第九部 二つの顧客
工場跡地での対話から数日、高城は自分の中に積み上がった情報を、もう一度整理する時間を必要としていた。
銀行には、二種類の顧客がいる。
一つは、預ける人――自分自身の人生を、一時的に、あるいは恒久的に手放したい人間。Eのように、暴力や脅威から逃れるために、自らの意志で銀行に自分を委ねる者たちだ。
もう一つは、消す人――他人の存在を、社会から取り除きたいと望む人間。宮村篤志のケースが、あるいはこちら側に属するのかもしれない、と高城は考えるようになっていた。そして、二十六年前の三崎紗季も。
この二種類の顧客のあいだには、決定的な非対称性があった。
「預ける人」は、多くの場合、切実な事情を抱えた弱者だった。逃げ場を失い、他に選択肢のない人間たちだ。
だが「消す人」は、違う。高城が調べを進めるうちに見えてきたのは、この側の顧客の多くが、すでに社会的な力を持つ人間たちだという事実だった。
二
「高城は、坂本のリストと、これまでの調査で得た情報を突き合わせ、依頼人――つまり、誰かを『消す』ことを望んだ側の人間について、可能な限りの情報を集めた」の後、
「第六部で洗い出した、非同意のまま『返却済』となった六件――そのうち、四件が『証人の排除』という、すでに見えてきたパターンに当てはまる。だが、残る二件については、また別の傾向が見えてきた。」
高城は、これらのケースを一つずつ辿り、依頼人――つまり、誰かを「消す」ことを望んだ側の人間について、可能な限りの情報を集めた。
ある企業の創業家。経営権をめぐる争いの渦中で、対抗する親族を「消す」ことを選んだ人物だった。対象者が消えたことで、経営権は一本化され、遺産の分配も、その人物に有利な形で決着していた。
ある地方議員の関係者。政治的な弱みを握っていた秘書が「消され」、議員はその後、疑惑を追及されることなく、地位を保ち続けていた。
ある富裕層の遺産相続をめぐるケース。共同相続人の一人が「消され」、残された者たちのあいだで、財産が再分配されていた。
パターンは、驚くほど一貫していた。
誰かを消すことで、財産、地位、会社、家族、過去の秘密――それらを手に入れる人間がいた。
三
高城は、この構造の輪郭を、ノートに書き出した。
「預ける人」にとって、銀行は、生き延びるための最後の手段だった。
「消す人」にとって、銀行は、何かを手に入れるための道具だった。
同じ一つの仕組みが、片方には救済を、もう片方には利益をもたらしていた。だが、その利益は常に、消された誰かの犠牲の上に成り立っていた。
高城は、坂本の言葉を思い出していた。
「どんな仕組みにも、傷つく人間はいる」
Gが語った、あの言葉も。
「必要悪だ」
だが今、高城の目の前にあるのは、単なる「必要悪」の域を超えた構造だった。銀行は、弱者を救う仕組みとして始まりながら、その仕組みの構造そのものを利用して、強者が弱者から、あるいは強者が別の強者から、何かを奪い取るための装置へと変貌していた。
人間関係そのものを再編成する装置。
工場跡地で会った女の言葉が、あらためて重くのしかかってくる。
四
高城は、この構造を裏付けるために、「消す人」側の証言を得ようと試みた。だが、この側の人間たちは、決して簡単には口を割らなかった。彼らは社会的な地位と、それを守るための法的な武装を持っている。高城のような一介の調査員が、正面から迫ることのできる相手ではなかった。
それでも高城は、粘り強く周辺情報を集め続けた。そして、ある企業の元役員――経営権争いの中で、対抗する親族を「消す」側についていた人物――に、間接的な形で接触することに成功した。
その人物は、匿名を条件に、ごく短く、こう語った。
「あれは、必要な決断だった。会社を守るためには、誰かが泥をかぶらなければならなかった」
「対象になった方は、その後、どうなったんですか」
「知らない。知る必要もない。契約が終われば、それで終わりだ」
その突き放したような口調に、高城はある種の恐怖を覚えた。Eが語った切実さや、Fが語った苦さとは、まったく異質な冷たさがそこにあった。
「消す人」にとって、消される側の人生は、単なる取引の対象でしかない。
高城は、この非対称性こそが、銀行という組織の、もっとも醜い部分であることを確信した。
五
「これは、逃亡幇助の組織なんかじゃない」
高城は、事務所に戻り、独りごちるように呟いた。
「人間関係そのものを、金と権力で書き換える装置だ」
苑田が最初に作り上げた、娘一人を救うための仕組み。それは、弱者を守るための、切実な善意から生まれたものだった。だがその仕組みは、時を経るにつれて、まったく別の性質のものへと成長してしまっていた。
高城は、ノートに大きく書き記した。
預ける人と、消す人。 救済と、収奪。 同じ装置の、二つの顔。
そして、その両方の顔の、もっとも早い時期の記録の中に――三崎紗季という少女の名前が、静かに存在している。
彼女は、いったいどちら側の存在だったのか。自ら望んで消えたのか、それとも誰かによって消されたのか。
高城の記憶の中では、十六歳の紗季は、明るく、未来に満ちた少女だった。自ら人生を手放すような理由は、どこにも見当たらなかった。
だとすれば――彼女は、「消される側」だった。
誰の意志によって。
そして、何のために。
高城は、その答えに、いよいよ直接手を伸ばすときが来たことを悟った。




