第十七話 濃霧
「ミスター・ヘイズ!」
オハラ夫妻に、そんなふうにやつが呼ばれているのをきいた。
流石に英語を解さない私も、ミスターのあとに名前が来るのはわかる。
役柄としての本名を名乗ることはあるまいが、だとしてもヘイズとは何だ?
そんなことを思いながら、内容のわからない会話をする彼らを横目で見ながら珈琲を啜った。
あとでやつに尋ねたところ、やつは私にそれがわかったのが少し気恥ずかしそうな顔をして苦笑したものだ。
「変名を使っているのだ」
「それはわかるが、ヘイズとは?」
「ヘイズはHAZE。靄、または霧という意味だ」
聞き慣れない英単語だが、やつは英語に堪能だ。なのでそうなのだろう。
「貴様には似合いの名前だが」
確かに、やつは本の中で煙のような男と形容されていた。実際、なんとなく捉えどころのないところのやつには似合いだった。
そう考えれば、ヘイズと名乗ること自体は、さほど不思議ではないのだが。
「それではサンデーとか言われていたのはなんだ?」
「ぶはっ!」
やつが思わず噴き出した。
「な、なんだ、てめえ! なぜ、聞き取れている?」
「ミスターは人の名前だとわかる。ミスターヘイズ、ミスターサンデーと呼ばれていたろう」
馬鹿にするな、とやつを睨むと、やつは苦笑して左手で頭をかきやった。
「サンデーではない。誰が日曜日だ。サンディ、Sandyだ。仮初の名だ。姓だけあっても変だろう」
やつはそういって、
「てめえだって、姓はなになに、名は何某などとやっておるではないか。あれは、おれは実はほとんど言ってねえんだぞ。お前が流行らせるから、おれもなにかと名乗らねえとならなくなって」
やつから変な苦情が入った。
「とにかく、サンディは本名に近い英語名だから採用した。……だが、あれはあだ名みたいなものだから、正式にはAlexander Haze。短くしてSandy Haze」
「アレクサンダー?」
少し得意なやつに私は思わずふきだした。
「てめえ、何がおかしい!」
やつが怒り出したが、私は特に悪びれず。
「あまりにも大仰な名前ではないか?」
「うるせえ。大丹羽なんて芸名のお前に言われても説得力がねえ」
「しかし、アレクサンドロス大王から取るとは、いくらなんでも少し……」
「元々の名前だってまあまあ大仰なんだよ! それくらいの名前で釣り合いが取れるのだ!」
やつはややムキになってそういって、ちょっと不機嫌になってしまった。
少しからかいすぎたかと思いつつ、私はもう一つ気になっていたことを尋ねた。
「しかし、英語名だけきめても困るだろう。日本語名はどうする?」
「そりゃあ考え中だ。禎子の付き人に名乗らなければならねえこともあるだろう。時々で別の変名を名乗ってもよいが、基礎となるものはそろそろ決めておかねえとな」
それなりのやつを。と、やつはこたえた。
「姓は決めているぜ。Hazeと名乗ったのもそれのもじりだからな」
「なんと決めたのだ?」
と、やつは少しだけ気恥ずかしそうな顔に戻りつつ俯いて、
「ハセガワ」
と答えた。
ハセガワは作家先生の本名だ。私はすぐに合点がいった。
「先生が亜米利加を放浪していた頃、ハセガワでは呼びにくいだろうってことで、『ヘイズ』と名乗っていた。HASEだからな。俺も、それにならってヘイズと名乗ることにした。オハラ夫妻も、その方が呼びやすいだろうと思ってな」
やつは作家先生のこどもではある。その名前を名乗りたくなっても不思議ではない。
「先生は、William Haseとか、Billy Haseと名乗っていたらしいのだが、格好良いだろう? 謎の東洋人感があって」
やつが先生を慕っているのはよくわかった。こどもは親を慕うものだ。それはやつのような造られた存在にとってもそうなのだろうか。
「名前の方は決めてはいねえが、おいおいそれなりの名前を考えるぜ」
「そうか。では、決まったら不審ではないか、審査してやろう」
「てめえは、おれに何か偏見があるだろう?」
やつは私の皮肉に不満そうだった。
Haze。
霧、靄、霞。
漠然として掴めないもの。
作家先生は、やつのことを「煙のような男」と書いた。
しかし、もしかすると、先生自身もまた、靄や霧のような人だったのかもしれない。
精力的に仕事をし、熱情をはらんだ行動力の人だったが、その実、はかなさも持ち合わせていたのかもしれない。
実際、先生はあまりにも若く、その煌びやかな生涯を終えてしまった。
先生に生み出され、想像上の存在から先生の身近に侍る怪異となったやつは、流行におされて多くの人々から認識されたせいで、きっと先生をつかみ損ねて、一緒に逝けなかったのだ。
だから、流れ流れて、私を頼る他はなかった。
やつは先生を失った痛みを抱えて生きている。
私はそれに対して、責任を感じないわけではないのだ。
*
いつのまにか靄は深い霧となっていた。
私は、それでも操られるように道を進んでいく。
霧の向こうの薄い影があった。それは、かつて私が彼女と暮らしていた家の面影を映し出している。
近くの藤棚から藤の香りが漂う。この季節に藤が咲くはずないのに。
それなのに、私の視界には垂れ下がる紫の花が優しく揺れているのが見える。
道ゆくものは誰もおらず、人寂しい道が続いている。本来の家よりもずっと寂しい道だった。
彼女が、こんなところにいるはずはない。
私はそう確信した。
彼女にも彼女の人生がある。私とはもう交わることはないだろう。
だから私は、意識して彼女のことを思い出さないようにしてきた。
私も今では妻帯者である。
よくできた妻がいて、かわいらしい子どもたちにも恵まれた。
この世に対する悲観的な考えは、私の心から消え去ってはいないが、それでも、家庭生活そのものは幸福だった。
二度と道の交わらない私が、今さら彼女にしてやれることなど何もない。
彼女もまた、私を軽蔑し、ことによると恨んでいるかもしれない。
今さら私に情けをかけられることなど、彼女の誇りを傷つけるだけかもしれない。
だから、私は、もうここには来ることはないと——。
それでも、濃い霧の向こうに、あの家が現れると、私の心はかつてのものに戻ってしまいそうだった。
玄関先には、彼女が立っている。
一人だけ雇っていた口のかたい世話係の老婆に、彼女は何かを伝えていた。
夕飯の支度をたのむ、いつもの動作。
「ああ……」
私は思わず声を漏らし、その姿へ駆け寄ろうとしてしまう。
ダメだ。こんなところに彼女がいるはずがない。
私はそう確信しているのに。
その時、彼女が私に気づいた。
それは、かつて私と暮らしていた時の美しく、それでいてすこしあどけない、若い彼女の姿だった。
「お帰りなさい、勇さん」
彼女は穏やかに微笑んだ。
その周囲には、桜の花びらが舞い始めていた。
壊れた春の象徴である桜が、静かに彼女を包み込んでいる。
――そうだ。
これが、春の骸なのだ。
私は、その瞬間に確信した。
もし春の骸が、私の後悔に取り憑いた怪異なのだとしたら、私が幸せにできず、あまつさえ周囲の反対で手放した彼女への恋情を、含んでいないわけがない。
だからこそ、峯岸禎子に「女の人の気配がする」と言われた時、私はあれほど激しく動揺したのだ。
「どうなさったの、勇さん」
彼女は、あの頃と少しも変わらぬ美しさで私を見つめた。
「早くこちらへいらっしゃい」
優しく手を差し伸べる。
「今度は幸せな暮らしをしましょう。今度こそ、ここで」
彼女は、優しく微笑んだ。
「もうすぐお夕飯ですからね」
「……違う」
私は思わずつぶやいた。
「君が、もうそんなことを言うはずがない」
「どうして?」
彼女の瞳が、かすかに悲しげに揺れる。
「あれから、もう何年も経っている」
私はゆっくりと首を振った。
「私は、君がここにいないことを知っているんだ!」
「そう。もうそんなにも時が経っているのね。けれど、関係ないではないの」
彼女の声はどこまでも優しかった。彼女がこちらに一、二歩歩み寄る。
「それに、たとえ、それが幻だとしても」
彼女は言った。
「やりなおせるなら、良いのではないの?」
その言葉とともに、桜吹雪はさらに激しく渦を巻き始めた。
「何も問題はないわ。幸せになれるのだからね」
だめだ、いけない。
そう考えながらも、彼女の優しく美しい顔と言葉が私の理性を失わせる。私はあの頃の私に戻っていく。
よろめくように進む私の目の前に、藤棚が現れる。
私がやつを演じていた時、彼女はやつの藤の女だった。
運命の悪女、ファム・ファタル。
美しい娘に惚れたやつに一方的に惚れ込んで、けれどその心を得られず全て思い通りにならないならと、破滅に引き摺り込む悪い女。
私はあの時、彼女を愛していた。
彼女にのめり込むことは、いずれ彼女の望みを叶えられない私の心の破綻を意味していると知りながら。
そう、私はあの時に彼女を心から——。
「勇さん、早くいらっしゃい。ああ、またお怪我をして。貴方はすぐに無理をするんですからね」
彼女はそういって私を誘う。
「お夕飯の前に膏薬を塗ってあげましょう。早くいらっしゃい」
生暖かい春の空気が私を包んだ。私の周りに散り始めた桜の花は、白よりは少し紅く、しかし、まだ黒ずんではいない。
ただ、血のような赤を一筋滲ませて……。
しかし、それが私の身の破滅になるとしても、その香りは抗い難いほど芳しい。
その時。
「そこまでだ! 止まれ!」
そう声が聞こえ、私の肩を掴む者がいた。
人とは思えぬ、血の通わぬ虚ろな気配。
しかし、その手は思いの外、力が強い。私の足を引き止めるほど。
「それ以上はてめえの好きなようにさせねえ」
その声はやつだった。
振り返らなくてもわかる。
いつのまにか、やつが立っていた。
やつは珍しく息せき切っていた。走ってここまできたのだろう。
やつは、春の骸を殺意のこもった目で睨みつけていた。
「おれはもう二度と、依代をてめえらに奪われる気はねえんだ」




