動き出す世界と、黒き塔の扉
アッシュたちが次元の裂け目に呑み込まれ、姿を消した現実世界。
竜の帝国の頂、竜帝峰では、かつて世界を滅ぼそうとした男が、ひび割れたまま固まった虚空を静かに見上げていた。
「……ゼノ。あの裂け目の向こうに、アッシュ殿がいるのだな。教団の残党が仕掛けた罠か?」
全獣人の王ライオネルが、重々しい足取りでゼノの隣に立つ。
かつての第一使徒であったゼノは、静かに首を振った。その瞳にはもう狂気も虚無もなく、ただ静かな思案の光が宿っている。
「いや、あの次元の歪みに教団の瘴気は一切混ざっていなかった。……私は彼に救われた時、彼の魂の底に触れた。温かく、底なしの光……だが、そのさらに奥には、途方もない深さと重さを持つ『何か』が眠っていたのだ」
ゼノは、かつて虚無を生み出していた自らの両手を見つめ、ぽつりと呟く。
「彼は敵に攫われたのではない。おそらく……彼自身の内に秘められた、強大すぎる過去の記憶そのものに呑み込まれたのだろう」
ゼノの言葉に、背後で控えていた竜帝バハムートが低く喉を鳴らす。
アッシュという絶対的な抑止力が世界から姿を消した今、大自然のマナは持ち主を失い、世界中で不安定な揺らぎを見せ始めていた。
「我々にできることは、彼が過去から帰還するまで、この世界を護り抜くことだけだ。……来るぞ、獣王よ。このマナの揺らぎを『好機』と捉える愚か者どもが」
◆
時を同じくして、遥か西の海を越えた大地。
歯車の駆動音と、無数の煙突から吐き出される分厚い蒸気が空を覆う、鋼と機械の都市――『機鋼帝国アーガス』。
「……観測所の報告通りか。世界中のマナ濃度が凄まじい勢いで低下し、各地の精霊たちが混乱状態に陥っている」
司令部のバルコニーで、軍服の上に重厚な鋼の外套を羽織った男――ガルス将軍が、真鍮製の望遠鏡から目を離した。
「ええ。大自然の力を操り、各地の異常を鎮めていたという『灰色の青年』。彼のマナ波形が、一時間前に世界から完全に消失しました。死亡、あるいは別次元への転移かと」
背後に控えていた副官が、手元の計器のダイヤルを調整しながら報告する。
「精霊の加護ごと消えたか。……やはり、魔法などという不確かな奇跡はアテにならん」
ガルスは葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出した。
魔法や精霊を「不完全な力」として切り捨て、人間の知恵と鋼の力のみで発展してきたこの帝国にとって、大自然の愛し子も、精霊を信仰する他国も、等しく世界を停滞させる時代遅れの代物でしかなかった。
「目障りな抑止力が消えた今こそ、我ら人類が真の独立を果たす時だ」
ガルスが軍刀の柄を叩く。
「超弩級装甲艦『リヴァイアサン』の主機を回せ。旧時代の魔法国家どもを、物理的に制圧する。我ら人間の鋼で、この星の覇権を握るのだ」
号令とともに、巨大な蒸気機関が地鳴りのような唸りを上げ、要塞のような鋼鉄の艦隊がゆっくりと空へ浮かび上がり始めた。
◆
ザクッ、ザクッ。
死に絶えた記憶の世界。
赤い空の下、灰の積もる街を歩く足音だけが、不気味なほど規則的に響いていた。
「はぁっ……はぁっ……」
シルヴィの呼吸が、目に見えて荒くなっている。
魔力が枯渇した体での長時間の行軍は、見えない鎖を引いて歩くようなものだ。
カレンが黙ってシルヴィの腕を引き、自身の肩を貸す。
言葉はない。だが、その力強い支えが「絶対に倒れさせない」という戦士の意志を伝えていた。
「見えてきました。あれが……」
先頭を歩くエリスが、足を止めた。
アッシュも、その隣で息を呑む。
廃墟の街の中心にそびえ立つ、巨大な黒い塔。
近づくにつれて、その異常さが浮き彫りになっていた。塔の壁面は光を吸い込むような漆黒の鉱石で覆われており、表面には血管のように赤黒い線が微かに脈打っている。
周囲に降り積もる灰は、この塔を中心に渦を巻きながら上空へと吸い上げられていた。
「ひどく冷たい……氷とは違う、芯が凍るような冷気です」
エリスが剣の柄を握る手に力を込める。
アッシュは、塔の根元にある巨大な両開きの扉の前に立った。
装飾の一切ない、のしかかるような重圧を放つ扉。
ここには鍵穴も、取っ手もない。
(あの光の人は、この扉の向こうで……)
アッシュは、自分の震える右手をゆっくりと持ち上げた。
大自然の力が封じられていても、記憶の奥底が「開け方」を知っていた。
冷たい扉の表面に、そっと掌を当てる。
ドクンッ。
アッシュの胸の鼓動と、塔の赤黒い脈動が、一瞬だけ重なった。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
何百年も閉ざされていたような重い摩擦音を立てて、巨大な扉が内側へとゆっくりと開いていく。
中から吹き出してきたのは、血の匂いが混じったような、生ぬるく淀んだ風。
扉の向こうには、真っ暗な螺旋階段が、上へ上へと続いている。
「行きましょう。あなたが探すべきものが、この上にあるのなら」
エリスが、アッシュの背中にそっと手を添えた。
アッシュは深く息を吸い込み、冷たい灰の雪を背にして、黒い塔の暗闇へと静かに足を踏み入れた。




