第十八話 もう二度と
やつが、線香の香りをさせていることがあった。
基本的に澄んだ金属のような、血の香りをさせているやつがである。
そういう時は、やつなりに作家先生のことを思い出している時のことが多かった。やつは線香をあげていたのだろう。
黄昏時、何を考えているのか、ぼんやりと縁側で座っているやつに、私は声をかけた。
「今度、仕事で東京に行く」
私は言った。
「ついてくる気はないか。鎌倉に立ち寄っても良いぞ」
鎌倉には作家先生の墓所があった。
やつはそこを訪れたいと思っているようだが、私に取り憑いていると、京都に縛り付けられがちで、うまく移動ができない。自由に墓参にいけないのは気の毒に思うことがあった。
「それはありがとうよ」
やつは素直に礼を言った。
私はなんとなくやつのそばに座った。
「作家先生の法要でも近いのか」
「ああ、まあな」
やつは言葉少なだった。
しばらく無言で座っていると、やつがぽつりと話し始めた。
「先生が亡くなったとき、先生は別の作品を連載していて、先生に呼ばれていた話し相手は別のやつだった」
やつは言った。作家先生は、やつのように自分のキャラクタアを現世に呼び出して、ひっそり話すことができたらしい。それはやつ以外にもいる。
「おれは立ち会っていなくてな。何が起こったのか……」
やつは言葉を濁した。
「お前は、先生はなにか悪いものに取り憑かれて亡くなり、自分がいれば防げたと思っているのか」
やつはしばらく無言に落ち、首を振ってため息をついた。
「それはわからねえ。人の生き死にに怪異が全て関わっているわけじゃあねえ」
「そうだな。それは自然の摂理でもある」
私がそういうと、やつは頷いた。
「だが、おれがいれば……と思うことはあるのだ。先生はまだ若かった。おれは先生のおかげもあって、他の話し相手のやつらより、少し戦う力も強かったしな」
「守れなかったのはお前のせいではなかろう」
私はそういったが、大した慰めにならないのもわかっていた。
「まあしかし、その気持ちがあるから」
やつが顔を上げた。
「貴様が文句を言いながらも、私を不可思議なものから守っているのは知っている。……それには感謝している」
「ふん」
やつは鼻で笑ってふらっと立ち上がった。相変わらず体の右側が陽炎のようにゆらめいていた。それが夕陽にどこか幻想的で美しい。
「てめえにしちゃあ素直だな。おれも仕方ねえから、素直に受け取っておくぜ」
やつはそういうと不敵に笑ったものだった。
もう二度と。
やつは、作家先生のように、居場所である私を失うわけにはいかないのだろう。
それはやつの存在の確立のためでもあるが、それだけではなく。
やつの喪失への後悔と悲しみのために。
*
桜は血の赤からじわじわと黒くなりつつあった。
やつは彼女と対峙していた。
「まったく、惑わされやがって!」
やつは一言恨み言をいいながら、呼吸を整えた。怪異のやつは滅多に呼吸を乱したりしないが、今日は実体化を伴っていたからか、かなり息が上がっていた。
「ほんの少しの間、おれが離れた隙にお前を惑わすとは、こいつ、やはり力が強くなっている」
やつは前に進み出て私を背後にした。
「すまない」
「ふん、話は後だ。この場をなんとかしねえと」
やつは舌打ちした。
やつは帽子とインバネスを脱ぎ捨てた。中は白い着流しで、手にしていたステッキはすでに抜身の刀に変わっている。
『またお前か』
彼女ははっきりとやつに敵意を向けていた。
『どうして、邪魔をするの? もう少しだったのに』
「どうしてもこうしても」
やつは威嚇するように刀の切先を向けていた。
「こいつにはおれの方が先に目をつけているんだ。引き渡すと行き場のないおれが困る」
『笑わせないで』
彼女、春の骸が嘲笑う。
『お前がどうだというの。あたしはもっとずっと前から、もっとずっとその人を知っていたのよ』
その言葉に私はどきりとする。
「お前がこいつの相手役をつとめた藤の女なら、確かに出会ったのはおれより早いだろうよ。だが、それならおれとも顔見知りだな? お前はおれに付きまとう悪女を、演っていたのだから」
不意に桜の花弁がまとまり、わらわらとより集まる。
「来るぞ」
やつが首を動かさず、私にだけ聞こえるように小声で囁いた。
「あれが動いたら、さらに後ろに下がれ」
そして、やつは続けて春の骸に言った。
「それなら相応の挨拶というものがあるだろう?」
『あはははっ』
春の骸が笑い声を上げた。
『この『藤の女』のことならそうだろうさ。けれど、それなら、あたしゃあ、お前の女でもあるのよ』
春の骸はその美しいかんばせに、悪女らしい笑みを引き攣らせた。
『だとしたら、お前にはあたしは斬れないね。お前は冷酷だが、その実、情は深い。自分に情けをかける女は簡単に斬れないのさ』
「ふざけるな。てめえのようなアバズレなんぞ」
やつはそういったが、やつの声には多少の動揺があった。
『だったら容赦なく斬りつけると良い。冷徹なくせに、お前はいつも女に対して意気地がない。知っているのよ』
そう言った瞬間、女の手が動いた。桜吹雪がふくらみ、黒い渦となってやつに向かって放たれる。
「オオニワ、下がれ!」
やつはそう叫んで、自分に襲いかかる花びらを断ち切った。黒い花びらの渦が斜めに切り落とされるが、すぐにまとまって襲ってこようとする。
「ちッ!」
やつは舌打ちし、その花びらの渦をかわしていく。
『だいたいお前は間違っているわ』
春の骸の声は、彼女のものではあったが、その裏に多重の人の声が聞こえていた。
男の声も女の声も。どこかで聞いたような声も。
『私は『藤の女』、『お前の女』よりもっとずっと先に、そのひとを知っている! お前は後から来て、あたしのものを奪ったの!』
「なんだと?」
女はいっそ子供っぽい調子で言った。やつはその言葉に違和感を持ったようだったが、考える暇は与えられなかった。
黒い桜吹雪はやつを取り囲むようにして迫っていく。
「舐められたものだな」
やつは唇を歪ませた。
「おれが、てめえの事を本当に見えていないのだと思っているのか。おれをそのへんの雑魚と一緒くたにしねえでほしいものだな!」
やつは黒い桜吹雪の中に飛び込んだ。
見えていない側、やつの右側の頬が引き裂かれて、陽炎のような闇が吹き出したが、やつは躊躇いなく彼女の方に向かう。
彼女は厚い桜の花の渦で守られていた。それをやつにぶつけるつもりのようだ。
しかし、やつは彼女に斬りかかる直前で方向転換し、彼女のそばに立っていた木に切りつけていた。
きゃああぁあああ!
と女の叫びが響き、斬りつけてもいない彼女の着物の袂が引き裂かれた。それと同時に、桜の渦が散り散りになった。
彼女は後退した。
やつは切り落とした木の、不似合いなほど細い幹を足で小突く。
やつが斬った途端、それは手のひらで掴めそうなほど細く縮んでおり、切り口から黒い液体をこぼしていた。
「これがこの空間でのてめえの本体の一部だろう? てめえが桜なのだとしたら、どこかに根を張って空間を作ったにちげえねえからな。そうでもなきゃあ、こんな大掛かりなセットは維持できねえ」
『おのれ! 許さない!』
春の骸の顔が醜悪に歪む。
それが彼女の顔に見えて、私は辛くなった。
「もうやめてくれ!」
私は思わず割って入った。
「もう、やめなさい。私を恨んでくれても良い。しかし、それであなたが辛くなるのならそれは良くない事だ」
「オオニワ! こいつはお前の女じゃねえ! その影響を受けているだけだ!」
やつが叫んだ。
「わかっている! しかし見たくないのだ!」
私はそう答えた。
「そんな憎悪と悲しみに満ちた君の顔は! 悪女でもないのに望まぬ間に穢れた花を身に纏うあなたの姿は、たとえ、何者かがその姿を借りているとしても、——見たくない!」
春の骸がはっと顔を上げた。
そして、ふと恥いるように顔を押さえて駆け出していく。桜吹雪はまばらになり、空間に散り散りになっていく。
『ああ、もうここを維持できない!』
彼女は人の姿を崩していく。
そして、濃い霧もかつての家も溶けるようにして消えていく。
「根を張っていたものを斬ったからな」
やつが言った。
「あいつは大掛かりな空間を維持できなくなった」
その中で春の骸の声が聞こえた。
『まだ諦めないわ』
徐々にあの藤の女の声よりもあどけない少女のような声になっていく。
『だって、……約束したもの』
そんな声が聞こえるとともに、霧は完全に晴れ、私の視界は瞬きとともに突然現実のものに変わった。
じじじじじ、と蝉の声が聞こえた。クマゼミだろうか。
いつのまにか、私とやつは森の小道に立っていた。




