寂れた礼拝堂と、枯れ木に実る黄金の果実
重苦しい空気の漂うルベリアの街を抜け、エリスが荷馬車を停めたのは、外壁に近い貧民街の路地裏だった。
そこには、見事な白亜の神殿が立ち並ぶ中心街とは対照的な、木造の古く小さな礼拝堂がひっそりと建っていた。
「ここです。私が幼い頃、剣と信仰の基礎を教えてくださったクレメンス司祭様の教会……。まだ、いらっしゃれば良いのですが」
エリスが馬車を降り、立て付けの悪い木の扉をそっと押し開ける。
礼拝堂の中は薄暗く、冷たい空気が満ちていた。祭壇の前には、背中の曲がった白髪の老神父が一人、力なく祈りを捧げている。
「クレメンス先生……」
エリスの震える声に、老神父がゆっくりと振り返った。
落ち窪んだ目、土気色の肌。かつてエリスに厳しくも温かい教えを説いた恩師は、見る影もなく衰弱していた。
「……おお。その白銀の髪、エリスか。まさか、生きて再び会えるとは」
「先生! いったいなぜ、こんなお姿に……街の様子も異常です。私がいなかった間に、国に何があったのですか?」
エリスが駆け寄り、クレメンス司祭の痩せ細った手を握りしめる。
司祭は痛ましげに目を伏せ、重い口を開いた。
「異端審問局の長、ヴァレリウスの仕業だよ。奴は半年ほど前から、どこからか『奇跡の武具』を持ち込み、教皇庁の権力を掌握したのだ。それに異を唱える良識ある聖職者たちは、皆『異端』として捕らえられ、処刑されるか、追放された」
「奇跡の武具……先ほどの執行官が着ていた、穢れの鎧ですね」
カレンが腕を組んで忌々しそうに吐き捨てる。
「ええ。教団の技術を国の中枢が取り込んでいると見て、間違いないわね」
シルヴィが冷静に分析する。
「まさか、教団と聖堂国が裏で繋がっていたなんて……」
エリスが絶望に顔を歪めた。
弱者を救い、大自然への感謝を忘れない。それが本来の聖堂国の教義だったはずだ。それが今や、人々を恐怖で支配し、あまつさえ世界を滅ぼそうとする組織と手を結んでいる。
「エリスよ、すぐにこの国から逃げなさい。お前のまっすぐな正義は、今のこの国では命取りになる……」
クレメンス司祭が咳き込みながら忠告した、その時だった。
「……ねえ、エリス。このお庭の木、すごく喉が渇いてるみたいなんだけど、お水あげてもいい?」
礼拝堂の裏庭に通じる古びた窓から、アッシュがひょっこりと顔を出した。
彼の背中にはリリィがおぶさり、「お腹すいたー」とぐずっている。
「アッシュ殿……? え、ええ、構いませんが……」
エリスが戸惑いながら頷くと、アッシュは裏庭の中央に植えられた、一本の枯れ木に歩み寄った。
「おお……それは、この教会が建った時からある『聖樹』だよ。だが、街に邪悪な空気が満ち始めてから、すっかり枯れ果ててしまってね。もう、葉の一枚も……」
クレメンス司祭が悲しげに説明しようとした、次の瞬間。
「冷たくて暗い水ばかり吸わされて、痛かったね。……もう大丈夫だよ」
アッシュが、枯れ木の幹にそっと手を触れた。
ズズズ……ッ。
大地が、微かに、しかし力強く鳴動した。
地下深くで淀んでいた穢れた水脈が、アッシュの言葉に応えた大地の精霊たちによって一瞬にして浄化され、清らかな魔力の奔流となって木の根へと注ぎ込まれる。
「なっ……!?」
クレメンス司祭が、目を剥いて立ち上がった。
完全に枯れ死んでいたはずの聖樹の枝から、みるみるうちに青々とした新緑の葉が芽吹き、溢れんばかりの白い花が咲き乱れたのだ。
それだけではない。花は一瞬で結実し、太陽の光を凝縮したような、黄金色に輝く大ぶりの果実をたわわに実らせた。
「わぁ! 美味しそうなリンゴ! アッシュ、食べる!」
「うん。木も、重たいから食べてほしいって言ってるよ」
アッシュは黄金の果実をいくつか収穫すると、自分の服の裾で軽く拭き、礼拝堂の中へと戻ってきた。
「はい、おじいさんも。お腹が空いてると、元気が出ないからね」
アッシュが差し出した黄金の果実。
クレメンス司祭は震える手でそれを受け取り、信じられないものを見るような目でアッシュを見上げた。
「大自然の……奇跡……。神話の時代にしかあり得ない、生命の息吹そのもの……」
一口齧ると、果実からは清らかな甘みと、全身の疲れを吹き飛ばすような温かな魔力が染み渡った。衰弱していた司祭の顔に、みるみるうちに血色が戻っていく。
「美味しい……。ああ、なんて優しい味がするのだ……」
司祭の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖と絶望に支配されていた彼の心に、アッシュの無造作な優しさが、確かな希望の光を灯したのだ。
「……エリスよ。この方は、いったい……」
「私の、大切な主です。そして……今の腐敗した聖堂国に、真の光をもたらしてくれる御方です」
エリスは真っ直ぐに司祭を見つめ返し、力強く宣言した。
もう、迷いはなかった。自分が信じた正義が国から失われたのなら、自らの手でそれを取り戻す。圧倒的な大自然の愛し子と共に。
「さあ、みんなでご飯にしよう。果実、まだたくさんあるよ」
アッシュが微笑み、仲間たちが嬉しそうに果実を受け取る。
暗かった礼拝堂が、温かな笑顔と光に包まれた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
――ドォォォォォンッ!!
突如、礼拝堂の分厚い木の扉が、外からの乱暴な蹴りによって吹き飛ばされた。
入り口に立っていたのは、先ほど検問所にいた灰の執行官たちと、さらに武装を固めた数十人の異端審問局の部隊だった。
「見つけたぞ。我が審問局に刃向かい、邪法を用いた愚か者どもめ」
部隊の奥から、豪奢な灰色の法衣を着た男が進み出る。
「ヴァレリウス局長……!」
クレメンス司祭が恐怖に声を震わせた。
「落ちぶれたヴァン・ローゼン家の小娘に、得体の知れない魔術師ども。……貴様ら全員、神の御名においてここで処刑してくれる」
ヴァレリウスが冷酷に宣告し、兵士たちが一斉に武器を構える。
小さな礼拝堂は、瞬く間に殺意の檻と化した。
だが。
「……あーあ。せっかくアッシュが美味しい果物を採ってくれたのに」
果実を齧り終えたリリィが、不満げに口元を拭いながら立ち上がった。
カレンが大剣の柄に手をかけ、シルヴィが楽しそうに杖を回す。
「ふふっ。狭い場所での戦闘なら、私の制圧魔導の腕の見せ所ね」
「エリス。ここは私たちに任せておけ。お前の国のゴミ掃除だ、手伝ってやる」
エリスの迷いが晴れた今、仲間たちに手加減する理由は一つも残っていなかった。
静寂の礼拝堂で、圧倒的な力を持つ少女たちによる、容赦のない蹂躙が始まろうとしていた。




