星の揺り籠と、虚無に震える迷子
アッシュが冷たい水晶の扉にそっと手を触れると、分厚い扉は一切の音を立てず、彼を迎え入れるように光の粒子となってサラサラと溶け落ちた。
扉の向こうに広がっていたのは、文字通りの『宇宙』だった。
足元には満天の星空を映し出す鏡のような床が広がり、果てのない空間の中央には、巨大な水晶の祭壇が浮かんでいる。これこそが、天空の大陸の心臓部であり、世界が生まれた時の記録を封じた神話の遺跡『星の揺り籠』だ。
そして、その祭壇の中央。
脈打つ三つ目の『光の欠片』を、漆黒のドロドロとした泥のような瘴気で侵食している男がいた。
「……遅かったな、アッシュ。いや、これで全員揃ったというべきか」
振り返ったゼノの姿は、大火山の時よりもさらに凄惨だった。
青白い肌にはガラスに入ったような黒い亀裂が無数に走り、整っていた漆黒の法衣はボロボロに引き裂かれている。だが、その虚無の瞳だけは、追い詰められた獣のようなギラギラとした狂気を孕んでいた。
「ゼノ……その顔、やっぱりすごく痛そうだね」
アッシュが悲しげに眉をひそめる。
「痛い? ハッ、私には痛みなど存在しない! 私は全てを『無』へと還す第一使徒だぞ!」
ゼノが腕を振り上げると、祭壇を覆っていた虚無の瘴気が一気に膨れ上がった。
「獣王の元で完全なる神の受肉には失敗したが……この天空の心臓部と、君の三つ目の欠片を『無』に沈めれば、この浮遊大陸は墜落する! 地上の獣人大陸もろとも、数百万の命が圧殺される最高の絶望だ!!」
ゼノの両手から、極度に圧縮された虚無の刃が、嵐のように一行へと放たれた。
「アッシュ殿には、指一本触れさせません!」
エリスが真っ先に前に飛び出し、白銀の剣を横に薙いだ。
澄み切った祈りの光が剣閃となって放たれ、虚無の刃を空中で正確に弾き落とす。
「ふん、そんな冷たくて空っぽな攻撃、今さら効かないわよ!」
シルヴィが杖を掲げ、強力な風の防壁を展開して残りの刃を完全に相殺した。
「アッシュの腕の中の温かさに比べたら、お前の虚無の冷気なんて、そよ風以下のただの隙間風だ!」
カレンも大剣を構えて不敵に笑う。
「その通りだ。背中合わせで伝わってきたアッシュの体温……あの熱気を思い出すだけで、私の闘気は無限に湧き上がってくるからな!」
「えへへー、アッシュのぽかぽか、最強だもん!」
リリィがアッシュの足元で胸を張る。
「き、貴様ら……神聖な戦いの場で、何をイチャイチャと……ッ!」
ゼノが血走った目で激昂する。
絶対の絶望を与えようとしているのに、目の前の少女たちはアッシュから与えられた「ぬくもり」の余韻だけで、虚無の精神汚染を完全に無効化してしまっていたのだ。
「みんな、ありがとう」
アッシュは仲間たちの頼もしい背中を見てふわりと微笑むと、ゆっくりと前に歩み出た。
彼が床を踏みしめるたびに、星空の床に美しい波紋が広がり、ゼノの虚無の瘴気を少しずつ押し返していく。
「来るな! 君のその気持ちの悪い光を、私に近づけるなァァッ!」
ゼノが恐怖に顔を歪め、三つ目の『光の欠片』を盾にするように引き寄せた。
だが、アッシュの灰色の瞳は、ゼノに対する怒りではなく、深い理解と慈愛に満ちていた。
「……ゼノ。君がどうして『何もない』のが好きなのか、分かった気がする」
「なんだと……?」
「君は、傷つくのが怖いんだね」
アッシュの静かな言葉が、星の揺り籠に響き渡った。
「誰かを信じたら、裏切られるかもしれない。温かいものをもらっても、いつか無くなったらもっと寂しくなる。……だから最初から『何もない空間』を作って、自分は空っぽだって思い込もうとしてるんだ。そうすれば、心が痛くならないから」
それは、アッシュ自身がかつて、最初の街の路地裏で一人ぼっちだった時に感じていた寂しさの形だった。
期待しなければ、傷つかない。
だからゼノの虚無は、攻撃の力ではなく、あまりにも悲しく孤独な『絶対の引きこもり』の結界なのだ。
「ち、違う! 私は、神の意思を代行する者……!」
「寒かったよね。ずっと、真っ暗なところで一人ぼっちで」
アッシュが真っ直ぐにゼノを見つめる。
その瞬間、アッシュの胸の奥で、第一と第二の欠片が共鳴し、彼の髪を再び『紅蓮の白銀』へと染め上げた。
「や、やめろ……! 私は……私はぁぁっ!!」
ゼノが半狂乱になって、祭壇の水晶ごとアッシュを消し飛ばそうと、最後にして最大の虚無の奔流を放った。空間そのものが削り取られる、漆黒の極大魔法。
しかし、紅蓮に輝くアッシュは、武器を構えることも、防壁を張ることもしなかった。
彼はただ、両腕を大きく広げ、その虚無の奔流を真正面から『抱きとめる』ように受け入れたのだ。
ズォォォォォォォォッ!!!
「アッシュ殿!」
「師匠!」
仲間たちが悲鳴を上げる。
漆黒の奔流がアッシュを飲み込んだ。
だが、次の瞬間。アッシュの体を包んでいた虚無の闇は、彼から溢れ出す温かい生命の光によって、まるで朝日に溶ける朝靄のように、シュウシュウと音を立てて消滅していった。
「あ……あ……」
ゼノが、己の最大の力が、傷一つ与えられずに優しく溶かされたのを見て、その場にへたり込んだ。
アッシュはゆっくりとゼノの目の前まで歩み寄ると、ゼノが盾にしていた三つ目の『光の欠片』にそっと触れた。
欠片に絡みついていた穢れの鎖が、パンッと弾け飛ぶ。
「ありがとう。ずっと、待っててくれたんだね」
アッシュが囁くと、三つ目の欠片は歓喜の光を放ち、アッシュの胸の中へとスゥッと溶け込んでいった。
ドクンッ……!!
三つの欠片が揃い、アッシュの中で、かつてないほど巨大で鮮明な記憶の奔流が溢れ出す。
そして、彼から放たれる神威の光は、もはや一つの大陸に留まらず、空と大地、大自然の全てを包み込むほどの絶対的な『生命の波動』へと昇華された。
「ひぃっ……! くるな、私の、虚無が……!」
ゼノが後ずさろうとするが、アッシュはその震えるゼノの肩を、ギュッと強く抱きしめた。
「もう、空っぽにならなくていいよ。君の冷たいところ、僕が全部温めてあげるから」
「あ、ああ……アアァァァァァァッ!!!」
絶対の虚無を誇っていた第一使徒が、アッシュの無自覚で底なしの温もりに包まれ、まるで子供のように大声を上げて泣き崩れた。
大自然の愛し子の前では、世界を滅ぼす絶望でさえも、ただの迷子の涙へと変わってしまうのだった。




