第八部 人生の売買
苑田が口にした「もっと詳しい人間」への手がかりは、意外な形で高城のもとに転がり込んできた。
介護施設を辞去する間際、苑田は高城に、一枚の古いメモを手渡した。震える文字で書かれた、電話番号とも住所ともつかない、暗号めいた文字列だった。
「これを、あの街の――古い電話ボックスの裏に貼っておきなさい。もし今も生きていれば、向こうから連絡が来る」
半信半疑のまま、高城は苑田の指示に従った。三日後、事務所の電話が鳴った。名乗らない相手だったが、待ち合わせの時間と場所だけを短く告げ、電話は切れた。
指定されたのは、深夜の、廃業した工場の跡地だった。
二
現れたのは、五十代半ばと見える、隙のない身なりの女だった。名乗らなかったが、高城はその佇まいだけで、この女がただの案内役ではないことを直感した。
「苑田さんの紹介、ということでいいですね」
「そうです」
「彼が、あなたに何を話したのか、だいたいの見当はつきます」女は、抑揚のない声で言った。「銀行の起源。娘を守るために生まれた仕組み。それが、いつしか変質していったこと」
「あなたは、今の銀行の――」
「運営に、深く関わっている人間の一人です。それ以上は名乗りません」
女は、高城をゆっくりと見据えた。
「あなたは、もう十分に真実へ近づいています。ここまで来たなら、いっそのこと、すべてお話ししたほうが早い」
「なぜ、私に話す気になったんですか」
女は、かすかに笑ったように見えた。
「苑田さんが、あなたを信頼したからです。それに――もう、隠しきれる段階を、とうに過ぎている」
三
「銀行が扱っているのは、人間そのものではありません」
女は、静かにそう切り出した。
「では、何を」
「――その人間が、社会に存在しているという権利です」
高城には、一瞬、その言葉の意味がつかめなかった。
「もう少し、具体的に説明していただけますか」
女は、頷いた。
「たとえば、ある人物が、社会から消えるとします。その瞬間、その人物が占めていたすべての『場所』が、空白になります。仕事のポスト、住んでいた部屋、築いてきた信用、交友関係、家族の中での役割――そのすべてが、一時的に、誰のものでもなくなる」
「それは、当然のことでは」
「ええ。ですが、その空白を、別の誰かが、意図的に利用できるとしたら」
高城の背筋を、冷たいものが走った。
「たとえば」女は続けた。「ある会社の役員が、不正の発覚を恐れて姿を消す。その空いたポストに、別の人間が、あらかじめ用意されたルートを通じて滑り込む。あるいは、ある人物の莫大な資産を狙う人間が、その人物を『消し』、遺産や名義を、正規の手続きを装って手に入れる」
「そんなことが、実際に可能なんですか」
「戸籍、住民票、金融口座、勤務先の記録――現代社会の『存在の証明』は、思っているよりずっと、書類とデータの積み重ねに過ぎません。そして、書類とデータは、正しい手順さえ踏めば、書き換えることができる」
女は、感情の読めない声で続けた。
「銀行は、その『書き換え』を専門に扱う組織へと、変質していきました。誰かを消し、その空白に、別の誰かを差し込む。それが、今の銀行の、本当の仕事です」
四
高城は、しばらく声が出なかった。
「つまり――銀行は、人を隠しているだけの組織ではなく」
「はい」女は頷いた。「人間関係そのものを、再編成する装置です。誰かの人生を消すことで、別の誰かに、新しい人生の土台を与える。両者のあいだに、直接の面識は必要ありません。必要なのは、金と、然るべき手続きだけです」
「それは、犯罪です」
「もちろん、そうです。ですが――」女は、初めて感情らしきものを声ににじませた。「この仕組みを利用しているのは、裏社会の人間たちだけではありません」
「どういう意味ですか」
「一部の企業。相続争いを抱えた資産家。政治的な立場を利用したい人間。表社会の中にも、この仕組みを必要とする人間は、想像以上に多く存在します」
高城は、これまでの調査で聞いた、断片的な言葉の数々を思い出していた。坂本が語った「空白」の噂。苑田が語った「取引の道具」という言葉。そして今、女の口から語られた、この仕組みの全貌。
すべてが、一つに繋がっていく。
五
「もう一つ、聞かせてください」高城は、声を絞り出すようにして尋ねた。「二十六年前、この街で起きた、ある再開発計画をめぐる疑惑について、何か知っていますか」
女は、しばらく沈黙した。その沈黙は、これまでのどの質問への反応よりも長く、そして重かった。
「その質問には、今はまだ答えられません」
「なぜですか」
「その事件は――銀行が、今も存続している理由そのものに、深く関わっているからです」
高城の心臓が、大きく脈打った。
「その事件について知りたいのなら、あなた自身の記憶を、もう一度たどり直す必要があります」
「私自身の、記憶?」
女は、それ以上何も語らず、静かに背を向けた。
「これ以上は、私の口からは言えません。ただ、一つだけ、助言をしておきます」
「聞かせてください」
女は、去り際に振り返り、初めて、高城の目をまっすぐに見た。
「あなたが探している少女は、被害者であると同時に――銀行が今も存在し続けている、直接の理由でもあります。その意味を、あなた自身が、いずれ理解することになるでしょう」
女の姿は、工場跡地の暗闇の中に、静かに消えていった。
高城は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
銀行が扱っているのは、人間の存在の権利そのもの。そして、三崎紗季という少女の存在が、今なお銀行というシステムを存続させ続けている、直接の理由になっている――。
その意味が何を指すのか、高城にはまだ、正確には理解できなかった。
だが、確かなことが一つだけあった。
この物語の中心には、常に、あの少女がいる。
二十六年前から、ずっと。




