騎士の誓いと、潮風の吹く港町
ルディオ最高枢機卿の野望が打ち砕かれ、王都を覆っていた分厚い暗雲が晴れてから数日後。
聖堂国は、急速に本来の穏やかな姿を取り戻しつつあった。
大聖堂の広場には、教皇庁の地下牢から解放された良識派の聖職者たちが集まっていた。その中心には、ルベリアの街から駆けつけたクレメンス司祭の姿もある。
「エリス。お前と、お前の仲間たちのおかげで、この国は最悪の過ちを犯さずに済んだ。心から感謝する」
すっかり顔色の良くなったクレメンス司祭が、深く頭を下げる。
彼らの足元では、教団の教皇マクシム、異端審問局長ヴァレリウス、そしてルディオが、魔力を封じる鎖に繋がれ、裁きを待っていた。
「ヴァン・ローゼン家の名誉は完全に回復された。これからの聖堂国を立て直すためにも、お前のような真っ直ぐな騎士に、ぜひ騎士団長として残ってもらいたいのだが……」
クレメンス司祭が期待を込めた眼差しを向ける。
だが、エリスは静かに首を振った。
彼女の腰には、白銀の剣が誇り高く下げられている。
「申し訳ありません、先生。私の剣はすでに、心に決めた主のために捧げると決めております。それに……あの無防備で優しすぎる方々を放っておいたら、世界がどうなるか分かりませんので」
エリスはふわりと、聖堂騎士の堅苦しさを感じさせない、一人の少女としての柔らかい笑顔を見せた。
「そうか。お前がそこまで言うお方だ、きっとこの世界を正しき道へと導いてくれるのだろうな」
「はい。……本人は、ただの観光旅行のつもりだと言うかもしれませんが」
くすっと笑いながらエリスは恩師に深々と一礼し、広場の片隅で待っている仲間たちの元へと歩み寄った。
「おーい、エリス! 遅いぞ、お前の分の串焼きが冷めちまう」
カレンが大口で肉を頬張りながら手を振る。
「そうよ! 早くしないとリリィちゃんが全部食べちゃうわよ!」
シルヴィが、両手に串を持ったリリィを必死に羽交い締めにしている。
「だって美味しいんだもん! アッシュももっと食べる?」
平和を取り戻した王都の広場には、すぐに屋台が立ち並び始めていた。
アッシュはその屋台の横のベンチに座り、のんびりと鳩にパン屑をちぎって投げ与えていた。
「お疲れ様、エリス」
アッシュが振り返り、温かい笑顔を向ける。
「おじいさんたち、元気になってよかったね。はい、これエリスの分」
アッシュから差し出された、焼きたての串焼き。
エリスはそれを受け取ると、ふと居住まいを正し、アッシュの前に静かに片膝をついた。
「アッシュ殿。私の故郷を、そして私の信じる正義を救っていただき、本当にありがとうございました」
「えっ、そんな堅苦しいのなしだってば。僕、ただ建物の石が痛そうだったから撫でただけだし」
アッシュが慌ててエリスを立たせようとするが、彼女は真っ直ぐにアッシュの灰色の瞳を見つめ返した。
「いいえ。あなたは私に、本物の光を見せてくれました。……アッシュ殿、どうかこれからも、あなたの記憶を辿る旅に、このエリス・ヴァン・ローゼンをお供させてください。私の剣は、あなたの往く道を切り拓くためにあります」
騎士としての、生涯をかけた忠誠の誓い。
セフィラたちが温かい目で見守る中、アッシュは少しだけ困ったように頬をかき、そして嬉しそうに笑った。
「うん、よろしくね、エリス。でも、道を切り拓くより、美味しいお店を探すのを手伝ってほしいな」
「……はい。善処いたします」
エリスも堪えきれずに笑い、立ち上がってアッシュの手を握り返した。
「よし! それじゃあ、東の海へ向かって出発しよう!」
アッシュが空を指差す。
「風たちがね、海には見たこともない大きなお魚や、潮風の香りがする美味しいスープがあるって教えてくれたんだ。早く行ってみようよ!」
「もう、師匠は本当にご飯のことばかりなんだから」
シルヴィが呆れながらも、楽しそうに荷馬車の手綱を握る。
かくして、腐敗した聖堂国を鮮やかに大掃除した一行は、人々の深い感謝と祈りに見送られながら、王都を後にした。
それから数日後。
なだらかな丘を越えた彼らの視界に、抜けるような青空と、太陽の光を反射してキラキラと輝く広大な『海』が飛び込んできた。
「わぁ……! 水がいっぱいだ!」
アッシュが目を輝かせて駆け出す。
丘を下った先にあるのは、大陸最大の港町『アクアリス』。
巨大な帆船がいくつも停泊し、活気ある船乗りたちの声と、カモメの鳴き声が潮風に乗って聞こえてくる。
「東の大陸へ渡るには、あそこから大型の客船に乗る必要がありますね」
エリスが海風に白銀の髪を揺らしながら言う。
「海の幸……新鮮な魚介のバーベキュー……ゴクリ」
カレンとリリィがすでにヨダレを垂らしている。
「ちょっと! あんたたち、観光の前にまずは船のチケットの手配よ!」
シルヴィが慌てて二人を追いかける。
「ふふっ、海もアッシュさんを歓迎しているみたいですね」
セフィラが妖精眼を細め、穏やかな波打ち際を見つめる。
彼女の目には、海中の無数の水と泡の精霊たちが、アッシュの到着を喜んで飛び跳ねているのが見えていた。
失われた光の記憶を求める、大自然の愛し子。
そして、彼に心酔する規格外の少女たち。
彼らの『終わらない観光旅行』は、広大な海を越えた先の未知なる大陸へ向けて、さらなる広がりを見せようとしていた。
大自然の理さえも無自覚に書き換える青年の旅は、まだ始まったばかりである。




