第十五話 ラナンキュラス
あるとき、珍しい花を玄関に飾っていた。
「それはなんの花だ」
あら、と美しい女が微笑んでいった。
「これはね、花金鳳花というものなんですよ」
それは八重咲きの小ぶりな花だった。
「ほう。金鳳花にしては珍しい」
「外国から入ってきたものなんですって」
女はあだっぽく、あまりにも綺麗で艶かしかった。彼女が私のそばにいるということ自体が、まるでこの世の出来事ではないような気がした。
彼女はまだ若かった。遅咲きの私よりも随分年下で、けれど、不思議と大人びていて色気があって年齢不詳の美しさがあった。
まだ二十歳にもならない彼女が拳銃を振り回して悪女を演じるのに、観客たちは魅了されていた。そして、それは私も——。
ファム・ファタルという言葉があるが、あれが姿を取ったらこんな女になるのかもしれない。
彼女は、私にとっては藤の似合う女だった。それはやつを演じた時の彼女の役の名前がそうだったからだった。
彼女はやつのファム・ファタル……運命の女を演じていたから。本来は他の少女に強く惹かれていた筈のやつを逃すことなく捉えようとする、悲劇の悪女。
度胸があって優しく、時に烈火のように激しい。かつて演劇で見たヨカナーンに対するサロメのように激しく美しい女。
しかし、サロメの恋が叶うことはない。藤の女の恋がそうだったように。
そして、本当は悪女ではない彼女も、サロメを演じているうちに周りからそう見られていく。
やがて、それが彼女を本物のファム・ファタルのようにしてしまう。
私は、彼女を愛していた。
しかし、それは土台、結ばれるはずもないものだった。
*
喫茶オリオンで、やつは外国人夫妻となにやら雑談をしていた。
今日は禎子の姿は見えず、私とやつは例によって珈琲を楽しんでいたが、そのうち、あの外国人の夫妻がやってきて、やつに挨拶をした。
やつは何を思ったのか、少し長めに雑談を交わしている。
「よう、オオニワ」
やつが不意に声をかけてきた。
「こちらの夫妻がお前に挨拶したいと」
さては、私の正体がバレたのだろうか。まあそれならそれで、対応はするのだが、人付き合いの億劫な私は、こういうところで芸能人として振る舞うことが苦手だ。
と思っていると、やつが言った。
「こちらは、パトリック・オハラ氏。亜米利加の映写機械の商社に勤めている。こちらは奥方のエレノア女史」
軽く二人が会釈した。
「おはら?」
日本人名に聞こえて思わず反芻すると、やつが笑った。
「小原じゃあねえぞ。Oharaだ、オハラ。愛蘭系亜米利加人でな、結構多い名前なのだ」
そこでやつはさっと私に耳打ちした。
「この二人はお前が大丹羽勇次郎だと大体気づいている。パトリックは映写技師ではないが、トーキーの機械の搬入に関連して立ち会ったりしていて、お前は知らねえだろうが現場で会っているんだ。しかし、今はお前がprivateな時間だとわかっていて、干渉するつもりはねえ。そんな奇特な御仁だから、そこのところは安心していいぞ」
ぷらいべえと、という言葉の意味がよくわからなかったが、とりあえず、過剰にサービスする必要はないということだろうか。
しかし、それなら何故自己紹介を?
と思っていると、やつが言った。
「奥さんの方が植物に詳しいんだよ。さっき、奥方に趣味の押し花を見せてもらってな。奥方は桜の標本も持っていた。よく考えると、ひとくちに桜といえどいろんな種類があるだろうが。てめえの見えている桜の花の正体を、ここで聞いておく方が良いのじゃあねえかと」
「なるほど」
それは思い至らなかった。
怪異なのだから、桜の種類などどうでも良いと思っていたが、確かに桜にも種類はたくさんある。山桜に染井吉野、枝垂桜に八重桜。
「種類が判明すれば、てめえがどこであれを拾ってきたかの判明がしやすい。対処方法がわかるかもしれねえぞ。それに下手な日本人の専門家にきくより、外国人の方が気軽に相談しやすいだろう。この際話してみたらどうだ」
なるほど、やつも考えてはいるらしい。
確かに、相手は外国人だから気軽に話せるかもしれない。
日本人に同じ相談をすると、まずもって正体がバレ、やれ、大丹羽勇次郎が奇行を……などと騒がれかねないが、仮に不審がられても外国人の彼らなら噂の広がりは限定的だろう。
私はその案に乗ることにして、やつの通訳の元、本名の大庭勇で彼らに挨拶をした。とはいえ、彼らも私の正体には気づいているだろうし、演劇好きということだから、何かの時にサイン入りのブロマイドを配ってお礼をしておこう。
エレノア夫人は帳面を持っていたが、それが押し花帳のようだ。今日は折よく園芸好きの友人宅を訪れた帰りで、その押し花帳を複数持参していた。
どうやら、やつにその中の植物の和名を尋ねたらしく、やつが押し花帳に気づいたものらしい。
やつの通訳で聞いたところ、エレノア夫人は、植物学の勉強をしたことがあり、学者ではないがかなり詳しいということだった。
『サクラの標本なら、いくつかありますわ』
やつの通訳を交えて、我々は話をしていた。
やつは、エレノア夫人をマダムと呼び、紳士的に話をしているようだ。どうやら、私が桜の夢に悩まされている、と説明をしたものらしい。そして、その夢の解き明かしをしたいので、桜の種類を突き止めてくれないか、と。
無難な落とし所ではある。
『あなたの夢の桜はどれかしら』
エレノア夫人はそういって、私に桜の標本を見せた。
しかし、その違いというものは、思っていた以上に微細なものだ。特に私は、舞い散る花弁しか見ていない。ごくまれ、一度だけ花そのものをみたが、それも一瞬。その程度しか見ていないので、そこから推測するのはなかなか難しい。
「花弁に切れ込みが入っていたような気がするな」
私がつぶやくと、やつが帳面を覗き込んだ。
「ああ、そうだな。確かに切れ込みはある」
そう言うと、やつはその内容を英語でオハラ夫妻に伝えた。
『それでしたら、ウメやモモでなく、やはりサクラですわね』
エレノア夫人は頷いた。
私は少し自信がなくなっていった。
「こんな不確かなことにお付き合いいただくのは、なんだか申し訳ない」
そうやつを通して伝えると、エレノア夫人は首を振って微笑んだ。
『そんなことありませんわ。そのサクラの花は、確かに存在しないものかもしれませんが、どこかに本当にある可能性もありますでしょう。本当にあるのだとしたら、調べてみるのはロマンチックではありませんこと?』
エレノア夫人は、上品で知的な顔をイタズラっぽく綻ばせた。夫のパトリック氏もそれに頷く。
『ちょうど我々も雨続きで暇をしていて、気が滅入っているのです。あなたの謎解きに付き合わせていただけませんか』
そういわれると私も断る理由はない。
自信はないながら、やつと押し花の標本を眺めた。
エレノア夫人は日本に来てこの春から日本の花の押し花作りを始めていたというが、なかなかの大作だった。桜の標本も充実していて、婦人の趣味の押し花というより、ちょっとした植物学者の収集品の気配を見せていた。
「しかし、桜ってのも、一口に言ってもずいぶん種類があるもんだな」
やつはそれを眺めながら感心したようにつぶやく。
「まず、桜なのは間違いない。しかし、染井吉野じゃあなさそうな気がしてきたな」
「そうか」
私はやつの呟きを気にして、染井吉野の標本を見た。白にちかい薄い紅の花びら、桜らしい桜。
しかし、あの春の骸のもたらす花には、確かにもう少し厚みがあった。
「一重でなく八重桜……?」
私はつぶやいた。
「いや、そんなはずはないか」
「そうでもねえ。確かにおれも五枚の花弁より大きな花も見かけた気がするが、八重桜ほどもったりしていなかったぞ」
私の呟きにやつはそう反応する。
と夫人がやつに何か言った。
「夫人はなんと?」
「お前がこの春、どこに花見に出かけたのか尋ねている」
「どこに?」
やつに通訳され、私は唸った。
私は春には何度か花見に行った。仕事の付き合いで、そういう席に出ることも多いのだ。ロケ地にも桜は咲いていた。
そう言われると、桜の名所を片手の指では余るほど回っている。
「この標本には採取した場所の名前も書いているのだとさ。これは吉野の桜」
やつがそういって筆記体のアルファベットを指でなぞった。
と、押し花帳をめくっていると、一つ、私の目を引く名前があった。
NINNAJI。
「仁和寺?」
私はぽつりとつぶやいた。
「どうした?」
「そういえば、今年、遅くに、仕事関連で仁和寺に花見に行った記憶がある。仁和寺の御室桜だな」
「そうなのか」
やつは、その標本をまじまじと見た。
「桜の形は、これで合ってるか?」
「大きくは違わないと思うが……」
と、エレノア夫人が話しかけてきた。やつが聞き取って何かやりとりする。
「何と?」
「これは御室有明という種類の桜だ。仁和寺の桜だが、一重と八重の花が混ざって咲くのだといっている」
「一重と八重が混ざる」
「確かに、春の骸の花は、軽そうなのも重そうなのもあったな」
やつが頬を撫でながら思い出していた。
「断定はできねえが、矛盾はあまりない」
ふむ、と私は唸った。
「しかし、ありえるのか。あのような神聖な場所に咲く桜が、怪異になるなど。山奥の桜ならまだわからぬでもないが」
「オオニワ」
やつは私の言葉を止めて、
「前からも言っているが、あれは、春の柔らかで美しい思い出が、夏を迎え爛熟したものだ。そして、悪意や敵意の内側の正体はわからねえ。もともとは、清浄なものの可能性も捨てきれねえ」
やつは低い声で続けた。
「何かのきっかけで、腐敗したものを巻き込んじまった可能性だってある」
「何かのきっかけで?」
その言葉を聞いて、私はあることを思い出した。
かつて、私は一人の女性と暮らしたことがあった。
彼女は一途で可愛らしい女だったが、その外見は美しく、そして艶かしかった。
彼女が演じる悪女の役柄は、人々に彼女自身そのものにも鉄火な印象を与えた。
私と彼女の関係は、特に私の家のものからは歓迎されなかった。
もともと私の家は、田舎ではそれなりの家柄だった。零落したとはいえ、田舎であるからこそ世間体にはうるさかった。
だから、彼女が私の家族に反対されず、受け入れられる素地はなかった。私と彼女の関係は、初めから破滅の気配を帯びたものだった。
あの日の花金鳳花は、彼女がフアンから貰ったものらしい。
もう桜の季節もとうに終わった頃だったが、彼女は嬉しそうにその花を飾り、私は彼女と並んで眺めたことがある。
彼女には、そうした素朴な優しさもあった。そう藤のような美しさが。
しかし、美しい悪女の印象は彼女をそういうふうに作るものでもあった。
私と彼女の関係は、あっけなく破綻を迎え、それは私の醜聞となり雑誌を騒がせた。
彼女がどうしているか、私は知らない。
世間で作られた艶かしい悪女のように生活しているという噂も聞いたが、真実は知らない。
ただ、私の彼女に対しての愛情も、今となっては後悔と罪悪感に満ちたものになってしまった。
春の骸もまた、そうした、元は神聖で美しかったものの成れの果てなのだろうか。
そして、春の骸は、私のこの過去の傷に、気づいていないはずもない。
だとしたら——。
「……おい」
やつの声に、私は我に返った。
「どうした、ぼんやりして」
「いや、なんでもない」
私はこの場での説明を諦めて、首を振った。
「しかし、仁和寺の御室桜、御室有明か。……少し気になるな」
「ああ。そうだな」
私はそれに同意した。
「しかし、当時、印象に残ることはあまりなかった」
少なくとも仁和寺に行った記憶はあるが、仕事の接待もあって忙しく、桜を愛でる余裕もあまりなかった気がする。
「一度現地に行ってみても良いかもしれん」
それもそうだ、と私は思った。
何かを見落としているかもしれない。
と、その時、エレノア夫人が微笑んで何か声をかけてきた。
夫人は別の押し花帳から、なにやら綺麗に飾られたものを差し出してきた。それには装飾がしてあり、他の標本めいた押し花とは感じが違った。しおりのような大きさのものもある。
「ああ、マダム。これはどうも」
やつが慌ててそれを受け取る。慌てたのか日本語で礼を言っていた。
「なんだそれは?」
私がそれを覗き込むと、それは花金鳳花の押し花だった。
ラナンキュラス、とエレノア夫人が言ったのが聞き取れた。
「なんだそれは? 夫人からいただいたようだが、無骨な貴様にそういうものを集める趣味はなかったはず」
「う、うるせえなあ。時には花を愛でてえ気持ちもわくことがあらぁな」
やつの挙動が少し不審だ。と、私はあることを思い出した。
そういえば、ここのところ、やつは峯岸禎子への贈り物を考えていたのだ。
「なるほど。オハラ夫妻の持っていた押し花にやけに興味があると思ったが、禎子への貢物か?」
「い、いいだろう? 花でも渡そうと思って、詳しそうな夫人に話を聞いていたら、押し花の話になったんだよ。これを渡すのはどうですか、とな」
結果的に桜の話もきけたのだから、良かったろう。やつはそう嘯いたが。
「この花金鳳花、ラナンキュラスとかいうやつはもう時期が過ぎちまっている。しかし、押し花なら今でも渡せる。禎子はスタアだから花束なんて渡され慣れてるだろうから、変わり種も良いかなと思ったのだ」
やつが少し照れたのかほんのり赤くなっていた。
「これは外国のものだからな。本邦の花とは趣も違って良いんだよ」
まったく。
妙に熱心に話していると思ったら。
私は肩をすくめたが、仁和寺の桜のことを突き止められたのは、確かにやつの手柄だ。
今日のところは、大目に見ようと、私は思った。




