迷いし黒砂の迷宮と、届かない悲鳴
「ここから先は……我が帝国の地図にも記されていない、禁忌の領域です」
アミラが声を潜めて告げた。
一行の目の前に広がるのは、もはや『砂漠』と呼ぶにはあまりに異質な光景だった。
黄金色の砂は完全に姿を消し、そこには漆黒の砂が幾重にも積み重なって、巨大な壁や複雑な回廊を形成していた。それは風によって刻一刻とその形を変える、意思を持った『生きた迷宮』だった。
「……空気が重いわね。空間そのものが歪められているわ」
シルヴィが眉間にしわを寄せ、杖の先端に灯した魔力光で周囲を照らす。
「物理的な迷宮じゃないな。侵入者の精神を削り、魔力を吸い上げるための大規模な結界だ」
カレンが大剣の鞘を叩き、不快そうに鼻を鳴らした。
この『黒砂の迷宮』こそが、教団の本拠地である黄金のピラミッドを守る最大の防壁。一度足を踏み入れれば、方向感覚を失い、乾きと絶望の中で死の砂の一部へと変えられると言われている。
「ひどい……。砂さんたちが、お互いを傷つけ合いながら無理やり壁にさせられてる」
アッシュは悲しげに、蠢く黒い砂の壁を見つめていた。
「アッシュ殿。ここを抜けるには、相当な時間がかかると思われます。私の聖道気でも、この濃密な瘴気を完全に防ぎ切ることは……」
エリスが剣を握り直し、周囲を警戒する。
だが、アッシュは迷いなく、その蠢く漆黒の回廊へと足を踏み出した。
「大丈夫だよ。みんな、道に迷って困ってるだけだから。……少しだけ、お話ししてくるね」
アッシュが黒い砂の壁にそっと手を触れた、その瞬間だった。
ゴォォォォォォォォォォッ!!!
迷宮全体が、巨大な獣の咆哮のような音を立てて震動した。
「なっ!? 敵襲か!?」
アミラが即座に宝杖を掲げ、砂の魔術を展開しようとする。
しかし、起こったのは攻撃ではなかった。
アッシュの手が触れた場所から、眩いばかりの純白の光が血管のように迷宮全体へと広がっていったのだ。
光に触れた漆黒の砂は、まるで重い呪縛から解き放たれたかのように、次々と本来の黄金色の輝きを取り戻していく。
「え……?」
アミラが呆然と目を見開く。
アッシュが歩くたびに、行く手を阻んでいた巨大な砂の壁が、まるでお辞儀をするようにサラサラと崩れ落ち、彼らのために真っ直ぐな道を作っていく。
迷宮の意思そのものが、アッシュの存在を祝福し、その覇道を全力で支援し始めたのだ。
「……信じられない。数千年の間、誰も攻略できなかった『絶望の迷宮』が……ただ歩くだけで、一本道に変わっていくなんて」
アミラはもはや驚く気力すら失い、ただただアッシュの背中を見つめていた。
「シルヴィ、お腹空いちゃった。お弁当もう食べてもいい?」
「あはは! 師匠、こんな場所でピクニックの心配!?……ええ、もちろんよ! 最高のランチスペースを作ってあげるわ!」
シルヴィが苦笑しながらも、楽しそうに魔法を唱える。
黄金色に戻った砂の上に、豪華な天幕とテーブルが並べられ、過酷な死の領域は一瞬にして『砂漠のオアシス』のような休憩所へと変貌した。
だが、一行が食事を始めようとしたその時。
『――――助けて――――』
砂の擦れるような、か細い悲鳴が風に乗ってアッシュの耳に届いた。
「……アッシュさん、今の声は?」
セフィラが敏感に反応し、妖精眼で周囲をスキャンする。
「うん。迷宮の奥……ピラミッドの入り口のところで、誰かが泣いてる」
アッシュの表情が、これまでにないほど真剣なものに変わった。
アッシュが視線を向けた先、迷宮の最深部。
そこには、教団の漆黒の法衣を纏った一団が、一人の小さな少女を取り囲んでいた。
少女は豪華な装飾品を身につけていたが、その全身には赤黒い穢れの鎖が巻き付けられ、彼女の生命力を吸い上げてピラミッドの扉へと供給していた。
「……あの少女は!?」
アミラが息を呑む。
「あれは……太陽帝国の伝説に語られる『砂の巫女』……! 数百年前に姿を消したはずの、歴代最高の霊力を持つ一族の末裔です!」
「なるほどね。あの子を電池代わりにして、ピラミッドの封印を無理やり維持しているというわけか」
カレンが大剣を抜き放ち、闘気を爆発させる。
「アッシュ殿。行きましょう。これ以上の犠牲は、一刻も許されません」
エリスが白銀の剣を構え、アッシュの隣に立った。
「うん。……あの子、すごく寂しがってる。早く、温かいスープを飲ませてあげたいな」
アッシュの静かな怒りが、砂漠全体の空気を一変させた。
いつもは穏やかな風が、刃のように鋭く渦を巻き始め、上空の太陽さえもアッシュの意思に呼応するように、その輝きを一層強くした。
「さあ、お掃除の時間だよ。砂漠の精霊さんたち、みんなに力を貸して」
アッシュの言葉と共に、黄金の砂が一斉に立ち上がり、教団の部隊を包囲するように巨大な砂の軍勢を形作った。




