編隊飛行を見ると、彼らは北国に向かうのかな、と無条件に考えたのだと思う。

 もっとも、私の故郷は北にはないけれど、そんな渡り鳥の姿を見ると、都会の生活を楽しむ私でも、妙な郷愁にそそられる。

 その時、誰かに話しかけられた。

「お兄ちゃんは、お里はどこやのん?」

 関西の訛りがある声だった。

「うちもなあ、渡り鳥と同じなん。春になると帰るんや」

 女性の声だった気がする。しかし、それはひどく曖昧な記憶だった。

 その声の主の姿も思い出せない。


「お兄ちゃんは、いつ、お里に帰るのん?」


 そう尋ねられて——。

 ああ、そうだ。

 私は、その時に、なんと答えたのだったろう?


 *


 近くで燕が巣を作っているらしく、雨を縫って行き交うのが見えていた。

 そろそろ梅雨明けなのか、晴れの日が続き、カラッとした暑さが強まってきていたが、今日はにわか雨だった。

 それゆえに蒸し暑い。

 私の別荘は山にあるので、比較的涼しいが、ここから一度下界に出ると、そこは都会の暑さが待ち受けている。

 私は手持ち無沙汰に扇子を使いつつ、久々に別荘の一室でゆっくりしながら物思いに耽っていた。

 やつにはここ以外ではなるべくは一人になるな、と言われており、やつが撮影所の近くまで私に同伴する日が増えた。

 といっても、普段は付き人のマサがいるので、そういう日はやつは気楽に人目を避けているようだ。

「マサがいてくれて助かるぜ」

 やつはそんなことを言う。やつとマサとの間に交流があるかどうかは知らないが、マサはもしかしたら、やつの存在に勘付いているのかもしれない、と思うことはしばしばである。

 とはいえ、マサは私に何を言うわけでもないのであるが。

 もし、やつに話しかけられているのだとしたら、厄介を押しつけられていなければ良いが。

 そんなことを考えていると、不意に戸口に気配がして、誰かが入ってくる気配があった。

 この感覚はわかりきっている。やつだ。

「そろそろ梅雨明けだな」

 やつがそう話しかけてきた。ほどなく、襖をあけてやつが中に入ってきた。

「ことによると、嵐が来るかもしれねえが。こう暑くなると、そろそろ暴風雨に見舞われ始める季節だ」

 秋ほどにないにしろ。

 と、やつは付け加えた。

「あれから、春の骸は見かけていない」

「当たり前だろう。おれも警戒しているし、てめえもひとりでぼんやり歩いていねえからな」

 やつは肩をすくめた。

「だが、明らかにあれは強くなってきている。七月ももう半ばを過ぎた頃だからな」

「わかっている」

 私は頷いた。夏になるとあれは強くなっていく、やつにはそう忠告されていた。

「この庭に入ってくるほどじゃあねえとは思うがな」

 とやつは言った。

「ここはおれが縄張り化しているから、あれも好き勝手は出入りできねえ。それに、この庭は清浄な空気が満ちているから、やつとは相性がよくねえ」

 私はやつに尋ねた。

「しかし、はじめに春の骸に気づいた時、あれは庭に現れたのではなかったか」

「あれはおれが結界を緩めたからだ」

 当たり前だろ、とばかりのやつ。

「招き入れてやったのだよ。今でも招き入れりゃあ……、いや、少しでも、おれが気を許せば、中に入ってくるぞ」

 やつはようやくそこで、いつもの定位置に……、柱のそばに座って寄りかかった。いつも通り、左手の届く位置に刀を立てかけておく。

 やつは、元から刀の怪異のようなものだから、基本的に刀を手放すと言うことがない。洋装している時も、ステッキに偽装して身につけていた。

「おれは、てめえの知らねえところでも、ちゃんと戦っているのだぜ?」

「それは、迷惑をかけてすまないな」

 やつの、ちょっと恩着せがましい言い方に、私は皮肉っぽい口調で答えておいた。

 と、また外で燕が雨の間を縫って飛んでいる。

 やつの片目が猫のようにそれを追った。まだ小さな燕たちが空を飛ぶ練習をしているのだろうか。体が小さく可愛らしい。

「燕の子も飛ぶ練習をする時節か」

「燕は渡り鳥だからな」

 やつの感想に私は言った。

「秋になると南の国に去ってしまう」

「そうだな。まあただ、燕はまとまって飛んでいくのをみかけねえから、秋の鳥のようには物悲しく感じねえが」

 私は言った。

「そういえば、貴様は里は東北だったな」

「そうだ。おれは奥州出身だ。お前は九州だろう? おれとは真逆の位置だなあ」

 やつは苦笑する。

「正直、演じるてめえの訛りとおれの訛りはてんで方向が違うのだが。あれはどうにかならねえか?」

「それは仕方がないだろう。訛りは完全に直すのが難しい」

「おれとてめえには、意外と相違は多いんだがな。体型もかなり違うし」

 やつが不平でもないが、そう感想を述べつつ話を戻した。

「とはいえ、おれは渡り鳥に郷愁を感じるようなことはねえが、オオニワはどうだ?」

「いや別に、私も……」

 と、つい強がって言いかける。

 私も故郷を離れて久しい。何か少しのことで感傷的になることはよくある。

 そういえば、若い頃、東京に出た頃はどうだったろう。都会の街の楽しさに染まりつつ、その孤独を感じて、やはり渡り鳥に思いを馳せたものだったろうか。

 と、不意にある記憶が頭をよぎった。

 川岸。群れて飛ぶ渡り鳥。

 そして。

『眼鏡のお兄ちゃん、お里はどこなん?』

 関西訛りの女の声。

 しかし、それ以上思い出せない。あれは、いつ、どこで、誰に聞かれたのだったろう。

 妙に引っかかる記憶だった。

 しかし、それ以上思い出せなかったので、私は心の手帳にそれを書き留めておくことにして、再び外に目を戻した。

 燕の子は、忙しなく飛び交っていた。

 私は先ほどの思い出せなくてもどかしいものを忘れるため、やつに気楽に声をかけた。

 やつは、猫のような目の動きで、やはり燕を見ていたものだ。まるで襲いかかりそうなので、私はつい尋ねてみた。

「そういえば、お前は燕は斬らないのか?」

 そう尋ねると、やつがきょとんとした。

「おれが? なにゆえ?」

「なにゆえといわれても」

 問い返されて私は面食らう。

「猫のような目でみているのだから、獲物と思っているのかと?」

「なに? おれがあんな小鳥を?」

 やつは外に目をふたたびやり、やや不審そうに私をみた。

「あんな罪のないものを斬ってどうするんだ」

 私はやつの発言に少し驚き、

「お前は罪のないものを斬るのが普通なのかと。好きだろう?」

「人聞きが悪いな。確かに人を斬るのは好きだ。しかし、これとそれとは違えよ。ニンゲンは生きているだけで罪だが、動物は違うだろう」

 やつは信じられないようなことを言う。

「いやまあ、それはそうなのだが」

 やつに常識的な反応をされて、かえってこちらが言葉に詰まった。

「お前の刀に燕の名があるものがあるから、てっきり斬ったのかと」

「おれの『濡れ燕』のことか?」

「血で濡れる、とかそういう不吉なことが書いてあったろう? だからてっきり」

「お前なあ、おれは佐々木小次郎じゃあねえんだぞ」

 やつが何故か居住まいを正した。

 なんとなく私も居住まいを正した。

 これは、説教を食らう時の姿勢だと、なんとなくわかった。

「てめえの言うのは、燕を斬って会得したとかいうあれだろ、燕返し。おれはそんなことしねえよ」

 やつは信じられないという反応だ。

「おれの刀は切れ味が良いから、濡れた紙を放り投げても切れる。その切った紙が燕の尾のように綺麗に別れるから、濡れ燕の名前がついている。斬られた燕ではなくて、血を求める側の燕だ。いわば、おれの相棒なんだぞ」

 やつはそう解説しつつ、眉を引き攣らせた。

「オオニワ、てめえはおれに偏見があるぞ。人斬りだからといって、獣も斬るとは限らねえ。見た目や思い込みでひとを判断するのはいけねえぞ」

 やつは、珍しくくどくど言う。

「すくなくとも、先生はおれにはそんなことさせてねえんだぜ」

「それはすまなかった」

 何故かやつに真面目に説教されるくだりになってしまった。

 確かに言われてみれば、燕は別に斬っていないし、刀のことを燕と呼んで、とても可愛がっていた気がする。

 さらに野良犬には吠えられていたが、蹴り飛ばしたり、切り捨てたりするわけでもなかった。子猫にも、特に危害は加えていない。

 そういえば、こやつは確かに動物を傷つけたことはなかった。可愛がってもいないが。

 他の剣豪ものでは、やつのような人物は人獣ともにぞんざいな扱いをするものだから、つい先入観で判断をしたのは確かで、その点は反省しなければならない。

「すまん。別の作品で野犬に絡まれて、斬り捨てていく話を見かけたものだから」

 と、一応謝っておいた。

「そうだぞ。おれは人は斬るが、特に獣をいじめたりはしていない」

 そこを得意げに語られるのもどうかと思うが。

「ふむ、ならば、貴様、動物は好きなのか」

「い、いや、別にそういうのではねえのだが……」

 私が突っ込むと、やつが急に言葉を濁す。

「おれは出身が相馬だから、馬には慣れているぞ。乗馬も得意だしな。だから、獣の扱いは苦手ではない……かもしれねえ」

 やつはわざとらしく、曖昧に答えた。

 果たして本当はどうだかわからないが。仮に動物が好きだった場合、冷酷でニヒルな印象に傷がつくのかもしれない、と私は思った。

 やつはこれでイメージを大切にする男なのだ。

 そんなもの、子供愛して連れ回している時点で、もうすでに傷つきつつあるのだが、まだ本人は保っているつもりなのだろう。

(仮に動物好きとして)

 ふと私はある可能性を考えていた。

(こっそり犬猫を愛でている姿を押さえたら、随分面白いのだろうがな)

 思わず笑みが漏れていた。

「何をニヤニヤしている、オオニワ」

 やつがうろんな目でこちらを睨んできた。

「別に」

 私はそういう機会が訪れることを半ば期待しつつ、黙っていることにした。

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