幻海の境界線と、妖精郷の悪戯な歓迎
竜の帝国ドラグニアでの大宴会から一夜明け、一行は再び天翔グリフォンの広い背に乗り、西の空へと飛び立った。
「アッシュ様、どうか良き旅を! いつでもこの温泉へ戻ってきてくだされ!」
眼下では、竜騎士たちや温泉街の住人たち、そして竜帝峰の頂から顔を覗かせたバハムートが、空を覆うほどの巨大な炎のブレスを『祝砲』として打ち上げ、彼らを見送っていた。
「みんな、ありがとう! また一緒にお風呂入ろうねー!」
アッシュが大きく手を振り返す。
グリフォンは力強く羽ばたき、太陽を背にして西の果ての海へと進路をとった。
バハムートが別れ際に教えてくれた、五つ目の『光の欠片』の行方。
それは、いかなる海図にも載っていない西の果ての海域――空間そのものが外界から切り離された別次元、精霊たちのルーツが息づく『妖精郷』だという。
「妖精郷……神話の時代に物質界から切り離された、幻の次元ですね」
エリスが海風に白銀の髪を揺らしながら、眼下に広がる果てしない青を見下ろす。
「ええ。普通の航海術や飛行では、永遠に辿り着くことはできません」
セフィラが、真剣な表情で前方の何もない空間を見据えていた。
「かつてエルフの森の文献で読んだことがあります。妖精郷への扉は『幻海』と呼ばれる次元の狭間に隠されており、それを見つけることができるのは……」
「セフィラの『妖精眼』だけ、だね」
アッシュがセフィラの隣に座り、ふわりと微笑んだ。
「はいっ。任せてください、アッシュさん。この眼で、必ず皆様を導いてみせます」
セフィラはコクリと頷き、自身の翠緑の瞳を『真なる妖精眼』として眩く発光させた。
彼女の視界の中で、ただの青い空と海だった景色が、複雑な魔力の糸が絡み合う多重次元の層へと変換されていく。
「見えました! グリフォンさん、今の高度を維持したまま、前方に見える『光の歪み』へ飛び込んでください!」
セフィラの的確な指示を受け、グリフォンが鋭く鳴き声を上げて加速する。
「えっ、ちょっと待って! あそこ、何もない空間に急に巨大な『嵐の壁』が発生してるわよ!?」
シルヴィが驚愕の声を上げた。
セフィラが指し示した空間の歪みから、突如として天まで届くような漆黒の竜巻と荒波が現れたのだ。
「あれは物質界への干渉を防ぐための幻影です! 恐れず、真っ直ぐに!」
セフィラが叫ぶ。
「うん、セフィラが言うなら間違いないよ。グリフォンさん、お願い!」
アッシュがグリフォンの背を撫でると、グリフォンは一切の恐怖を捨て、時速数百キロの猛スピードで漆黒の嵐の壁へと突っ込んだ。
バチィィィィンッ!!!
視界が真っ白な光に包まれ、強烈な浮遊感が一行を襲う。
そして、次に目を開けた時――彼らの眼下には、これまでのどの場所とも違う、圧倒的に幻想的な世界が広がっていた。
「わぁ……! すごい、お花が空に浮いてる! 海のお水が七色に光ってるよ!」
アッシュが身を乗り出して目を輝かせる。
そこは、重力の法則が緩く、巨大な発光する植物が天高く伸び、空中にシャボン玉のような水の球がいくつも浮かぶ、夢の中のような美しい世界だった。
空気中には純度の高いマナがキラキラと粉雪のように舞い、呼吸をするだけで体が羽のように軽くなっていく。
グリフォンが、巨大な蓮の葉のような浮島に静かに降り立った。
「見事な案内でした、セフィラ。貴女の眼がなければ、あの嵐の幻影に怯んで引き返していたでしょう」
カレンが大剣を背負いながら、感心したようにセフィラの肩を叩く。
「えへへ……。私、やっとみなさんのお役に立てている気がします」
セフィラが長い耳を嬉しそうに揺らした、その時だった。
『――わぁっ! 人間だ! 人間が来たぞー!』
『嘘!? 本当だ、いい匂いがする!』
『ねえねえ、あっちの灰色の髪の男の子、すっごく美味しそうな生命の匂いがするわ!』
木々の陰や、宙に浮かぶ水球の中から、背中に透明な羽を生やした手のひらサイズの少女たち――妖精がわらわらと飛び出してきた。
「あはは、くすぐったいよ」
妖精たちはアッシュの放つ『大自然の愛し子』としての圧倒的な純度のマナに引き寄せられ、あっという間にアッシュの頭や肩、腕に群がり始めた。
『ねえねえ、君お名前は? 私たちの王様にならない?』
『私の作った蜜をあげる! だから私の巣に来て!』
『ちがうわ、私のお花畑に連れて行くの!』
妖精たちはアッシュの頬にすりすりと頬ずりをし、キャッキャと甲高い声で騒ぎ立てる。
「こ、こら! あなたたち、主に気安く触れないでください!」
エリスが慌てて妖精たちを引き剥がそうとするが、妖精たちは素早く空中に逃げ、あっかんべーと舌を出す。
『なんだぁ、怖い騎士のお姉さん!』
『あの子は私たちのものだもん! アッシュ君っていうのね、お姉さんたちなんか置いて、一緒に遊ぼうよ!』
「なっ……! お、置いていくなどと……!」
エリスが真っ赤になって反論しようとする横で、シルヴィも杖を振り回して怒っている。
「ちょっと! アッシュの隣は私たちのよ! 妖精だからって許さないわよ!」
「ガハハ! これが妖精郷の洗礼か。アッシュのタラシ能力は、次元を超えて妖精にまで効くらしいな!」
カレンはお腹を抱えて笑っている。
「みんな、可愛いね。でも、遊ぶのは後だよ。僕、探し物があってここに来たんだ」
アッシュが優しく妖精たちを指先で撫でると、妖精たちは「はう〜っ」ととろけたような顔をして大人しくなった。
だが、アッシュが尋ねようとしたその時。
「――無礼な振る舞いを許してください、大自然の愛し子よ。この子たちは、久方ぶりの清らかなマナに浮かれているのです」
木々の奥から、ひときわ美しい、六枚の羽を持つ等身大の妖精の女性が現れた。
彼女が歩くたびに足元から光の花が咲き乱れる。妖精郷を統べる女王、ティターニアだ。
「女王様……!」
セフィラが深く頭を下げる。
「ようこそ、妖精眼を持つエルフの娘よ。そして、星の記憶を継ぐ青年よ」
ティターニアはアッシュの前で立ち止まり、その美しい顔に深い憂いの影を落とした。
「貴方をお待ちしておりました。……どうか、この妖精郷を救ってください。数日前、真っ黒な空間を操る『黒い外套の人間』たちが次元の壁を破って侵入し……我らの命の源である『始まりの泉』に、穢れを流し込み始めたのです」
「黒い外套……蝕の教団の残党ですね」
エリスが白銀の剣の柄に手をかける。
「……五つ目の欠片も、その泉の奥で泣いてるんだね」
アッシュの灰色の瞳が、静かに泉の方角を見据えた。
「はい。泉に沈められた『光の石』を依り代にして、奴らは恐ろしい魔物を呼び出そうとしています。泉が完全に汚染されれば、妖精郷は崩壊し、物質界の精霊たちも全て死に絶えてしまうでしょう」
ティターニアの悲痛な声に、アッシュは真っ直ぐに頷いた。
「大丈夫だよ、女王様。僕が、あの黒い泥を全部綺麗にお掃除してあげるから」
妖精たちの悪戯な歓迎から一転。
世界の精霊たちのルーツたる妖精郷の崩壊を防ぐため、アッシュたちはセフィラの妖精眼を道標に、教団の残党が潜む『始まりの泉』へと足を踏み入れるのであった。




