第十六話 秘密基地
子供の頃には、誰も知らない自分だけの部屋を持つことが憧れだった。
というのも、基本的にはその頃の子供には、個室などあろうはずもなく、家族がたくさんいる中、一人になれる場所も基本的にはなかった。
誰も知らないひとりだけの秘密の場所。
秘密基地の建設は、いつの世も子供の憧れで、当然、私も小さな岩屋や打ち捨てられた小屋などにこっそり自分の住処を作ったことがある。
その経験や気持ちは、今も私をあの別荘の建設に駆り立てたのかもしれない。
*
「オオニワさんのお宅って、女人禁制なのですよね」
そんな無邪気なことを、峯岸禎子に聞かれたのは、純喫茶オリオンでのことだ。
「イコちゃん、お宅というのは、私の本宅ではなく、別荘のことですか?」
「そうですよ」
面食らった私に、当たり前のことを何だ、とばかりの禎子だ。
「オオニワさんの別荘って、道場があるでしょう? 女の人は入れなくて、修行ばっかりしてるって聞いたんで、本当なのかなって」
隣で、やつが忍び笑いをしていた。
私はやつを小突きたい衝動に駆られたが、禎子への返答を優先した。
「いえ」
私は慌てて手を振る。
「そこまで厳密なものではありません。ただ、今は確かに女性を招いていないので、そういうふうには言われていますね」
「じゃあ、私はあの別荘には呼んでもらえないのかなあ。残念だわ」
「いや、イコちゃんなら」
私は慌てて口を開いた。
「まだ女性のうちには入りませんから、いらっしゃっても大丈夫ですよ」
「おい、オオニワ」
やつが、すぐさま横から口を挟んだ。
「それは失礼ってもんじゃあねえか」
普段はどちらかというと鈍い方のやつが、妙なところだけ気を回して私をたしなめる。
「本当ですよ」
禎子も口を尖らせつつ、
「殿様の言うとおりです。大庭さんったら、本当に女心がわかってないんですから」
「いや、その……」
二人に攻められる形になり、私は慌てて言い直した。
「イコちゃんは、まだお若いですから」
しかし、言えば言うほど言い訳がましくなりそうだ。
「早く大人の女性になることだけが、良いというわけではありませんし」
完全に変な言い訳になってしまった。
禎子は、そんな私をじっと睨むように見つめていたが、やがて堪えきれなくなったように、くすくすと笑い始めた。
「あははっ、オオニワさんはすぐに本気に取るんですからね。そういうことなら、今度、何かの時には呼んでくださいね?」
禎子は小悪魔のように悪戯っぽい目を、私にむけていた。
純喫茶オリオンは今日は客もまばらで、普段よりさらにゆったりとした空気が流れていた。
禎子は、お気に入りのプリンとコーヒーを前に「仕事の合間にプリンが食べられるなんて幸せ」と笑っていたものだ。
私たちは、この間、この喫茶の常連客のオハラ夫妻から聞いた話を禎子に伝えていたところだった。
ついでにやつはエレノア・オハラ夫人から貰い受けた花金鳳花の押し花をやつなりに懐紙に丁寧に包んで、禎子に差し出したものだ。
「まあ、殿様ってこういう気遣いもできる方なのね。素敵な贈り物、ありがとう」
禎子は社交辞令でなく喜んでいるらしい。というのも、押し花を作って装飾したエレノア夫人の腕が良いからなのだが。
そう言われると、やつはすっかり舞い上がってしまった。
「いや……何も思いつかねえから、こんな貰い物なんだが」
照れてしまって、やつは頭をかいた。
「花束はもらいなれているだろうから」
「ええ。もちろん花束も嬉しいけれど、こういうのも素敵。それにしおりにしてくれているもの」
禎子は嬉しそうに押し花を眺めた。
「仕事でホンをよく読みますからね。とても役に立つわ」
そして、やつへ笑いかけた。
「ありがとう、殿様」
やつときたら、天にも昇るような顔である。この男、実は非常にわかりやすいのだ。
私が呆れたような目を向けると、やつはそんな視線には気づかないふりをして、どこ吹く風といった顔でそっぽを向いていた。
「でも、その仁和寺の桜って、私も見たことありますけれど。そんなに怪しい桜なんてありましたか?」
禎子は首をかしげた。
「それが、よくわからないのですよ」
私は苦笑する。
「仁和寺は私の住まいからも比較的近いので、気軽に立ち寄れる場所ではあるのですが……。春先に、あそこで花見をしたという記憶はあるのです。ただ、それ以上のことは何も」
「殿様は?」
禎子はやつを見上げた。
「おれは、その花見にはついていかなかったからな。仁和寺の桜は、物見遊山で見に行ったことはあるぜ。特に何も怪しくは感じなかったな」
「うーん」
禎子は無邪気に考え込んだ。
「そのオハラ夫妻から話を聞いてから、オオニワさんは仁和寺に行ってみました?」
「いや。仕事があって、まだ行けてはいません。そろそろ梅雨明けでしょう。最近は晴れの日も続いていますから、仕事が立て込んできていて」
「とはいえ、やっぱり、現地を見てみるのが良いかもしれませんね」
禎子は、珈琲カップを置いた。
「今は桜は咲いていないけれど、問題になった木を探すくらいはできるかもしれませんもの」
私は頷いた。
「ええ。私も、それは考えていたところなのです。今度、仕事が空いた時にでも」
「その時は、時間が合えば私も同行して良いかしら?」
禎子がそう申し出て来た。
「オオニワさんや殿様は、なんといっても殿方ですからね。男の人と私は見るところが違いますから、何かお役に立てるかも」
「それはごもっともだな」
やつはその意見を認めつつ、
「おれとオオニワは、気が利かねえからな。どうもそんなふうに繊細に見るというのが苦手だ。禎子について来てもらうのが良いことだろう」
「それじゃあ、決まりね」
禎子はにっこりと微笑んだ。
「仁和寺なら、映画のロケの下見だとか資料だとか、そういう理由で行くことができそう。うちの付き人にも日程の空きがあるか確かめますね」
そうして禎子は、残っていたプリンを最後の一口までおいしそうに食べながら。
「それにしても」
禎子は思い出したように言った。
「女人禁制の秘密の庭園なんて」
禎子は笑った。
「オオニワさんの別荘って、まるで大人の秘密基地みたいですよね」
そう言われると否定できない。
少年の頃の気持ちのまま、私は、自分の趣味の秘密基地を大枚叩いて作った男ではあるのだろう。
*
喫茶オリオンから禎子と別れようとした時、不意に向こうの道の角に人影をみつけた。それは私が目を向けてすぐささっと姿を隠した。
その時、禎子が顔をこわばらせて、やつのインバネスの陰に隠れた。
「どうした?」
やつが禎子にきくと、彼女は小声で言った。
「最近、尾行されてるんです。知らない男の人。多分ファンの人かしら」
禎子は気丈にいったが、その顔は少し青ざめていた。
「お前ほどの娘なら、過激で変なフアンもいるだろうからな」
「イコちゃん、大丈夫ですか?」
この日は禎子の付き人は、途中でオリオンを退席していた。急用が入ったとのことで、近くの別の純喫茶で打ち合わせをしているはずだった。
「送って差し上げましょうか」
「けれど、オオニワさんについて来てもらうのは悪いわ」
禎子はそう遠慮した。
そして私も考える。私とでは醜聞にもなりはしないだろうけれど、今をときめく少女スタアの禎子が、短時間とはいえ、私と私用で外を歩くのはよくはなさそうだ。
禎子の付き人のいる喫茶店に向かうには大通りを通り、人目につきすぎる。
「心配いりません。こやつに送らせます」
そういうと、やつは一瞬ムッとした様子になる。
「禎子を送っていくのはやぶさかではねえが、てめえに言われるのは何だかなあ」
「要らぬことをいうではない」
私はそう嗜めるが、やつも禎子のことは好きなのでその仕事を断るわけはなかった。
「まあ良いだろう。用心棒代わりにはなるだろうからな」
やつはそう認めたが、
「しかし、禎子。おれは実体を保ってはいるが、今のおれの力では、人間に対して物理的な力での干渉は無理だ。物理的——つまり、殴るなどの攻撃を含むことだ。軽く押すなどはできると思うが、相手を制圧することはできねえだろう。だからいざ相手が襲いかかってくるようなら、逃げるんだぜ」
やつはそう注意を促した。
「はい。大丈夫だと思います」
禎子は答えて、
「殿様がそばにいるだけで、近寄ってこないと思いますよ」
「それなら良いが。あああと、オオニワ」
やつは私にも注意をしてきた。
「禎子を送ったらすぐに戻るが、てめえは大きな通りから外れて歩くなよ。春の骸は人目の少ないところを狙うからな」
*
秘密基地か。
私は思いを馳せていた。
確かに私はあの庭付きの別荘という秘密基地を持っている。
しかし、もっと前、私はもう一つ、秘密の基地を持っていた。
やつに禎子を送らせて、私は帰路についていた。今日は本宅に帰る予定だった。
純喫茶オリオンは、撮影所の付近にある。そこを歩きながら、私はふと思い出していた。
撮影所の近くに、私は若い頃、小さな秘密の家を持っていた。
今の別荘のように豪華でも広くもなかったが、人目につきにくい静かな場所に建つ、ひっそりとした家だった。
そこで、私は『彼女』とひととき住んでいたのだ。
私たちの交際は周囲には秘密だった。その秘密基地でしか、私たちは恋人として会えなかった。
いや、正確には、作品の中でも恋人だったろうか。
私と彼女は——恋人の役をしてきたのだから。
だからその悲劇的な役に同化して、我々の恋情は燃え上がった。
私は、いつの間にか、かつて自分が住んでいた家の近くまで来ていることに気づいた。
無意識に足を向けていたのだろうか、それとも。そんなことを考える暇もなく、私は何かに誘われるように、その道へ足を向けていた。
大通りから外れ、人の目が少なくなる。
やつに止められていたことを頭の隅で認識するが、それはかき消えてしまった。
藪の中。人目を避けた一軒家。
雨上がりの道は、霧が立ち込めはじめていた。
家の近くに藤棚があって、その辺りを通って家に向かうはずだった。その花の香りがするようだ。
『おかえりなさい、イサムさん』
懐かしい声が耳によみがえる。
『今日はお帰りが早かったんですね』
『あなたもずいぶん早かったじゃないですか』
『はい』
彼女は嬉しそうに笑った。
『今日は私の出番、もうなかったんですもの。でもイサムさんは立ち回りだったんでしょう? あちこちお怪我をなさってるから、すぐわかるわ』
彼女は優しくいった。
『膏薬を貼ってあげますから、早くお上がりなさい』
何故だ。
今日は、ひどく彼女のことを思い出す。
記憶の蓋が開いてしまったかのように。
彼女との思い出の場所が近いからなのだろうか。
私は無意識のうちに、そちらへ歩いてしまう。
そう。
これまでは意識して避けてきた、心の傷をえぐるような、あの場所。
私と彼女の秘密基地。




