歪んだ天秤と、泥に咲く小さな花
「……なんだと? 貴様、今なんと言った」
灰の執行官の声が、鉄の仮面の奥で低く、不気味に響いた。
手にした槍の穂先が、無防備に立つアッシュの喉元へと向けられる。
「この国の法であり、神の意思そのものである審問局の裁定を『悲しい』だと? ――明白な不敬罪、そして異端の疑いあり。その首、ここで跳ねてくれるわ!」
執行官が槍を突き出そうとした瞬間、銀色の閃光がその動きを遮った。
エリスが鞘に収めたままの剣を、執行官の喉元に突きつけていた。
「そこまでです。この御方は私の大切な主であり、聖堂国の賓客も同然。これ以上の無礼は、ヴァン・ローゼン家の名にかけて許しません」
エリスの瞳には、かつてないほどの鋭い怒りが宿っていた。
名門騎士家である彼女の名前を聞き、執行官の手が微かに止まる。だが、彼はすぐに冷笑を漏らした。
「ヴァン・ローゼン……ああ、あの『落ちぶれた』騎士家か。教皇庁の改革についていけず、辺境の巡礼に逃げ出した臆病者の娘が、今さら何の権利を主張する?」
「……っ!」
エリスの顔が屈辱に染まる。
彼女が旅に出た背景には、清廉潔白すぎて国の中枢から疎まれた家系の事情もあった。それを、かつては格下であったはずの異端審問官に嘲笑われたのだ。
「いいから、その槍、どけてあげて。……おじいさんの薬草が、痛がってるから」
アッシュが静かに、執行官の槍の穂先に手を添えた。
いつものように、力感のない、ただ触れるだけの動作。
「離せ、薄汚い――」
執行官がアッシュを突き飛ばそうとした、その時だった。
アッシュの手が触れた槍の穂先から、バキバキという不気味な音が響いた。
冷たい鉄の表面に、まるで植物の蔓のような亀裂が走り、そこから『本物の白い花』が次々と芽吹いていったのだ。
「な、なんだこれは!? 槍が……私の槍から花が!?」
執行官が驚愕し、槍を地面に放り出す。
地面に落ちた槍は、見る間に鉄の質感を失い、美しい一房の花の枝へと姿を変えてしまった。
「武器を……神の武具を変化させただと!? やはり異端、悪魔の術か!」
周囲の執行官たちが一斉に武器を構え、アッシュを包囲する。
一触即発の事態。だが、アッシュは全く動じることなく、老人が落とした薬草――泥にまみれた緑の葉を、そっと掌に包んだ。
「この草はね、土の精霊さんたちが一生懸命育てた、優しい命なんだよ。それを悪魔なんて呼ぶのは、精霊さんたちへの失礼だよ」
アッシュがふうっと息を吹きかける。
すると、泥に汚れていたはずの薬草が瞬時に清らかな光を放ち、アッシュの手の中から『真っ白な癒しの風』が雪崩のように溢れ出した。
その風が吹き抜けた瞬間。
地面に倒れ込んでいた老人の擦り傷が、瞬く間に塞がっていく。
それだけではない。検問所にいた執行官たちの鎧に刻まれた、どす黒い魔力――『穢れ』を秘めた不浄な紋章が、風に洗われてシュウシュウと音を立てて消滅していった。
「ぐ、あああああ!? なんだ、この光は!? 体が……体が焼けるようだ!」
灰の執行官たちが、苦しげに胸を押さえて膝をつく。
聖なる力を自負していたはずの彼らの力は、アッシュの放つ真の浄化の光の前では、排斥されるべき不純物でしかなかった。
「……気づいたか、エリス。こいつらの鎧、ルミナスの地下で見た『機械の首輪』と同じ、反転した魔力の匂いがするぞ」
後ろで控えていたカレンが、不快そうに鼻を鳴らした。大剣の柄に置かれた彼女の手が、怒りで微かに震えている。
「ええ。……認めざるを得ません。この国の中枢、異端審問局そのものが、教団の『穢れ』を取り込んでいるようです」
エリスが悲痛な声を漏らす。
自国の法が、守るべき民を傷つけるために、不浄な力を用いている。その現実は、騎士としての彼女の心を深く抉った。
アッシュは、起き上がった老人の泥を払い、優しく微笑みかけた。
「もう大丈夫だよ。この草、また植えてあげてね」
「あ、ああ……ありがとうございます、御遣い様……」
老人は涙を流してアッシュに手を合わせ、逃げるように街の中へと消えていった。
後に残されたのは、装備を浄化されて弱り果てた執行官たちと、冷え切った空気だけだった。
「……行きましょう、アッシュ殿。これ以上ここにいても、騒ぎが大きくなるだけです」
エリスは執行官たちを一瞥もせず、馬車へと戻った。
彼女の聖堂騎士としての通行証は、もはや敬意ではなく、呪いのような重みを持って彼女の腰に下がっていた。
馬車がルベリアの街の中へとゆっくり進んでいく。
街道の脇に並ぶ家々の窓からは、人々が怯えたような瞳でこちらを伺っていた。
かつての平和な信仰の国は、今や相互監視と恐怖によって支配される、生ける牢獄と化していた。
「……お腹、空いたね。どこかでご飯、食べられるかな」
アッシュのいつもの呑気な言葉。
それが、張り詰めた空気の中に少しだけ体温を戻した。
「……そうですね。王都に向かう前に、一度腰を落ち着ける必要があります。私の知り合いで、まだ『まとも』な者が残っていればいいのですが」
エリスは唇を噛み締めながら、かつて自分が学んだ神学の師の家を目指すことに決めた。
聖堂国の歪みを正し、東への路を拓くための、新たな戦いが始まろうとしていた。




