凍てつく轟炎と、世界を繋ぐ光の旋律
凍りついた溶岩の中から現れた、黒い翼を持つ異形の神。
その姿が完全に現れた瞬間、大火山の火口は、この世の終わりのような静寂と、魂まで凍らせる『虚無の絶望』に包まれた。
「……嘘でしょ。魔力が……大気中の魔力が、完全に消滅した……?」
シルヴィが顔面を蒼白にし、杖を握る手に力を込めるが、光の粒一つすら発生しない。魔導都市ルミナスで見た『穢れ』さえも凌駕する、絶対的な「無」の世界。
「精霊たちが……みんな、恐怖で逃げ出しているわ。世界が、死んでいるように見える……」
セフィラが妖精眼を細め、辛そうに呟く。
教皇マクシムが受肉させようとした神、第一使徒ゼノが作り出した「虚無の神」。それは、大自然の理そのものを否定し、世界を無へと還すための絶対的な絶望の権化だった。
「フハハハッ! 見たか、大自然の愛し子よ! これぞ我が教団の悲願、世界を無へと導く真なる神の姿だ!」
天井付近の岩壁から、ゼノが狂気じみた笑い声を上げる。
「この空間には精霊も魔力も、生きたいという意志すらも存在しない。あるのはただ、全てを無へと還す虚無の法のみ。……さあ、そのひ弱な人間としての命を、我が神に捧げるがいい!」
「……みんな、下がって」
アッシュが、仲間たちの前に歩み出た。
彼の胸の奥では、東の砂漠で回収した第一の欠片と、たった今取り込んだ第二の欠片が、かつてないほど激しく共鳴して脈打っている。
(この黒い瘴気……ゼノの『虚無』と同じだ。……でも、もっと深い。雪山の神殿で、僕を吹き飛ばしたあの光と同じ、概念的な力……)
アッシュは内なる光(神威)を自力で練り上げ、仲間たちを包み込む純白の結界を張った。
しかし、異形の神(虚無の神)がその黒い翼を静かに羽ばたかせた瞬間。
ズォォォォォォォォッ!!!
極度に圧縮された虚無の奔流が、アッシュの結界へと襲いかかった。
触れれば存在ごと消滅する、絶対死の攻撃。
「ぐ、うぅぅ……ッ!」
アッシュの結界が、虚無の圧力に軋み、悲鳴を上げる。
東の大陸で覚醒した彼の光は、確かに強大だった。しかし、相手は「世界を無へと還す概念」そのもの。ただ「存在する」だけの光では、その虚無に飲み込まれていくだけだった。
「アッシュ!!」
リリィが叫ぶ。
アッシュは歯を食いしばり、東の大陸で得た「新たな力」を試した。
エリスの剣の構えを真似て、右手を振り抜く。神域の光を圧縮した、一本の巨大な剣閃。
キィィィィィィンッ!
光の剣閃は、確かに虚無の奔流を切り裂き、異形の神の本体へと迫った。
だが。
サラサラサラ……。
光の刃が黒い翼に触れた瞬間。
それはゼノの時とは違い、割れる音すら立てず、ただ静かに、そして完全に虚無に吸い込まれるようにして霧散した。
「……え?」
アッシュが驚愕に目を剥く。
「無駄だ。それは『無』そのもの。概念的な存在に、物理的な模倣など、存在しないも同然」
ゼノが冷酷に嗤う。
「君がどれほど仲間の技を真似ようと、それはただの『個』の足掻きに過ぎない。世界という『全』を否定するこの虚無の前では、君の光はあまりにも、無力だ」
アッシュは、初めて恐怖を感じた。
内なる光に覚醒し、仲間たちの技を昇華させ、どんな敵も倒せると思っていた。しかし、相手は「力」ですらない。「無」なのだ。
防戦一方になるアッシュ。虚無の圧力に、彼の結界が少しずつ、しかし確実に削られていく。
「アッシュ殿ォォォォッ!!」
「師匠!! しっかりしてください師匠!!」
「アッシュ!!」
仲間たちの悲痛な叫びが、虚無の空間に虚しく響く。
(駄目だ……。僕一人の力じゃ、この虚無は止められない。精霊の声も、大地の鼓動も聞こえない。……僕は、また一人ぼっちになったのか?)
過去の寂しい記憶が、アッシュの心を蝕み始める。
だが、その時。
「グルァァァァァァッ!!!」
浄化された獣王ライオネルが、凍りついた溶岩を砕き、玉座から跳躍した。
彼は武器を持たない素手のまま、全身の闘気を極限まで高め、異形の神へと突撃した。
「……ライオネルさん!?」
「我が生命の恩人たる、大自然の王よ! 我ら獣人は、決して逆境に屈せぬ! 弱肉強食が掟ならば、この虚無の神とやらも、我が牙で食いちぎってくれるわァァァッ!!」
ライオネルの咆哮が、虚無の空間に微かな震動を与えた。
彼の放った全力の拳が、異形の神を包む瘴気の壁に直撃する。
ドゴォォォォォォンッ!!!
闘気と瘴気が激突し、凄まじい衝撃波が火口を駆け巡った。
ライオネルの拳は瘴気の壁に阻まれたが、その一撃は、確かに神の動きを、一瞬だけ止めた。
「な……獣王の闘気が、神の瘴気を一時的に相殺しただと!? 馬鹿な、操られていた時よりも強いだと……!?」
ゼノが驚愕する。
「ライオネル殿! 私たちも続きます!」
ライオネルが作った一瞬の隙を見逃さず、エリスたちが動いた。
物理的な攻撃や魔法が通用しない相手。ならば。
「私の……騎士としての正義と信仰……歪んだ教団の穢れを断ち切る、本物の光の刃……! 届け、大自然の理へ!!」
エリスが白銀の剣を構え、全身の精神力(祈り)を剣に込め、穢れを断つ純白の刃を放った。
カレンは鞘を払った『竜断の大剣』に全ての闘気を纏わせ、物理的な破壊の概念そのものを叩きつけるように振り下ろした。
シルヴィは残った微かな魔力で、アッシュの結界を補強する補助魔術を展開した。
リリィは幼竜の姿となり、瘴気の壁をブレスで相殺し、肉体でアッシュを守る盾となった。
仲間たちの、命をかけた連携攻撃。
それは、虚無の神を倒すことはできなかったが、アッシュの結界を軋ませていた虚無の奔流を、わずかに、しかし確実に逸らし、アッシュへの重圧を軽減した。
「みんな……」
アッシュは傷つきながらも自分を助けようとする仲間たちの姿を見て、ハッと息を呑んだ。
そして、ゼノの嘲笑が蘇る。
『君の光はあまりにも、無力だ。大自然から切り離された君は、ただの「個」に過ぎない』
(違う。君は、世界と繋がるっていうのを、勘違いしてる)
アッシュは血が滲む口元で、静かに、そして力強く微笑んだ。
(僕は、一人じゃない。みんなが僕の中にいる。そして、僕の外にも、みんながいる)
アッシュは胸の二つの欠片、そして外の大火山へと意識を向けた。
虚無の結界によって、外の大自然との接続は遮断されている。……だが。
(僕の中にある、みんなから教わった光。……これを使って、外のみんなと『同調』させるんだ。エリスたちが、自分の心を剣に込めたみたいに。……僕も、僕の心を、大自然そのものに込める)
アッシュは目を閉じ、大火山全体に語りかけた。
「凍りついちゃった溶岩さん、黒い灰を吸わされて苦しがってる火の精霊さん、みんな……。僕に、君たちの力を『預けて』」
これは「借りる(命令に近いお願い)」でもなく、「降ろす(代償を伴う憑依)」でもない。
**「自分という存在を、世界そのものと完全に同調させる」**儀式。
アッシュという小さな個の器を、大火山という巨大な全の器と接続させ、一つの大きな生命の鼓動として鳴り響かせる。
その瞬間。
アッシュの体から放たれる純白の神威の光が、内側から、外の大火山の生命の脈動と完全に同調した。
ドクンッ……!!!
大火山全体が、これまでとは比較にならないほど、大きく、そして清らかに跳ねた。
灰色の髪が、月光のような白銀から、溶岩のように熱く、しかし清らかな「紅蓮の白銀」へと染まり上がる。
彼の周囲で、凍りついていた溶岩が再び脈打ち始め、赤黒い瘴気が、純白の熱気へと変わる。
精霊たちが、恐怖を忘れてアッシュの元へと戻ってくる。
エリスたちが這いつくばっていた床から、生命の息吹そのもののような光の粒子が溢れ出し、彼女たちの体を優しく癒していく。
アッシュはゆっくりと目を開いた。
彼の灰色の瞳は、紅蓮に輝き、大自然そのもののような絶対的な『生命の頂』としての神聖な威圧を放っていた。
「……聞こえる。みんなの声が。みんなの、生きたいっていう歌が」
アッシュは、静かに異形の神へと歩き出した。
その足取りは、もはや「ひ弱な人間」のものではなく、世界そのものを背負った、絶対的な「生命の頂」のそれだった。
「ば、バカな……! 虚無の結界が……内側から書き換えられていく……!? 貴様、一体、何をしたァァァッ!!」
ゼノが恐慌状態に陥り、狂乱の絶叫を上げる。
絶対の無が、生命の螺旋によって、静かに、そして圧倒的な力で上書きされようとしていた。
アッシュが右手を突き出した。
手には何も持っていない。しかし、その手から放たれる光は、もはや剣閃ではなく、大自然の意志そのものを具現化したような、紅蓮に輝く『生命の螺旋』だった。




