16.才女アンジェラ・アークライト
「じゃあ、俺は今日一日登城してくる。書類の処理内容はローガンに聞いてくれ。初めてだから、間違うこともあるだろうがあまり気にするな」
「はい、行ってらっしゃいませ、ルーカス様。ああっと、ちょっとお待ちください」
「?なんだ?」
怪訝そうなルーカス様に近づき、失礼します、と言ってから胸元のタイに触れる。
「ふふ、少し曲がっておりました。今日も素敵です」
「あ、あ、ありが…っ!」
?どうなされたのかしら?そう思ってルーカス様を見ると。まるでゆでだこのようになってらっしゃる。
「大丈夫ですか?またこの間のようにお具合が…」
そう言って手を伸ばすと「大丈夫!!大丈夫だから!!!行ってくる!!!」
大声で叫びながら慌てて屋敷を後にされた。
ぽかん、と開いた口が塞がらない。
「ろ、ローガン様、どうなさったんでしょうかルーカス様は」
はて?と隣のローガン様を見遣ると、彼は肩を震わせて控えめに言って大爆笑なさっていた。
「ローガン様まで!?どうなさったのです?」
皆が皆気でも触れてしまったのだろうか。
「すみませんな、アンジェラ様。ああ見えて坊ちゃまは初心なもので」
「初心とおっしゃいましても、今までもそういうお相手はいらしたのでしょう?」
「まあ、それなりにですが。しかし、自分からという…おおっと。これは爺が口を出してはいけません。坊ちゃまが勇気を出したときにきいてあげてやってください」
「??わかりましたわ?」
「さあ、それでは仕事に参りましょうか。爺は厳しいですよ、付いてこれますかね」
「まあ、お手柔らかにお願い致しますわ」
ふふ、楽しみです!
―――――
「いやはや…これはこれは…参りました。失礼ですがアークライト家でもなにか領地に関わることを行われていましたか?」
「いえいえ、簡単なものだけです。父がほぼやっておりました。私の権限でできることには上限がありましたし、その範囲内でしたら父から任せられていただけのことです。私は一人娘なので、婿に入ってもらうことも想定して補佐的な教育は一通りされていただけのことです」
「婿…ですか」
ん?ローガン様の顔つきが険しくなったわ。どうなさったのかしら?
「失礼ですが、アークライト侯爵は今もそのようにお考えに?」
「いえいえ、婿は最終手段だと申しておりました。私には望む相手と幸せな結婚をしてほしいと父は言っておりましたので。そろそろ分家から養子を取る予定でしたの。そうしたら、お父さまが再婚なさって。ちょうど妙齢のレイブンお義兄様がいらしたので、順当にいけばいまからお義兄さまに教育が施されて譲爵の流れになるかと」
「アークライト家の未来が不安ですな…」
「ん?なにか仰いまして?」
私の言葉にローガン様は良い笑顔になって返された。
「いやいやなんでもありません。そうですか。婿入りを所望とのことでしたら随分いばらの道になるな、と思っただけです」
「いばらのみち…?」
「ふぉふぉふぉふぉ、爺の戯言です。お気になさらず。さあ、…っと、こちらはエミュレー語の伝票ですね。後回しにしましょう」
「?エミュレー語は伝票は毎回後回しにするのですか?」
「残念ながら爺はエミュレー語は読めず。坊ちゃましか処理できないんですよ」
「あの…私、エミュレー語できますけど…お読みしましょうか?」
「はい!?エミュレー語もお出来になるのですか!?」
ローガン様がこれ以上ないほどに目を大きく見開いてびっくりされている。ええ…
「あ、はい…一応。勉学はとても好きだったんですの。特に母が亡くなってからは本ばかり読んでいましたので、そこでトゥーケ語、エミュレー語、インターナ語、モンフェス語、は習得いたしました。教師も付けて発音指導もしてもらったので、話すのと読み書きは出来ますわ。ジヴァリスの言葉だけ、会話は問題ないのですが、読み書きはまだ小児レベルです。ビジネスで使うにはもう少し勉強が必要ですね」
お恥ずかしい…といいながら頬を押さえると、ローガン様がもういよいよ訳が分からないという顔をして私を見ていた。
「信じられません…この国に隣接するすべての国の言葉を覚えていらっしゃる…と?ジヴァリスなど、遠く遠くの島国ではないですか。そんなところの言語など、この国でどれだけの人間が話せるでしょう」
「買いかぶりすぎですわ。そんな人きっとざらにいましてよ」
「いませんでしょうね…」
ローガン様はそうおっしゃるけど、そうでもないはずよ。きっと。
それから私はローガン様に言われるままに職務をこなしていった。
ローガン様はとても優しくて、きちんと休憩の時には甘いケーキと美味しい紅茶を淹れてくださって。穏やかな時間の中に、私はのほほんと身を任せていた。
――――――
「どうだったローガン。アンジェラの初仕事は」
夜になり、城から戻ってきた俺はローガンの部屋を訪ねた。いつもこの時間なら執務室にいてまだ書類の整理に追われているはずだが…と思って執務室にいったら誰もいなかったからだ。
「坊ちゃんおかえりなさいませ。申し訳ありませんお出迎えもせずに。少し考え事をしておりました」
「めずらしいな?お前がこの時間執務室にいないのは」
「それが…本日任されていた書類整理がすべて終わりまして」
「もう終わったのか!?…まさか」
俺の言葉にローガンはふうう、と息を吐いた。
「坊ちゃま、座りませんか?爺の夜酒にお付き合いくださいませんか?」
「いいぞ?」
ローガンの部屋のふかふかのソファに腰を下ろすと、爺自らグラスとワインを持ってきてくれた。
「おおよそ坊ちゃんの想像通りです。あれは、万年に一度現れるか現れないかの才女です」
「…詳しく」
「まず、仕事に無駄がない。今までもお父上の執務をいくつかお手伝いされてきたとのことでした。それを差し引いても、あまりにも仕事の処理能力が早いです。そしてミスがない。理論を完全に理解しておられます。数字の計算も、最初からミスはないのに、都度確認で二度再計算をされるので、全くのノーミスです。…あと、トゥーケ語のみならず、エミュレー語、インターナ語、モンフェス語を完璧に習得済みです。」
爺の言葉に俺は天を仰いだ。
「マジか…」
「嘘のような本当の話です。あと、読み書きはまだまだだが、ジヴァリスの言葉も話せるそうです」
「ジヴァリス!?文献でしか見たことのないような島だぞ!??」
「ちょっと齧った程度の知識で仰ってるのかと思い。すべての言語が書かれている契約書などの確認もしてもらいましたが…完璧でした」
俺はグラスの中のワインを一気に煽る。
「とんでもない拾い物をしてしまったな」
「まことに」
「…いずれ返さなきゃいけないものなのか?そんな優秀な人材、絶対に手放したくない」
「侯爵の記憶が戻らぬことを願うしかないですな」
「あの医者に金でも積むか」
「ご冗談を」
薄く笑い合うが、八割本気で考えてしまった。いや、しないけど!そんなことはしないけど!
「坊ちゃん」
「なんだ?」
「アンジェラ様、坊ちゃんの好みドストライクでしょう?」
ぶふぉおおおおおお!!!!っと、ワインを飲み込んでてよかったと心の底から思った。そうでなければこの赤い液体を部屋中にぶちまけるところだった。
「なっ!!!な、何を言ってるんだローガン!!!人をからかうのも大が…っ」
「からかってませんよ。爺は」
静かに放たれた一言に、あ、ローガンのマジ話だ…と俺は姿勢を正す。
「坊ちゃんを28年間お傍で見てきたんです。好みの女性のタイプくらいわかります。好み、というのを別のところに置いて考えても、坊ちゃんはアンジェラ様をそうとう気に入ってらっしゃるでしょう?爺は28年間で初めて見ました。女性を補佐として近くに置こうとされたのも、宝石やドレスを惜しみなく買い与えたのも」
「いや…っ。そ、それはあいつがあまりに何も持ってなくて…っ」
「坊ちゃんは貢ぎ体質ですから。拾ってきた猫に人間が住めるような家を造ってあげてたときは驚きを通り越してあきれたものです。でも、女性にこれほどまでに贈り物をしているのは、今まで見たことはありません。使用人の子が服を持っていないと聞いても、ワンピースやお仕着せを2、3着購入してあげてたくらいです。自分の瞳と髪の色と同じ宝石なんて論外です」
「ちが…っ!あれはアンジェラが…」
「誰が言い出したかなど、どうでも良いのです。買い与えたことに驚いているのです。…初めての感情なのでしょう?大事になさいませ」
ぐ、と言葉に詰まる。
「その…まだ、好きだとかそういうのではない、、、わけでもないんだが…。気が付けばアンジェラのことばかり考えているのは間違いない。…何を食べるのが好きなんだろう、とか…休みの日は何をすごしていたのか…とか」
「良きことです。今はそれで充分かもしれません。ですが、坊ちゃん。アークライト侯爵の記憶が戻り、アンジェラ様が侯爵邸に戻るとなったとき、引き留めるためにあらゆる策は講じておりませんと。爺は、坊ちゃんが泣くのは嫌ですよ?」
「さすがに…泣きはしないと思うが…」
「猫が姿を消したとき、二週間泣き続け、三か月も使い物にならなかった坊ちゃんからそれ聞いても信ぴょう性はありません」
「う…ち、小さい頃の話だ」
「本質は変わっておりませんから」
「う…」
どんどん小さくなっていくのが分かる。この爺には恥ずかしいところも何もかもみられてるから、いざというときは反論できない。
「なにはともあれ、時間を共に過ごすことが一番の近道かもしれませんな。明日は一日屋敷で執務でしょう?存分にお互いを知ってください。さあさ、坊ちゃん2杯目をどうぞ」
そう言ってローガンはワインを再び注いでくれた。




