虚無の使徒と、精霊の届かない世界
黄金の砂が舞う迷宮を抜け、一行はついに『黄金のピラミッド』の最深部、巨大な石室へと足を踏み入れた。
そこには、教団の黒装束を纏った数十人の魔術師たちが、床に描かれたおぞましい魔法陣を取り囲んでいた。その中央で宙に磔にされているのは、豪奢な装飾品を身につけた小さな少女――太陽帝国の伝説に伝わる『砂の巫女』だ。
さらに彼女の背後には、雪山で見たものと同じ、脈打つ巨大な『真っ白な光の欠片』が、黒い鎖で幾重にも縛り付けられている。
「よくもここまで……! 迎撃しろ! 儀式を邪魔させるな!」
魔術師たちが一斉に赤黒い瘴気を放つ。
「遅いわよ!」
だが、シルヴィの暴風が瘴気を吹き飛ばし、カレンの大剣が魔術師たちの陣形を紙屑のように粉砕する。リリィの純白の炎が彼らの退路を断ち、あっという間に石室は制圧された。
「もう大丈夫だよ」
アッシュが魔法陣の中央へと歩み寄り、宙に縛り付けられた砂の巫女と、その後ろで苦しげに明滅する光の欠片を見上げた。
彼がその黒い鎖に手を伸ばそうとした、その時だった。
「――困るな。その器を壊されては、この大陸を死の砂で沈める計画に狂いが生じる」
石室の奥、ピラミッドのさらに深淵から、ひどく静かで、ひどく『空っぽ』な声が響いた。
アッシュの動きが止まる。
エリスたちも一斉に声の方向へと武器を向けた。
闇の中から現れたのは、装飾の一切ない漆黒の法衣を纏った、青白い肌の青年だった。
教皇マクシムや異端審問局長のような、権力への執着も狂気も見えない。ただ底なしの深い虚無だけが、その真っ黒な両眼に横たわっている。
「私はゼノ。『蝕の教団』第一使徒。大自然の愛し子よ……君の噂は聞いている。いかなる兵器も魔術も、君の前では砂上の楼閣だと」
ゼノは足音すら立てず、滑るように魔法陣の縁へと歩み寄った。
「だが、それは君が『大自然の理の中』にいるからだ」
ゼノが、パチンと静かに指を鳴らした。
その瞬間。
ピタリ、と。
世界から、あらゆる『音』と『色』が消失した。
「きゃあああっ!?」
セフィラが両手で目を覆い、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
「セフィラ!? どうした!」
カレンが駆け寄ろうとするが、彼女の足元がふらつき、背負っていた大剣の重さに耐えきれずに膝をつく。
「嘘でしょ……魔力が、大気中から完全に消えた……!?」
シルヴィが顔面を蒼白にして杖を構えるが、光の粒一つすら発生しない。
「……精霊たちの声が、聞こえない」
アッシュの灰色の瞳が、驚きに見開かれた。
いつも彼を包み込み、優しく語りかけてくれていた風の音も、大地の鼓動も、火と水の気配も。何一つ感じない。まるで、宇宙の真空空間に一人だけ放り出されたような、絶対的な断絶。
「これが私の権能、『虚無の領域』だ」
ゼノが冷酷に告げる。
「穢れすらも超えた、完全なる大自然の拒絶。この空間には精霊も魔力も存在しない。物理法則すらも私の意志で停止する。君がどれほど『お願い』しようと、この空間にはそれを聞いてくれる者はいない」
「アッシュ殿、下がって……ぐっ!?」
エリスが白銀の剣を抜いてゼノに斬りかかろうとしたが、目に見えない巨大な圧力に押し潰され、床に這いつくばらされた。
カレンも、シルヴィも、竜であるリリィでさえも、見えない鎖に縛られたように身動き一つ取れなくなっていく。
「さあ、見せてもらおうか。世界から切り離された君が、ただの『ひ弱な人間』になった時の無様な姿を」
ゼノが右手を軽く振るった。
それだけで、圧縮された虚無の刃が不可視の斬撃となってアッシュへと襲いかかる。
「風さん、みんなを守っ――」
アッシュは仲間たちを庇おうと両手を広げた。
だが、奇跡は起こらない。風の精霊は来ない。
ズシャァァァァッ!!!
「が、はっ……!」
残酷な肉を裂く音と共に、アッシュの胸元から鮮血が噴き出した。
そのまま彼の体は宙を舞い、冷たい石室の壁に激しく叩きつけられる。
「アッシュ殿ォォォォッ!!」
エリスの悲痛な絶叫が響く。
これまでどんな強大な敵の前でも無傷だったアッシュが、ただの人間として、為す術もなく傷つけられた。
壁際に倒れ込んだアッシュの足元に、どくどくと赤い血が広がっていく。
「アッシュ……! いや、いやぁぁっ!」
リリィが涙を流して暴れるが、虚無の圧力は彼女の竜の膂力さえも封じ込めている。
「あっけないものだ。所詮は他者の力を借りていたに過ぎない。君自身の内側には、何の力もないのだからな」
ゼノが冷たい目でアッシュを見下ろし、止めを刺すべく再び右手を掲げた。
「……痛い、な」
静かな石室に、掠れた声が響いた。
壁際で血に染まったアッシュが、震える腕で床を突き、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「アッシュ殿! 駄目です、動かないで!」
エリスが叫ぶ。
アッシュの口から血がこぼれ、その呼吸は浅く、今にも倒れそうだ。
しかし、彼の灰色の瞳はゼノを……いや、ゼノの奥で鎖に縛られたまま泣いている、砂の巫女と光の欠片を真っ直ぐに見据えていた。
「君は、何もないって言うけど……」
アッシュは傷ついた足を引きずりながら、一歩、前へ踏み出した。
外から力を借りられないのなら。精霊の声が届かないのなら。
「僕の中には、エリスがくれた勇気がある。カレンの強さがある。シルヴィの知恵がある。みんながくれた、たくさんの温かいものがあるんだ」
アッシュの視線が、彼の中で脈打つ何かと、背後で縛られた『神の欠片』の光と、静かに交差した。
「外にお願いできないなら……僕が、自分でやるよ」
絶望に閉ざされた虚無の世界で。
ただの人間となったはずの青年の内側から、かつてないほど純粋で、強大な『光』が産声を上げようとしていた。




