白き揺り籠での目覚めと、終わらない観光旅行
古代神殿『始まりの揺り籠』を覆っていた赤黒い暗雲は消え去り、澄み切った青空から清らかな陽光が降り注いでいた。
神殿の奥、かつて祭壇だった場所には、シルヴィの魔導と精霊たちの力によって急造された、ふかふかのベッドが用意されていた。
そこに横たわっているのは、静かな寝息を立てるアッシュだ。
「……熱は下がりました。暴走していた体内の魔力も、大地の精霊たちが少しずつ外へ逃がしてくれています」
ベッドの傍らでアッシュの額に手を当てていたセフィラが、安堵の息を吐く。
「よかった……。本当に、よかった……」
エリスはアッシュの右手を両手で固く握りしめたまま、ポロポロと涙をこぼした。
絶対的な力を持つ大自然の愛し子。彼が倒れた時、エリスの心臓は凍りつくかと思った。ただの人間の器で神域の力を背負うということが、どれほど無茶なことだったか。彼がどれほどの痛みを堪えて異形の神に手を伸ばしたのか。
「アッシュ……ばかぁ……。いなくなったら、燃やしてやるんだから……」
リリィは人間の姿のまま、アッシュの胸元に丸くなってしがみつき、涙でぐしゃぐしゃになった顔を押し付けている。竜の高い体温で、冷え切っていたアッシュの体を必死に温めていたのだ。
「まったく、無茶苦茶な師匠よ。私の治癒魔導式が十回は焼き切れるかと思ったわ」
シルヴィが徹夜の看病でさらにボサボサになった髪をかき上げながら、ベッドの足元にへたり込んだ。
「だが、やり遂げられた。師匠は、見事に世界を救ってみせたのだ」
入り口で教皇マクシムを縛り上げ、見張りに立っていたカレンが、優しげな目で振り返る。
丸二日。
アッシュが倒れてから、仲間たちは一睡もせずに彼に付き添っていた。
やがて。
アッシュの長い睫毛が、微かに震えた。
「……ん……」
灰色の瞳がゆっくりと開かれ、神殿の白い天井を映す。
エリスがハッとして身を乗り出した。
「アッシュ殿……!? 気がつかれましたか! どこか痛むところは……!」
「師匠!!」
「アッシュ!!」
仲間たちが一斉にベッドを囲み、心配そうな、そして泣き出しそうな顔で彼を覗き込んだ。
アッシュはゆっくりと身を起こし、きょとんと目を瞬かせた。
そして、自分の手を握りしめて泣いているエリスの頭を、もう片方の手でそっと優しく撫でた。
「おはよう、エリス。……そんなに泣いたら、目が赤くなっちゃうよ」
いつもと全く変わらない、ふんわりとした温かい声だった。
「っ……あなたという人は! 自分がどれだけ無茶をしたか分かっているのですか! 私たちがどれほど心配したか……!」
エリスが堪えきれずにアッシュの胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
「ごめんね。でも、あの子がすごく痛がってたから。……それに、みんながずっと傍にいてくれたの、寝ててもちゃんと分かってたよ」
アッシュは困ったように微笑み、リリィの背中を撫で、シルヴィやセフィラ、カレンにも「ありがとう」と優しい視線を向けた。
「アッシュさん。あの時、あなたから離れて空へ消えていった光……何か、思い当たることが?」
あの時、アッシュの一瞬の表情の変化を感じたセフィラの問いに、アッシュは窓の外の青空を見上げた。
「うん。……はっきりとは思い出せないけど、あの光が僕に触れた時、すごく懐かしい気持ちになったんだ。それにね、風たちが教えてくれた」
アッシュは、空を吹き抜ける清浄な風に耳をすませるように目を細めた。
「あの光の欠片、東の海を越えた先にある『黄金の砂漠』の方へ飛んでいったみたいなんだ。そこにも、あの子と同じように、無理やり起こされて泣いている欠片がいるって」
東の海を越えた先。
それは、魔導都市やエルフの森があるこの大陸から遠く離れた、未知の異大陸を意味していた。
「……なるほど。ならば、我々の次なる目的地は東の砂漠というわけだな」
カレンが嬉しそうに笑う。
「教団の連中も、きっとその大陸で何か企んでいるはずよ。叩き潰さないとね」
シルヴィが気合を入れ直すように杖を握る。
「教皇を聖堂国へ引き渡したら、すぐに出発の準備を整えましょう。……アッシュ殿。あなたがどこへ行こうと、私たちは必ずお供します」
エリスが涙を拭い、聖堂騎士としての、そして彼を支える仲間としての凛とした笑顔を見せた。
「ありがとう。東の大陸には、どんな美味しいご飯があるのかな。すごく楽しみだね」
アッシュがいつものようにのんきなことを言い、仲間たちが笑い出す。
過酷な雪山の神殿に、明るい笑い声が響き渡った。
『蝕の教団』による人工の神の受肉という未曾有の危機は去った。
だが、アッシュの失われた記憶と、彼を置いていった『光の神』の謎は、まだ世界中に散らばっている。
大自然に愛された青年の、規格外で騒がしく、そしてどこまでも優しい観光旅行は次の地を目指すのであった。




