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閉ざされた海路と、潮風香る港の奇跡

大陸最大の港町『アクアリス』は、活気にあふれた海の匂いと、屋台から漂う香ばしい匂いで満ちていた。


「んーっ! このお魚の串焼き、外はカリカリで中はふんわりしてて、すごく美味しいね!」


「こっちの貝のスープも濃厚だぞ! おかわりだ、親父!」


「アッシュ、そのイカ焼きも一口ちょーだい!」


港の市場の片隅にある食堂のテラス席。


アッシュとカレン、そしてリリィの三人は、テーブルいっぱいに並べられた新鮮な海の幸を次々と平らげていた。


聖堂国での緊迫した戦いを終えた一行にとって、ここはまさに念願の観光と癒しの場である。


「本当に、よく食べますね……」


セフィラがクスクスと笑いながら、温かいハーブティーを口に運ぶ。


そこへ、港の管理事務所へ行っていたエリスとシルヴィが、足取り重く戻ってきた。


「二人とも、おかえり。船のチケット、買えた?」


アッシュがイカ焼きを差し出しながら尋ねる。


「それが……申し訳ありません、アッシュ殿。当分の間、東の大陸へ向かう定期船は全て欠航だそうです」


エリスが疲れたように首を振る。


「私のコネを使おうとしたんだけど、どうにもならなかったわ。お金の問題じゃないのよ」


シルヴィも不満げに肩をすくめた。


「欠航? なぜだ、こんなに空も晴れていて、波も穏やかなのに」


カレンが串から肉を剥ぎ取りながら不思議そうに聞く。


「魔物です。ここ数週間、東の海域に巨大な『海魔クラーケン』が住み着き、近づく船を次々と沈めているそうです。聖堂国の海軍が討伐に向かったものの、全く歯が立たず……海路が完全に封鎖されてしまっているのです」


エリスの言葉に、周囲の席にいた商人や旅人たちも重苦しい溜め息を漏らした。


「ああ、困ったもんだ。東の砂漠との交易ができなきゃ、商売あがったりだよ」


「あのクラーケン、ただの魔物じゃねえ。赤黒い不気味な墨を吐いて、海を汚染してるんだと……」


赤黒い汚染。


その言葉に、エリスたちの顔つきがスッと引き締まった。


「……十中八九『穢れ』ね。おそらく教団が海にまで何かを撒き散らしているのよ」


シルヴィが眉をひそめる。


教皇マクシムや最高枢機卿は捕らえたが、教団の残党や彼らが残した爪痕は、世界中にまだはびこっているのだ。


「フン。ならば私が小舟で出て、そのタコだかイカだかを細切れにしてやろうか」


カレンが大剣の柄を叩く。


「それは助かりますが、海の上ではカレン殿の動きも制限されます。それに、海を浄化しなければ根本的な解決には……」


仲間たちが真剣な顔で作戦を練り始めた、その時だった。


「おじさん、ごちそうさま。すごく美味しかったよ」


アッシュが席を立ち、真っ直ぐに港の桟橋の方へと歩き出した。


「アッシュ殿? どこへ行かれるのですか?」


「ちょっと、海にお水をもらいに」


アッシュは波が打ち寄せる石造りの桟橋の先端まで行くと、しゃがみ込み、海面に向かってそっと両手を差し入れた。


「……冷たいね。それに、すごく苦い」


アッシュの灰色の瞳が、海深くを覗き込むように細められる。


彼の耳には、波の音に混じって、海を漂う水と泡の精霊たちの悲痛な泣き声がはっきりと聞こえていた。


「沖の方で、誰かが黒くて痛い墨を吐き続けてるから、海のみんなが息苦しくて泣いてるんだね。……その墨を吐いてる子も、本当は痛くて苦しんでるんだ」


アッシュは目を閉じ、海の水に語りかけた。


「ごめんね、痛かったね。……僕が綺麗にするから、少しだけ風さんたちに手伝ってもらっていい?」


アッシュが海面に触れた手から、淡い金色の光が波紋のように広がった。


その瞬間。


ゴォォォォォォォォォッ!!!


突如として、港の海水が生き物のように大きく渦を巻き始めた。


「な、なんだ!? 海が荒れ出したぞ!」

「津波か!?」


港にいた船乗りや商人たちがパニックになって逃げ惑う。


だが、それは災害ではなかった。


アッシュの手から放たれた清浄な光が、巨大な海流となって沖合へと真っ直ぐに突き進んでいったのだ。


光の海流は、海中に漂っていた赤黒い『穢れ』を次々と浄化し、青く澄み切った本来の海の色を取り戻していく。


そして。


ザバァァァァァァァッ!!!


沖合の海面が大きく爆発したように盛り上がり、巨大な影が姿を現した。


「ひぃぃぃっ! で、出たぁぁっ! 船を沈める巨大海魔だ!!」


船乗りたちが悲鳴を上げる。


それは、見上げるほど巨大な、無数の触手を持つ大烏賊クラーケンだった。


だが、その姿はどこかおかしい。全身を覆っていたはずの禍々しい赤黒い穢れはすでに洗い流されており、その体は透き通るような美しい瑠璃色に輝いている。


クラーケンは港に向かって猛スピードで泳いでくると、桟橋の先端にいるアッシュの目の前でピタリと止まった。


『……キュイィィ……』


巨大な怪物は、まるで叱られた子犬のように、太い触手をモジモジと絡ませながら、甘えるような高い鳴き声を上げた。


「うん。無理やり悪いものを飲まされて、お腹が痛かったんだね。もう大丈夫だよ」


アッシュが桟橋から身を乗り出し、クラーケンの巨大な頭を優しくポンポンと撫でる。


すると、クラーケンは嬉しそうに目を細め、アッシュの頬にスリスリと触手を擦り寄せてきた。


「な、なんだありゃ……! 海軍の軍艦を何隻も沈めたバケモノが、あんな青年に懐いてるぞ……!?」


「それに、海の色を見てみろ! 穢れが完全に消えて、底まで透き通ってる!」


港の人々は、目玉が飛び出るほど驚愕し、顎を外さんばかりに口を開けていた。


「……またやりましたね、アッシュ殿」


エリスが深い安堵と、少しの諦めを込めたため息をつきながら、アッシュの背中に歩み寄る。


「えへへ。イカさん、海のゴミ掃除をしてくれたお礼に、僕たちを東の大陸まで乗せていってくれるって」


アッシュがのんきに笑う。


「クラーケンを船代わりにする気!? さすが私の師匠、常識の枠に収まらないわ!」


シルヴィが目をキラキラさせて興奮する。


「これなら船のチケットは必要ないな。海魔の背中での船旅、悪くない」


カレンも満足そうに頷いた。


「すごいすごい! 早く乗ろうよ、アッシュ!」


リリィが真っ先にクラーケンの触手に飛び移り、トランポリンのように跳ね回る。


「あっ、お待ちください皆様! 私たちの荷馬車はどうするのですか!」


エリスの悲鳴に近い声が響く。


「大丈夫だよエリス。イカさんが、荷馬車ごと大事に運んでくれるって」


アッシュがクラーケンにお願いすると、巨大な触手が優しく、そして器用に荷馬車を持ち上げ、自身の広い背中の上にそっと乗せた。


「……船の代わりに巨大海魔に乗って海を渡る聖堂騎士など、歴史上どこにもいないでしょうね」


エリスはついに腹を括り、覚悟を決めて(そして周囲の船乗りたちの呆然とした視線を浴びながら)、クラーケンの背中へと乗り込んだ。


かくして。


港町をパニックに陥れていた海の脅威は、大自然の愛し子によってただの『巨大な海のタクシー』へと姿を変えた。


一行は船乗りたちの盛大な見送り(と畏怖の念)を受けながら、東の大陸・黄金の砂漠を目指して、規格外すぎる船出を果たすのであった。

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