第十三話 くりかえし
人は過ちを犯すものだ。
ささいな過ちを繰り返し、深く自己嫌悪と反省をするにもかかわらず、また同じ過ちを繰り返し。
くりかえしくりかえし罪を重ね、そうしてくりかえし思い出す。
私にも、そうした過ちはある。
「勇さんは、あたしのことが嫌いになったの?」
彼女の声が蘇る。
「それとも、家の人に反対されているから?」
「あなたには自分の意見はないの?」
私には、ある時、心から愛した女がいた。
しかし、彼女と私は結ばれない運命だった。
私には彼女を幸せにするだけの甲斐性も力もなく、そして私と彼女の関係はもろく引き裂かれてしまった。私は彼女に手を差し伸べることができなかった。
それが私の唯一の醜聞だった。
今の私は、それなりに幸せだろう。
社会的にも経済的にも成功し、家庭は温かい。私は妻のことも子どもたちのことも心から愛している。人も羨む生活をしているはずだった。
この世はあまりにも生きづらく、そのことに対して私は悲観的だが、今の境遇にさほど不満はない。
それでも自分が幸せにできなかった女というものは、いつまでも私に引っかかる。
答えない私に彼女は苛立ち、私を軽蔑するような目で見つめ、それから思い切るように去っていった。
その姿が、くりかえし、くりかえし、私を鉤爪のように引っ掻く。
*
春の骸は、しばらく姿を現さなかった。
近ごろ、晴れが続いているせいかもしれない。そのために久しぶりに外での撮影があり、私は忙しく立ち働いていた。
撮影は深夜に及ぶこともある。予定が押しているとなおさら帰りは遅くなる。
今日は途中でにわか雨があったこともあり、幸い夕方には終わり、所用があって私は別荘に向かうことにした。
「先生、本当にお送りしなくても良いですか」
付き人のマサは、心配そうにそう尋ねたものだ。
もう道が暗い。
「近ごろは、なにかと物騒ですし」
確かに夏にさしかかって物騒な事件は何かと多く、新聞報道でも見かけていた。
それだけでなく、マサはわかってはいないだろうが、私が春の骸を警戒しているのを、なんとなく察しているのだろう。
「しかし、今日はお前も用事があったろう。ここのところ、仕事でずいぶん遅くなっていたし、家にも帰れなかったろう。今日はせめて早く帰った方が良い」
マサは実直な男だ。
その顔はひどい火傷でひきつれていたが、それは昔、撮影中の事故で私を庇った時におったものだ。それ以来、私はマサをそばにおいていた。
マサは私が強く帰るように勧めるので、ようやく、同意した。
マサと別れて宵の道を歩く。
やつには「一人歩きはだめだ」とさんざん釘を刺されていたが、そのときの私は平気だった。
なぜなら。
「おい、オオニワ」
どこからともなくやつの声が聞こえ、何もない空間から白い着物が浮き上がった。
「まったく、てめえというやつは」
相変わらず闇に溶け出しそうな右半身をしたやつは、狐の仮面を斜めに被り、白い着物をきて刀を差していた。この姿をしているときのやつは、普通の人間には見えていない。
「一人歩きはするなと言っているだろうが。どうしてマサの申し出を断った?」
やつは少し不機嫌だ。
「貴様が近くにいる事はわかっていたからな。ここのところ忙しかった。今日はマサには休ませてやりたい」
チッとやつは舌打ちした。
「おれを休ませる気はねえのか?」
「お前はいつもごろごろしているだろう」
やつは不服そうだ。
「まさか。おれも忙しいんだ」
「何が忙しい?」
「何が? 梅雨の晴れ間の蒸し蒸しした空気が、良からぬものを呼び寄せているからな」
やつは肩をすくめる。
「久しぶりに近隣を散策して、縄張りの点検をしたついでに『掃除』をしている」
掃除、という言葉に、やつは強めの発音を置いた。それだけで不穏な意図が伝わる。
「そう、『掃除』の仕事だ。こんなふうに」
そのとき、やつが不意に視線を前方に向けた。
ざわざわした気配が、私にまで感じられた。
雨上がりの湿度を含む地面から立ち上る、生ぬるい空気が不快な気配と生臭い香りをまとわせている。そして、無数の虫が蠢くような見目のなにかが、闇に蠢いていた。
「あーぁあ」
やつはあくびまじりになった。
やつのあくびは、こうした場合には殺意の表れであることが多い。やつはあくびを噛み殺しつつ、にやりとした。
「ほうれ、早速、湧き上がってやがる」
やつがそう言ったとき、目の前のうごめく黒いものがぶわっと広がった。
やつは残忍な笑みを浮かべて、草履ばきの足で地面を蹴った。そして自然な動作で左手で刀を抜くと、迫り来る闇の塊に飛び込んだ。
圧倒的な力の差で、やつはそれが口を広げてやつを喰らう前に、逆袈裟がけに斬り捨てた。
空気の歪みのような音が鳴り、蠢いていた闇の塊は霧散しながら黒い液体を散らした。
「ちッ、道を汚しやがる」
やつは平然とそう言い捨てると、黒い液体を返り血のように浴びた頬を懐に入れていた懐紙で拭い、刀も同じようにした。
そして。
やつはただの黒い残骸になったそれを左手で掴みあげた。ほんの一握り程度が掴み上げられ、やつはそれを躊躇いもなく口に入れた。
ずるっとそれを啜るようにして、やつはそれを喰らっていく。
それはおぞましい光景だった。
今までも、私は、その光景を何度も繰り返しみたことがある。
やつが、自分以外の怪異を狩るのは、やつ自身も怪異であるから自然な行為であるという。より強く、そして自らの格をあげるため、怪異同士は激しく争うことがあるという。そして、相手を喰らい強くなっていく。怪異としての格も上がってゆくのが、彼らの鉄則だというのだった。
「悪食め」
私は、嫌悪感を払いのけるように、思わず悪態をついた。
「それは心外だ。おれは雑魚は喰わねえよ」
やつは、口からまだ残骸が出ている状態で話した。
「美食家じゃあねえが、おれはダボハゼじゃあねえんだ。何にでも食いついたりはしねえよ」
「どうだか」
私はため息をついた。
「まったく、罪を重ねおって」
「罪? 功徳の間違いだろう?」
やつはそう嘯いてニヤリとした。口から出ていた残骸を啜ってしまってから、やつは言った。
「こいつらは放置していたら、ニンゲンを襲うぞ。おれはそうした有害なやつを狩って喰らう。おれはニンゲンには手を出していねえのだし、それを考えるとお前たちには有益なことだろう」
それはそうだ。
やつはそもそも殺人鬼としてつくられたキャラクタア。本来ならその衝動のまま、何をしでかすかわからない。
それでも、やつは今のところ人には手を出していない。物理的に手を出せないのか、それとも、意図的に手を出していないのかはわからないが、すくなからずやつが『掃除』することで我々は危険を回避できる。
やつが『ニンゲン』をどう思っているかは、正直よくはわからない。ただ、やつも、必要以上には危害を加えるつもりはなさそうだ。
やつはキャラクタアとして、人に受け入れられて愛されることで成立した。そして、現世に顕現するためには、私のような依代を必要とせざるをえない。
だから、私の勝手な理解では、やつはやつなりには『ニンゲン』というものを愛してはいるのだろう。
『掃除』はやつの闘争本能を満たしつつも、ニンゲンの役に立とうとするやつなりの愛情表現のように思えた。それ以外の方法を知らないのだ。
やつが、くりかえし、こうして戦い相手を喰らうことでしか、確立できない存在であることを私は理解していた。
そのため、私はやつが行うその行為に、素直に嫌悪は感じていたが、必要以上に口出しするつもりはなかった。
「しかし、悪食は程々にしろ」
私はため息まじりでやつにそう釘を刺した。
「だから悪食ではないというに」
やつは肩をすくめた。
「それに、これはおれの格をあげるため、と言っただろう。春の骸は強い相手だ。やつに遅れを取らないために、おれも少しは気をつけているということだぞ」
「そうか。それなら良いがな」
今日は春の骸の姿は花びら一つない。ただ、あれがどこか闇の中で潜んでいる気配だけはひしひしと感じる。
私はそれを感じてしばらく黙っていたが、やつは私の態度に居心地の悪さを感じたようだ。
表情の端に、叱られた子供のような反応を少しだけ見せた。
「かてえこと言うなよ」
やつは私の横に並んで言った。
「ニンゲンは罪を繰り返す生き物だっていうだろう? おれもニンゲン由来なのだから、おれもそういうもんだ。それくらい許せよな、オオニワ」
子供の言い訳のように付け加えるやつに、呆れて私は苦笑した。




