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やつと私と雨の庭〜文月の残照〜  作者: 渡来亜輝彦


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第十九話 つるつる

「まったく。禎子を送り届けてすぐに追いかけたのに、てめえの姿が見えねえものだから」

 やつがため息をつく。

「それはすまなかった。しかし、私も自然な形で誘導されたのだ」

「それはわかっているぜ。それだけ相手の力が強まっているということだ」


 蝉の声が聞こえる。


 雨上がりで濡れた道は、もうほとんど乾いてしまっていた。

 まだ午後三時ごろ。思ったより時間は経過していなかった。

 妙な寄り道をしてしまった我々は、心身ともに疲れていたので近くの茶店によって、ところてんを食べていた。


 つるつるとした食感が、夏の気温だけでなく、よくない熱気に当てられた我々には冷たく心地よい。

「ところてんといえば、うちの小僧がところてん売りだったからな」

 やつは『設定』の話を持ち出した。

 やつにはなりゆきで養子にした小僧がいて、これがなかなか生意気な小僧なのだが、やつはそれ以降、急に父親ぶっている。殺人鬼は殺人鬼なのだが、それはそうと、不器用ながらに父親を務めようと懸命なのだ。

 それは、我々にとっては『設定』だが、やつにとっては『生きた記憶』であるらしい。

 やつは現世に顕現しているが、基本的には本の中の人物であり、現世での事を起点に英語を話したりなどもするが、元の設定はそれはそれで大切にしている。

 よって、やつが養子にした孤児を愛しているのは間違いのない感情でもある。

「あいつは味にもうるさくて、『父上、違います。これが一番うまいところてんの食べ方です』、とか高説をたれやがる。しかし、あれはませているが、その分、頭が良いからな。顔も可愛らしいし、将来見込みのあるやつなのだ」

 どうやら、かわいくて仕方がないらしい。

 こういうのを親馬鹿というのだが、やつはそれに気づいているだろうか。

 正直、殺人鬼で悪党で乱暴な——、まあ、騙されやすくて友人思いなところもある、妙に憎めないところもあるやつではあったが、そんなやつが子供を養子にしたのは何故だか、私はよく知らない。

 そういう『設定』になったのは、もちろん商業的な意図もあろう。やつと対立するヒーローも子連れではあったし、作家先生がライバルであるその原作者を意識したこともあるかもしれない。

 それに、我々、映画関係者もやつをはじめに演じたころから数年経過して、親になっているものも多かったから、それを反映させたこともあったかもしれない。

 いつの世も子供に好かれるものは売れるもので、明確に子供を相手にした浴衣の売り出しまであったのだから、商魂逞しいものだ。

 まあしかし、それに伴い、やつは確かに子供に支持される存在にはなっている。

 意味のわからない恐ろしい殺人鬼なだけでなく、子供と近しい存在になり、曲がりなりにも人の親になっているわけで、私としては鬼子母神を見るような気持ちも少しある。

 特に、隣でこんな親馬鹿な話を聞かされていると。

「お前の子のことはよくわかったが、そういえば、お前は、結局、春の骸を斬らなかったな」

 私がそう指摘すると、やつは少し不機嫌になった。

「別に、あの女に言われたから斬らなかったわけではない」

「意地を張らなくても良いぞ。お前が本当は情が深いのは、あれに指摘されなくても、私自身もわかっていることだ」

「おれは別にそういうのじゃあ……」

 やつはところてんをつかんだ箸を置いたが、それ以上言い淀んでいた。

「私もその方が良かった。目の前で彼女の姿をしたものを斬られるのは、私も辛い」

 私はため息をついた。

「あの藤の女は、お前にとっても複雑な感情をもたらすのは知っているからな」

 これも『設定』だ。

 やつには、一方的にやつに惚れ込んでいる女がいる。それがあの藤の女の演じた女だ。

 やつとしては、一方的に恋情を振り向けられているだけなのだが、かといって、やつは自分のような男に尽くす彼女を捨てきれない。しかも、やつはその女心を利用できるほど悪辣ではないのだ。

 それゆえに基本的には彼女には指一本ふれず、妙に潔癖に対応している。春の骸に、女のことでは意気地がないと断言されていたのは、根拠のないことではなかった。

 やつは、あの女の形をした怪異を斬るのをためらった。

 やつの『設定』は、やつにとってはやはり『生きた記憶』であり、やつはやつで、私とは違うけれども、藤の女に罪悪感混じりの複雑な感情を抱いている。

 私とやつとは、そこで通じ合っていた。

「私は彼女にかわいそうなことをした」

 私は呟くように言った。

「彼女は、私のことを恨んでいるだろうから。それについては言い訳はしない」

 私は俯いた。

「春の骸は、彼女への私の未練や後悔をかぎ取っているのだな。他のことと同じように」

 ふむ、とやつは少し考えて、ところてんを眺めていたが、

「しかしよ、オオニワ」

 やつが言った。

「あの春の骸は、どうも確かに女が中心にいる気がする。だが、それをあの女自体だとするには、どうも不自然なことがあるぜ」

「なに?」

 思わぬことを言い出すやつに、私は尋ねた。

「どういうことだ?」

「そりゃあ、春の骸には、あの藤の女のことは絡んでいるかもしれねえ。実際てめえにとって苦い気持ちもある。しかし、あの春の骸の核となったものは、てめえの藤の女じゃあねえと思うぞ」

 やつはそう言って顎を撫でた。

「第一、お前の女は生きているだろう? そりゃあ、生き霊とかいうものも世にはあるらしいが、気風の良い姐さんだったじゃあねえか。そんな執着する娘か? それより、なによりも、『あの女』、おれのことを知っているようで知らなかったぞ」

 私は、ところてんをつまみかけていた箸を置いた。

「彼女がおれを認識していたかどうかは知らねえが、禎子にも負けねえ立派な女優だったわけだ。しかもお前達は恋愛関係があった。お前もあの女も役に入り込むたち。だとしたら、おれのことを、なんとなく察するくらいはあってもおかしくねえ」

「それはそうだが……」

「そうすれば、おれへの挨拶があって然るべきじゃねえか? 久しぶりだね、のような。そういう姐さんだったじゃあねえか」

 さらにやつは続けた。

「それにだ、第一、やつはおれが『お前を奪った』、とかなんとか言っていたぞ。だが、お前達が別れたことに、おれは一切無関係だぜ?」

 やつは目をすがめ、

「やはり、あれはお前のいう女ではないと思うな。お前の彼女への後悔と記憶を読み取って、表面をそうなぞっただけなのではないか?」

 私は小首を傾げた。

「だが、それなら一体なんだと?」

「あれは、お前を『もっとずっと前から知っていた』と言った。それに、お前と『約束した』。多分相手は女なんだ。なにか、心当たりはねえか?」

 私は首を振った。

「彼女のことならまだしも、それより前に約束をするような女性はいないな」

「『もっとずっと前』。あの言い方は、てめえが役者になるずっと前のことを指しているのでないか?」

 やつにそう言われて、私はどきりとした。そして、慌てて一通り記憶の底をさらってみる。

「しかし、本当に心当たりがない」

「お前にはそうかもな。もしかしたら、本当に些細な、大昔の些細な約束なのかもしれねえ」

 やつは左目で私を見た。

「忘れている約束」

 ふむ、と私は唸った。

 腕をくみ私は考える。やつも羽織ったインバネスの右の襟を正したりしながら考える。

 と、やつが顔を上げた。

「やめだやめだ! 考えても全くまとまらねえ。こういう時は何か考えても無駄だ」

 やつは気持ちを切り替えて、左手で箸を取り、ところてんを口に入れた。

「てめえも今日はもう考えるな」

「貴様が考えさせるようなことを言ったくせに」

 私は切り替えの早いやつに、なんだか無責任さを感じて理不尽だと思った。が、やつは気にした風もない。

「今日はひとまず忘れろ。ところてんみたいにつるつる流し込んじまえ。どうせ、また考え込むことがある。考えるのはその時にしろ」

 私はため息をつき、気持ちの切り替えのできるやつに少し羨ましく思いながら箸を取る。

 ところてんは、胸がつかえそうな私でもつるりと飲み込めるのでありがたかった。


 いつのまにか、また蝉の声が聞こえている。もうすぐ夕刻だが、日はずいぶん長い。

「そろそろ梅雨明けだろう」

 やつが言った。

「梅雨が完全に明けて、夏の盛りが来る前に決着をつけなきゃあならねえな」

「そうだな」

 私はそう返答し、そういえば、と思い出した。

「そういえば、今日は禎子を送っていったのだったな」

「もちろん。タチの悪い男につけられていたからな。付き人にしっかり渡してきたぜ」

「で、貴様はなんと名乗った?」

「なんだ?」

 やつがきょとんとした。

「名前だ。流石に英語名で名乗るまい。禎子の付き人や他の関係者がいる前だ。流石に名前を聞かれたろう。お披露目の良い機会だったではないか。変名は何と決まったのだ」

 やつは苦笑した。

「てめえはそういうところだけは鋭いな」

 やつはこほんと咳払いして、

「その、だ」

 と、やつは妙に構えて、

「いってみりゃあ、姓は長谷川、名は佐市、ってところだな」

 自分で芝居をなぞって言い、それから少し間をおいて少し照れたそぶりをする。

「サイチ?」

「まあな」

 やつは少し恥ずかしそうにしつつ、

「その、あれは厳密にはおれじゃあねえんだがな。設定が……、出身の藩も違うから」

 やつは照れ隠ししながら言った。

「だが、先生の友達が、新しく書いているおれの小説での、おれの本名がサイチだから、そうもじった。ほら、お前に主演の話が来ているやつだ」

 ああ、なるほど、と私は頷いた。そういえば、やつの青年期の話を映画にする計画があったな、と思い出す。確か、サイチ、そのような名前だった。

「まあ、それなら、貴様にしては良いのではないか。直接的すぎず、関連性もあり」

 そして、私は少し含みを持たせた。

「そして、突飛で派手すぎず、一般人として溶け込める」

 私の皮肉にやつがジロリと睨んできた。

「オオニワ、貴様はおれについてなにか偏見があるぞ。そんな常識的ではない名を名乗らねえよ」

 なにがだ。と私は思った。


 アレクサンダー・ヘイズなどという、妙に大仰な格好の良い名前を名乗っているくせに!


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