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星見の大迷宮と、滑る水晶の回廊



天翼族の神殿の奥にそびえ立つ『星見の大迷宮』。


それは山そのものが一つの巨大な水晶でできているような、息を呑むほどに美しく幻想的な遺跡だった。


しかし、その入り口に立つと、内部からはゼノが持ち込んだと思われる『虚無の瘴気』が、黒い霧となってじわじわと漏れ出していた。


「……空気が薄く感じます。美しい水晶が、虚無の力で淀んで泣いているようです」


エリスが白銀の剣を抜き、慎重に迷宮の中へと足を踏み入れる。


内部は、壁も床も天井も全てが透き通るような水晶で構成されており、本来であれば外の星光を集めて眩く輝いているはずだった。だが今は、ゼノの瘴気によって光が乱反射し、どこから道が続いているのかすら分からない、複雑怪奇な鏡の迷路と化していた。


「これじゃあ方向が全く分からないわ。それに、この水晶の床……魔力でコーティングされていて、すごくツルツル滑るのよ!」


シルヴィが杖を突きながら慎重に歩こうとするが、氷の上を歩くように足が取られ、あわや転倒しそうになる。


「きゃっ!」

「危ないよ、シルヴィ」


アッシュがスッと手を伸ばし、転びそうになったシルヴィの腰をしっかりと抱き止めた。


「あっ……」


シルヴィの背中が、アッシュの胸にピタリと収まる。


「だ、大丈夫よ! これくらい、風の魔術で浮かべば……って、あれ?」


アッシュに抱きしめられた安心感と、彼の至近距離からの優しい声に、シルヴィの心臓がトクトクと跳ねる。彼女はワザとゆっくりと体勢を戻しながら、少しだけアッシュの温もりに甘えるように寄りかかった。


「……もうちょっとだけ、支えててくれないかしら。足元が、本当に危ないから」


「うん、いいよ。ゆっくり歩こうね」


「シ、シルヴィ! アッシュ殿にばかり負担をかけては駄目です! 私が先導しますから……きゃあっ!?」


エリスが慌てて前に出ようとした瞬間、彼女のブーツもツルッと派手に滑った。


バランスを崩し、宙を舞いかける騎士。


だが、アッシュは空いているもう片方の腕で、エリスの体もふわりと抱き止めた。


「エリスも気をつけてね。ここの床、すごくよく磨かれてるみたいだから」


「ひゃぅっ……!!」


右腕にシルヴィ、左腕にエリス。


両手に美しい花を抱えたような状態になり、アッシュは全く悪びれる様子もなく、二人の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。


「ア、アッシュ殿……っ! も、申し訳ありません、騎士たるものがこのような無様な……っ」


エリスは顔を真っ赤にして俯きながらも、アッシュの腕の力強さと優しさに、どうしてもそこから離れることができなかった。


「おいおい。お前ら、戦闘前に気を抜きすぎだ。体幹を鍛えれば、これくらいの滑る床など……おっと」


カレンが大剣を背負いながら堂々と歩いてきたが、彼女の重い装備が仇となり、ズルッと足を滑らせる。


だが、カレンは持ち前の恐るべき身体能力で空中でクルリと回転し、見事にアッシュの背中にピタリと背中合わせに着地した。


「……ふん。完璧な着地だ。だが、少し休ませてもらうぞ」


カレンも耳を赤くしながら、アッシュの背中の温もりをちゃっかりと堪能していた。


「ずるーい! 私もアッシュに抱っこされるー!」


リリィがぴょんぴょん跳ねてアッシュの背中(カレンのさらに上)に飛び乗り、一行はアッシュを中心とした謎の組立体操のような状態で、ツルツルの回廊を進んでいくことになった。


「はぁ……。この迷宮の設計者も、まさかこんな甘酸っぱい攻略法をされるとは思っていなかったでしょうね」


最後尾を歩くセフィラが、妖精眼を細めてクスクスと笑いながらついていく。


やがて、一行は水晶の広間のような場所に出た。


そこで彼らを待ち受けていたのは、ゼノが配置したと思われる、漆黒の虚無で構成された不気味な魔獣の群れだった。


形を持たない影の狼たちが、音もなくアッシュたちを包囲する。


「敵ね。アッシュ、ここは私たちがやるわ! あんたは奥にいるゼノ戦のために、その神威の光を温存しておいて!」


シルヴィがアッシュの腕から離れ、気合いを入れるように杖を構えた。


「ええ。獣人大陸で、アッシュ殿にばかり背負わせてしまいましたから。ここからは、私たちの力を見せる番です!」


エリスも白銀の剣を抜き、カレンが大剣を構えて前に出る。


「グルルル……ッ!」


虚無の狼たちが、一斉に飛びかかってきた。


物理法則を無視した影の攻撃。かつてなら苦戦したかもしれない。だが、アッシュの内なる光を間近で感じ、彼と共に大自然の理に触れてきた少女たちは、もはや以前の彼女たちではなかった。


「私の風は、虚無ごと切り裂くわよ!」


シルヴィの杖から放たれたのは、ただの魔力ではない。大気そのものの流れを圧縮した、不可視の真空刃。それが影の狼たちをまとめて両断する。


「一刀両断!」


カレンの大剣が、闘気を纏って振り下ろされる。破壊の概念を帯びたその一撃は、形のない虚無の魔獣すらも「物理的に」粉砕して大地に縫い留めた。


「光よ……!」


エリスの白銀の剣が、純白の祈りの光を纏う。彼女の流麗な剣閃が閃くたびに、虚無の瘴気が清らかな光へと浄化され、霧散していく。


「すごい! みんな、すごく強くなってる!」


アッシュが目を輝かせて拍手をする。

わずか数分で、ゼノの虚無の魔獣たちは全滅した。


アッシュを守るために、己の限界を超えて強くなっていく仲間たち。その絆の強さが、彼女たちに圧倒的な成長をもたらしていた。


「さあ、急ぎましょう。この奥から、恐ろしいほど冷たい気配がします」


エリスが剣の血(影)を振り払い、迷宮のさらに奥へと視線を向ける。


アッシュも自分の胸に手を当てた。


彼の中の第一、第二の欠片が、かつてないほど激しく脈打っている。


すぐ近くに、三つ目の『光の欠片』がある。そして、全てを無へと還そうとする第一使徒ゼノが待ち受けている。


「ゼノ……。君の本当の寂しさが、少しだけ分かる気がするんだ。だから、今度は僕が……」


アッシュの灰色の瞳に、強い決意の光が宿る。

滑る回廊を抜け、一行はついに『星見の大迷宮』の最深部、星の揺り籠へと続く巨大な水晶の扉の前にたどり着いた。


扉の向こうからは、全てを呑み込む絶対的な無の気配が漏れ出している。


アッシュは静かに、その冷たい水晶の扉に手を伸ばした。

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