第十四話 卵
卵は今でも貴重なものだが、私が子供の頃はなおさらだった。
もっとも、私は北九州の田舎育ちだから、周りに鶏を飼っている家も多く、都会に比べれば卵を口にする機会は多かったように思う。
基本的には卵は収入源として売られるものだったから、毎日食べられるようなものではないが、田舎の悪餓鬼にはよくあることで、鶏小屋から産みたての卵を一つ失敬することは珍しくもない話だ。
こっそり持ち帰り、お椀の上で割って食べる。もちろん、そのまま、歯で穴を開けてその場で飲み下すこともあるのだが。
卵というのは割らないと、中身が新しいかわからない。何が入っているかわからないのだ。
ぱかりと殻が割れて、お椀の中に透明なとろりとした白身と、つややかな黄身がゆっくりと滑り出す。
それだけで美しいものだと私は思った。
しかし、やはり、卵というものは不思議なものである。
本当に割ってみるまで、中に何が入っているのかわからない。
孵りかけの雛がいるかもしれないし、腐ってしまっていることもある。割ってみるまでそんな不安が付きまとう。
外見だけでは、中身が決してわからない。
身近なようでいて、どこか神秘的な存在――それが卵というものだ。
*
「オオニワさん、これ、おすそ分けですよ」
仕事場で禎子とすれ違った時だ。
そう言って禎子は、箱に入った卵を差し出したものだった。
「良いところでオオニワさんにあったわ」
禎子は戸惑う私にニコニコしつつ、
「たくさん卵をいただいちゃって。でも、私のところでは食べきれないくらいでね。だから、オオニワさんにもおすそ分けしようかなって」
「それはありがとう、イコちゃん」
私は礼を言って受け取る。
「マサさんと殿様にもわけてあげてくれないかしら」
「マサはともかく……、やつに?」
私が思わず眉根をひそめるのをなんととってか、禎子は面白そうに笑う。
「なんていうか、殿様って顔色が悪いでしょう? ちゃんと栄養を取ってるのかなあって、心配になっちゃって」
禎子はまばたきして、大きな目を私に向けた。
「あの人が卵を食べるかどうかはわからないのですけどもね。でも、この間もプリン、食べてたでしょう? だったら卵くらい食べるかなって」
「はは、確かに」
確かに積極的に食わせたことはない気がするが、卵くらいは食うだろう。
やつはニンゲンではないから、食事は必要ではないが、食えることは食えるのだ。
あれがどういう仕組みか知らないが、食事もそれなりに楽しむだろうから、栄養にもなるのだろう。
禎子を呼ぶ付き人の声が聞こえた。
「あら、もう仕事行かなきゃ。それじゃあ、殿様にもよろしくお伝えくださいね」
禎子は、慌ただしく次の仕事へ戻っていった。
*
「……で、これがイコちゃんがおれにくれた卵ってわけか」
やつは上機嫌だった。
(なにが『おれに』だ)
やつがちょっとそこだけ強めに発音したのを私は聞き逃していない。
まあ、しかし、無理もないかもしれない。
あんな美少女に気に掛けられて、喜ばない男はあまりいない。
「あの娘、心優しいな。おれにまで気を遣ってくれるとは」
やつが機嫌を良くするのも無理はないが、なんとなく腹が立つ。
「卵は滋養になるというからな。お前はいつ見ても顔色が悪いから、心配だと言っていた」
「おれの場合は、そういう設定だからな」
やつは苦笑した。
「もともとそういう顔色なんだから、これ以上良くなりようもねえんだが……。まあ、こういう滋養のあるものを食べるのは、おれにとっても悪くねえ。ありがたくいただくことにしよう」
「そうなのか」
私が尋ねると、やつは肩をすくめた。
「近頃は、お前にくっついて行くこともあるから、実体を保ってるだろう? あれはおれにとっても、負担がねえわけじゃあねえからな」
「そうなのか?」
「当たり前だ」
やつは笑った。
「できることなら、人に見えねえままの方がずっと楽だ。あれは気合いがいるんだぞ」
やつはそう言うと、尖った犬歯で卵に小さな穴を開けた。そして、中身をずるりと飲み干した。
その風貌や鋭い目つきも相まって、卵を丸呑みにする蛇の姿が思い出される。
しかし、別におぞましいとは思わない。
やつはこの間のように、時折、怪異を貪り食っているので、卵程度ならまったく平和なものである。
そんなことを考えている私も随分毒されてきたな、と思ってしまった。
やつは卵を一息に飲んでしまうと、思い出したように尋ねてきた。
「ところで最近は、春の骸のやつは何か接触してきてるか?」
やつは空になった卵の殻を、まだ名残惜しそうに指先で転がしている。
「いや」
私は首を振る。
「ここ数日、姿を見ていない。気配もない気がする」
「そうか」
「このまま、おとなしくしていてくれるといいのだが」
私がそうつぶやくと、やつは首を横に振った。
「そんなわけはねえだろう。これからはあれの季節だぞ」
その声音は妙に真剣だった。
「これからどんどん暑くなる。あいつの正体が何なのかは、まだおれにもわからねえ。だが、春の思い出が腐ってああなったものだとすれば、夏が本格的に始まれば始まるほど、あいつも腐っていくということだ。つまり、夏の湿気と暑さとは相性が良い」
やつは静かに続ける。
「そうなりゃ、必ずお前のところへ現れる。そして、お前を害そうとするはずだ」
もっとも、とやつは付け加えた。
「その理屈なら秋や冬になれば、力が衰えるかもしれねえ。だが、そんな簡単な相手じゃあねえだろうからな。なおさら、夏のうちに決着をつけにくる」
うむ、と私は頷いた。やつのいうことはもっともだと思った。
私は尋ねた。
「あいつの目的は何なのだ」
「まだわからねえが、最近、少し思うことがあるのだ」
やつは真面目な顔になった。
「おれは、あれが貴様を喰らいたいと思ってることだけは確かなのではないかと思う」
「喰らう……?」
やつの言葉を反芻して、私はその言葉の持つおぞましさに眉をひそめた。
怪異を啜り喰うやつの姿が頭をよぎる。
「それは、私を食べるという意味なのか。それとも取り憑くという意味なのか」
私は思わずやつに問いただしていた。
「おそらく両方だ」
やつは即座に答えた。
「おれは、あれがどういう怪異なのか、まだわからねえと言ったがな。あれは変わり種だ」
やつは卵の殻を指先で弾く。ぴしりとヒビが入る。
「普通の怪異は、大抵のやつが考えているような悪霊みたいなものだ。よくねえものが取り憑くと、体が衰弱するとか、運が下がって碌でもねえことが続くとか、そういうことが起こる。それはわかるな?」
そこで一拍置き、低い声になる。
「だがおれァ、あれの狙いはそれだけじゃねえと思っているのだ」
「……というと」
「あれは、お前を物理的にも喰らおうとしている」
やつは私をまっすぐ見た。
「喰うというより取り込む、と言った方が近いかもしれねえな」
「取り込む?」
「ああ。あれは貴様自身を欲しがってるんだ。なんとしてでも手に入れたい。そういう思念は感じるぜ」
やつは苦笑した。
「おれは何せ邪魔をしているわけだから、お前以上に敵意をビシビシに向けられちまっているのよ。まア、おれも負けはしねえが」
「しかしなぜ私なのだ?」
私は答えがわからないのをわかっていて尋ねた。やつもそれは理解している。
「てめえは男前じゃあねえが、スタア様だからな。言ってみりゃあ天上人みてえなもんだ。だからこそ、妬みも嫉みもありゃあ、手に入れたいと思うやつもいくらでもいる。その理由も千差万別だよな。そういう碌でもねえ思いの成れの果てが、あいつなのかもしれねえし、そうじゃねえのかもしれねえ」
やつは目を細めた。
「何しろ、あいつはいろんなものが混ざり合ってできている。一つずつ解きほぐしていくしかなさそうだ」
やつは手の中の、ヒビの入った卵殻を見つめた。
「……いってみりゃア、あいつも卵みてえなもんだなア」
「卵?」
「殻と薄い皮に守られていて、中がどうなってるのか、外見からではまだ誰にもわからねえ」
やつは空の殻をくるりと回した。
「たとえ周りを腐ったものが取り巻いていたとしても、本当は中に何があるかは割ってみるまでわからねえということよ」
「それは……。そうかもしれないな」
私は静かにうなずいた。
「できれば、穏便に済むとよいのだが」
「穏便に、ねえ」
やつは皮肉っぽく笑い、左手で弄んでいた卵殻をぐしゃりと握りつぶした。中身のないそれは呆気なくやつの手のひらで潰れた。
「そんな簡単な相手じゃねえって言っただろう?」
やつは続けた。
「そんな簡単な相手なら、とっくの昔におれが片づけている。てめえは、くれぐれもあいつを甘く見るんじゃあねえぞ」
「別に甘く見たつもりはない」
どうだかな、とやつは言った。
「少々鈍臭えところがあるし、意外と純情だからな」
やつは私の顔を真面目にみた。そして、少しだけ躊躇ってから言った。
「言わねえでもいいが、なア」
私がやつを見ると、それでもやつは少しためらい、
「……お前、女のことには心当たりがあるんだろう?」
やつにそう言われて、私は思わず反応した。やつは卵の殻を屑籠に捨ててから、私に手を振った。
「図星か? だが、言いたくなるまでは聞かねえよ。おれも、女と色恋の話は苦手だ」
やつは苦笑した。
「てめえになんらかの確信ができるか、おれに話したくなったら話せ」
やつに気を遣われているのがわかった。
やつも、もしかしたら、私の懸念が誰のことかわかっているのかもしれない。
「卵か」
私はつぶやいた。
「私は殻を割ることがあるだろうか」
「真実を知りてえなら割るしかねえ」
とだけやつは答えたが、それには含みがある。
割らない選択肢もあるぞ、とやつは暗に言っていた。
何が本性かをわからぬうちに始末をつけてくれ、と、やつに頼めば、やつはそのように努力はするだろう。
真実を知るか。
やつの元にまだある卵を見て、私は物思いに耽る。
知らない方が良いことは、世の中にはごまんとある。
「それはそうと、オオニワ」
私が考えていると、やつが急に調子を変えて尋ねてきた。
「禎子には次にいつ会うのだ?」
「いきなりなんだ」
「いや、卵の礼をしなきゃあならねえからな」
やつは少しそわそわしている。
「いつ会えるかわからん。あの子も忙しいからな」
「おれもお前について撮影所にいこうか。そうすりゃあ、あの娘にも……」
少し照れたようなやつの頬が、ほんのり赤かった。やつの魂胆がわかったので、私は冷たく言った。
「いや、絶対来るな。人に見つかったら面倒だろう」
「チッ、大丈夫だ。目立たねえようにするからよ」
「怪しまれるのがオチだ。ダメだ」
私のつれなさにやつは執拗に対抗する。
「大丈夫だ! おれの変装は完璧だ。卵と同じで殻を剥かれなきゃあ、正体は割れねえよ」
大丈夫だ、とやつは念押しする。
何が大丈夫なのだ。
わたしは呆れた目でやつを見たが、その抵抗に思わず苦笑したものだった。




