白亜の大聖堂と、神を騙る偽りの光
聖堂国の王都は、外縁の街ルベリアとは比べ物にならないほどの規模と、そして異常なほどの静寂に包まれていた。
街の中心にそびえ立つのは、純白の大理石で建造された『大聖堂』。
本来であれば、国中から集まった巡礼者たちの祈りの声と、美しい賛美歌が絶え間なく響いているはずの神聖な場所だ。だが今の王都には、重装備の兵士たちが巡回する足音と、人々の押し殺したような息遣いしか聞こえない。
「……まるで、巨大な墓場ですね」
セフィラが馬車の窓から街並みを見渡し、痛ましそうに目を伏せた。
大聖堂へ続く広大な石畳の広場。
エリスはその中央で立ち止まり、高くそびえる神殿の扉を真っ直ぐに見据えた。
彼女の後ろには、魔法の縄で縛られ、屈辱に顔を歪める異端審問局長ヴァレリウスと、雪山で捕らえた教団の教皇マクシムの姿がある。
「止まれ! それ以上大聖堂に近づくことは許さん!」
広場を警備していた数十人の聖堂騎士たちが、一斉に槍を構えてエリスたちの行く手を阻んだ。
その顔ぶれの中には、かつてエリスと共に剣の修行に励んだ同僚たちの姿もあった。しかし、彼らの瞳は虚ろで、まるで何かに操られているかのように生気がない。
「剣を引きなさい。私はヴァン・ローゼン家長女、エリス。この国の腐敗を正し、教皇庁の目を覚まさせるために帰還しました」
エリスが凛とした声で名乗りを上げる。
だが、兵士たちはピクリとも動かず、ただ機械的に武器を突きつけるだけだった。
「無駄なことだ、ヴァン・ローゼンの娘よ」
重々しい音を立てて、大聖堂の巨大な扉が内側から開かれた。
現れたのは、金糸の刺繍が施された豪奢な法衣を纏う、恰幅の良い白髭の男。その後ろには、異端審問局の精鋭たちがずらりと控えている。
「最高枢機卿、ルディオ……!」
エリスの顔が険しくなる。教皇庁のトップに君臨し、聖堂国の実権を握る男だ。
「貴様が連れているのは、我が国の大切な客人であるマクシム殿と、審問局のヴァレリウスではないか。国の重鎮を縛り上げるとは、もはや弁明の余地なき反逆。貴様の一族もろとも、神の炎で浄化してくれよう」
ルディオ最高枢機卿が冷酷に宣告する。
「大切な客人……? 世界を穢れで滅ぼそうとする『蝕の教団』の教皇がですか!」
エリスが怒りに声を震わせた。
「教団がもたらした不浄な力で、罪なき民を弾圧し、国を支配する。それがあなたの、聖堂国の正義だと言うのですか!」
「正義とは、力ある者が決めるものだ。旧き神の奇跡など、もはやおとぎ話。私は教団の『技術』を取り入れ、この国を絶対的な力で統治する。それこそが、新しい時代の神の意思なのだよ!」
ルディオが高らかに両腕を掲げる。
その瞬間、大聖堂の屋根に設置されていた巨大な十字のモニュメントが、禍々しい赤黒い光を放ち始めた。
「なっ……大聖堂の『大結界』を、穢れの魔力で起動させた!?」
シルヴィが驚愕の声を上げる。
赤黒い光は広場全体をドーム状に覆い尽くし、強烈な重圧となってエリスたちにのしかかった。
カレンでさえも一瞬動きを止め、眉をひそめるほどの異常なプレッシャー。穢れの魔力に当てられ、周囲にいた虚ろな目の兵士たちが、苦しげな呻き声を上げて膝をついた。
「フハハハッ! 見よ、これぞ新たなる神の裁き! その重圧の中で、肺を潰されて死ぬがいい!」
ルディオが狂気じみた笑い声を上げる。
絶望的な光が、広場を赤黒く染め上げていく。
だが。
「……どうして、そんなことするの」
張り詰めた空間に、ひどく場違いな、静かで悲しそうな声が響いた。
アッシュだった。
彼は異常な重圧など全く感じていないかのように、ゆっくりと、赤黒い光を放つ大聖堂の壁へと歩み寄っていった。
「アッシュ殿……?」
「止まれ! 何をしている、さっさとその男を殺せ!」
ルディオが叫ぶが、重圧に当てられた兵士たちは動くことすらできない。
アッシュは大理石でできた大聖堂の壁に、そっと両手を当てた。
「この白い石、すごく長い間、みんなの優しい歌を聴いてきたんだね。たくさんの人の『ありがとう』が、いっぱい詰まってる」
アッシュの灰色の瞳が、大聖堂の奥深くを見透かすように細められる。
「それなのに、こんな黒くて痛いものを無理やり流し込まれて……石も、ガラスも、すごく泣いてるよ」
「何を狂ったことを言っている! 大結界の出力を最大にしろ! 跡形もなく消し飛ばせ!!」
ルディオの命令で、十字のモニュメントからさらに濃密な瘴気が放たれようとした、その時。
「もう、無理して痛い光を出さなくていいからね。……深呼吸して、元の綺麗な歌を聞かせて」
アッシュが壁を優しく撫でた。
カァァァァァァァァンッ……!!!
その瞬間。大聖堂の頂上に据えられた巨大な鐘が、誰も鳴らしていないのに、高く澄み切った音を王都中に響かせた。
それは、何百年も昔から、この国の人々を癒し続けてきた『祈りの鐘』の音だった。
鐘の音に呼応するように、大聖堂の白い大理石が、内側から眩いばかりの純白の光を放ち始めた。
壁に、床に、ステンドグラスに満ちていた赤黒い『穢れ』が、まるで朝日を浴びた霜のように、シュウシュウと音を立てて浄化されていく。
「な、なんだこれは!? 私の……私の絶対の結界が……!」
ルディオが後ずさり、信じられない光景に目を剥く。
純白の光は広場全体に広がり、重圧を完全に吹き飛ばした。
光を浴びた兵士たちの虚ろだった瞳に、本来の理性の光が戻っていく。
「あ……我々は、一体……?」
「体が……すごく、軽い……」
操られていた兵士たちが、次々と正気を取り戻し、自分たちが武器を向けていた相手を見て愕然としていた。
「すごい……! 大聖堂に染み付いていた本物の『祈りの力』を、アッシュさんが呼び覚ましたんですね……!」
セフィラが、妖精眼に映るあまりにも美しい光景に両手を組み、涙を浮かべた。
「ば、バカな……。教団の究極の魔導具が、こんな……ただの壁を撫でただけで……!」
ルディオ最高枢機卿は、完全に浄化され、本来の神聖な姿を取り戻した大聖堂を前に、膝から崩れ落ちた。
「教えてあげる。力で無理やり言うことを聞かせても、それは本当の力じゃないんだよ」
アッシュが振り返り、ルディオを見下ろす。
怒りはない。ただ、間違ったことをしている子供を諭すような、静かな視線だった。
「終わりです、ルディオ卿」
エリスが歩み寄り、白銀の剣を抜いてルディオの喉元に突きつけた。
正気を取り戻した周囲の兵士たちも、もはやルディオを守ろうとはせず、その歪んだ野望の終焉を静かに見つめていた。
「我が一族の誇りと、この国に生きる人々の本当の祈り……あなたが奪い、歪めたものは、全てここに取り戻しました」
白亜の大聖堂に、再び美しい鐘の音が響き渡る。
腐敗に沈みかけていた聖堂国は、大自然の愛し子の手によって、その真の神聖さを取り戻したのだった。




