第七部 銀行の起源
銀行の創設者にたどり着くまでには、さらに一月近い時間を要した。
高城は、坂本の伝手をさらに深く辿り、裏社会の中でも特に口の堅い層――金の流れそのものを扱う人間たちに接触していった。表の金融機関を退職し、裏の資金洗浄に関わるようになったという、初老の元銀行員。彼が、ようやく一つの名前を口にした。
「――苑田」
「苑田?」
「本名かどうかは知らない。ただ、業界の古株は皆、その名前を知っている。銀行という仕組みそのものを、最初に作った人間だ」
「今、どこに」
元銀行員は、しばらく躊躇った後、住所ではなく、ある場所の名前だけを教えてくれた。郊外にある、小さな老人介護施設だった。
「もう随分と歳を取っているはずだ。会えるかどうかは、あんた次第だがな」
二
その施設は、市街地から車で一時間ほど離れた、静かな丘の上にあった。
受付で名乗ると、思いのほかあっさりと面会が許された。案内された部屋には、車椅子に座った、白髪の老人がいた。年齢は八十代後半だろうか。窓の外の庭を眺めるその横顔には、裏社会の中心にいた人間とは思えないほどの、穏やかさが漂っていた。
「苑田さん、ですか」
老人は、高城の顔を見て、小さく微笑んだ。
「その名前を、もう長いこと誰も呼ばなくなった」
「あなたが――『銀行』を作った方ですね」
苑田は、否定も肯定もしなかった。ただ、静かに窓の外を見つめたまま、こう言った。
「あんた、探偵か何かかね」
「元刑事です。今は調査員をしています」
「そうか」苑田は、小さく頷いた。「なら、私の話を聞いても、あんたには理解できるかもしれないな」
高城は椅子に腰を下ろし、老人の言葉を待った。
三
「私には、娘がいた」
苑田は、遠くを見るような目で、静かに語り始めた。
「もう四十年近く前の話だ。娘は当時、二十歳そこそこでな。ある犯罪組織の人間と、深く関わってしまっていた」
「関わり、というと」
「詳しくは言えん。ただ、娘はその組織の内部で起きた、ある事件を目撃してしまった。組織にとって、決して外に漏らしてはならない出来事をな」
苑田は、しばらく言葉を切った。
「組織は、娘を消そうとした。文字通りの意味でだ」
高城は息を呑んだ。
「当時の私には、金はあったが、力はなかった。警察に頼るわけにもいかない。頼れば、娘の身が余計に危うくなることは目に見えていた。私は、あらゆる伝手を頼って、娘を守る方法を探し続けた」
「それが――」
「そうだ。娘を、完全に別人として、まったく別の場所で生きさせる。名前を変え、経歴を変え、これまでの人生の痕跡を、すべて消し去る。それが、私が思いついた、たった一つの方法だった」
苑田の声には、当時の必死さが、今もなお、色濃く滲んでいた。
「協力してくれる人間を、金の力で集めた。戸籍の専門家。住居の斡旋屋。身分証明を偽造する技術者。そういった人間たちを一人ずつ束ねて、娘を『消す』ための仕組みを作り上げた。それが――銀行の、最初の姿だ」
四
「娘さんは、今――」
高城が尋ねると、苑田は、初めて表情を曇らせた。
「生きている。どこで、どんな名前で生きているかは、私も知らない」
「知らない?」
「知らないほうがいい、と自分に言い聞かせてきた。もし私が知っていれば、いつか誰かに、私を通じて娘の居場所が漏れるかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならなかった」
高城は、その言葉の重みに、しばらく声を失った。娘を救うために、娘の消息を知る権利さえも、自ら手放した父親。
「最初は、それだけの仕組みだった」苑田は続けた。「娘一人を救うための、たった一度きりの仕組み。だが……」
苑田の声が、初めて苦さを帯びた。
「噂は、静かに広まっていった。似たような事情を抱える人間たちが、私のもとを訪ねてくるようになった。私はその一人一人を、断れなかった。娘を救うために作った仕組みを、他の誰かを救うためにも使ってほしいと頼まれれば――断る理由が、見つからなかった」
「それが、銀行という組織に発展していった」
「そうだ。最初の十年は、私が一人一人の事情を聞き、一人一人を、自分の判断で救っていた。だが、規模が大きくなるにつれて、私一人では手に負えなくなった。人を雇い、組織を作り、システムを整えた。皮肉なことに、それは本物の金融機関の仕組みを、そのまま真似ることになった」
「預ける、返す、という言葉も」
「そうだ。人間を『救う』という言葉より、『預ける』という言葉のほうが、扱う側にとって都合が良かった。感情を挟まず、事務的に処理できるようになる。それが……間違いの始まりだったのかもしれない」
五
「今の銀行は、あなたが作ったものとは、もう違うものになっている」
高城の言葉に、苑田は、深く長いため息をついた。
「ああ。もう随分前から、私の手を離れてしまった」
「いつから」
「正確には覚えていない。ただ、私が高齢になり、実務から退いた頃から、少しずつ、仕組みそのものの使われ方が変わっていったのは、感じていた」
「どう、変わった」
苑田は、しばらく沈黙した。それから、絞り出すように言った。
「最初は、『逃げたい人間を救う場所』だった。だが、いつの間にか――『都合の悪い人間を消す場所』として使われるようになっていった」
その言葉は、高城がこれまでの調査で辿り着いていた予感と、正確に重なるものだった。
「非同意の預け入れについて、知っていますか」
苑田の表情が、初めて強張った。
「……それは、私の仕組みには、本来あってはならないことだ」
「では、なぜ起きているんですか」
苑田は、答えなかった。ただ、震える手を膝の上で握りしめ、長い沈黙の後、こう言った。
「私が作ったのは、逃げ場のない人間に、逃げ場を与えるための仕組みだった。だが、それを引き継いだ人間たちの中に――逃げ場を、取引の道具として使う者たちが現れた」
「取引の道具、とは」
苑田は、高城の目をまっすぐに見た。
「あんたが本当に知りたいのは、私の話じゃないだろう。今の銀行が、何を売り買いしているのか――そこにこそ、あんたが探している答えがある」
高城の脳裏に、坂本から聞いた「空白」の話が、鮮明に蘇った。
誰かが消えることでできる空白を、別の誰かが埋める。
「教えてください。今の銀行は、いったい何を――」
苑田は、静かに目を閉じた。
「それを知るには、私よりもっと詳しい人間に会う必要がある。ただ、その人間に会うことは……あんたにとって、決して楽な旅にはならないだろう」
窓の外では、丘の上の木々が、風にざわめいていた。
高城は、苑田の言葉の重さを噛みしめながら、次に向かうべき場所を、静かに思い描き始めていた。




