信仰の国と、歪み始めた正義の天秤
エルフの郷での盛大な祝宴から数日後。
アッシュたちは旅支度を整え、再び『千年の茨』がそびえる森の境界線に立っていた。
「アッシュ様。どうか、この先も森の加護があらんことを」
エルフの長・フィリアをはじめとする多くの民が、名残惜しそうに頭を下げる。
「うん、ありがとう。森の果実、本当に美味しかったよ。また遊びに来るね」
アッシュが笑顔で手を振ると、森の木々が一斉に葉を揺らし、心地よい風が彼らの旅立ちを祝福した。
一行が次に向かうのは、東の大陸へと渡るための船が出ている巨大な港町だ。
しかし、その港町へ向かうためには、大陸の西側を広く治める宗教国家――『聖堂国セレスティア』の領地を縦断しなければならない。
「教皇マクシムを連れたまま国境を越えるのは、少し骨が折れるかもしれませんね」
セフィラが、魔法の縄で厳重に縛られ、荷馬車の隅で猿轡を噛まされているマクシムを見て言った。
「問題ありません。私が所属する聖堂騎士団の身分証があれば、国境の検問はフリーパスです。
マクシムは布で覆って、危険な魔導具だとでも申告しておきましょう」
エリスが騎士の紋章が刻まれた銀のプレートを握りしめる。
その表情には、強い決意と共に、どこか痛ましげな翳りが落ちていた。
自分の国が、教団と繋がっているかもしれない。その疑念を晴らすためにも、彼女は自らの目で祖国の現状を確かめなければならなかった。
エルフの森を抜け、平原を数日進むと、やがて巨大な白い城壁が見えてきた。
聖堂国の西の玄関口、国境都市『ルベリア』だ。
白亜の石造りの街並みは美しく、遠目には平和な都市に見える。
だが、門に近づくにつれて、一行はどこか異様な空気を感じ取り始めていた。
「……なんだか、すごく静かだね」
荷馬車の御者台に座っていたアッシュが、不思議そうに首を傾げる。
かつて訪れた魔導都市ルミナスのような、活気ある喧騒が全くない。門を通る行商人や旅人たちは、皆一様に顔を伏せ、何かに怯えるように足早に歩いている。
「おい、エリス。お前の国はいつもこんなにお通夜みたいな雰囲気なのか?」
カレンが荷馬車の後ろから顔を出し、怪訝そうに眉をひそめた。
「いえ……こんなことは。私が巡礼の旅に出る前は、もっと活気に溢れた、人々の笑顔が絶えない街だったはずです」
エリスが戸惑いながら答える。
門の検問所に到着すると、そこには見慣れない光景があった。
通常の衛兵に混じって、全身を灰色の鎧で包み、顔の半分を鉄の仮面で覆った異様な兵士たちが立っていたのだ。
「あれは……異端審問局の『灰の執行官』!? なぜ辺境の都市の検問に、審問局の人間が……?」
エリスが息を呑む。
異端審問局は、聖堂国内部における重大な教義違反や、悪魔憑きを取り締まる特殊機関だ。彼らが一般の検問に立つことなど、普通ではあり得ない。
「止まれ。身分証と、積荷の改めを行う」
冷たく機械的な声で、灰の執行官が荷馬車を止めた。
エリスが咄嗟に前に出て、聖堂騎士の紋章を提示する。
「私は聖堂騎士エリス・ヴァン・ローゼン。任務を終え、王都へ帰還する途中だ」
執行官はエリスの紋章を一瞥したが、その目に敬意の色は全く浮かばなかった。
「聖堂騎士か。……ご苦労なことだ。だが、上層部より『穢れ』を持ち込む輩を徹底的に排除せよとの厳命が下っている。荷台の中を見せてもらおう」
執行官が強引に荷馬車の幌をめくろうとする。
荷台の中には、布でぐるぐる巻きにされた教皇マクシムがいる。もしここで顔を見られれば、どんな騒ぎになるか分からない。
「待ちなさい! 騎士の特権による不逮捕・不検閲の権利を知らないのですか!」
エリスが声を荒げた、その時だった。
「ひぃぃぃっ! お、お許しください! 私はただの薬草売りで……!」
少し離れた門の脇で、悲痛な叫び声が上がった。
見ると、身なりの貧しい老人が、二人の灰の執行官によって地面に押さえつけられていた。老人の荷車からは、緑色の葉をつけた薬草が散乱している。
「黙れ。これは『蝕の教団』が儀式に用いる悪魔の草だ。貴様は異端の疑いがある。連行しろ」
「違います! これはただの風邪薬で……!」
「口答えするか。神の裁きを受けよ」
執行官の一人が、無抵抗の老人に向かって容赦なく鉄のブーツを振り上げた。
「やめなさい!!」
エリスが弾かれたように駆け出し、老人の前に立ちはだかって、執行官のブーツを鞘のままの剣で弾き返した。
「なっ……聖堂騎士! 異端審問局の任務を妨害する気か!」
「ただの薬草売りではありませんか! 確たる証拠もなく民を暴行するなど、聖堂国の正義に反します!」
エリスが青い瞳に怒りを宿して睨みつける。
だが、執行官は全く動じることなく、冷笑を浮かべた。
「正義だと? ……甘いな、お飾りの騎士は。今の聖堂国において、教皇庁と我ら審問局の決定こそが絶対の正義だ」
周囲の民衆は、誰一人として老人を助けようとせず、巻き込まれることを恐れて目を逸らしている。
かつてエリスが信じ、誇りに思っていた『弱者を救う正義の国』の姿は、そこには微塵も残っていなかった。
「そんな……私のいない間に、国に何が……」
エリスが愕然と立ち尽くす。
「エリス」
不意に、優しく、けれど芯のある声が響いた。
いつの間にか馬車から降りていたアッシュが、エリスの隣に立ち、転がっていた薬草を一つ拾い上げた。
「この草、山で採れるすごくいい匂いのする葉っぱだよね。怪我をした動物たちも、よくこれを食べて治してるんだよ」
アッシュは拾った草を老人に手渡し、そして、灰の執行官たちを真っ直ぐに見つめた。
「優しい草を悪魔なんて呼ぶ国は、すごく悲しいところだね」
灰色の瞳が、冷たく静かに、目の前の歪んだ正義を捉えていた。




